最終章 中野屋二百年の終焉
終焉の予感
マッチも石鹸も、まだ高価な贅沢品だ。庶民には手が届かない。 だが、あの「シュッ」という軽やかな音は、カッカッカッという打撃音を少しずつ浸食し始めていた。
「親方、何を考え込んでるんです。ほら、おにぎり食べましょう。今日は鮭が入ってますよ」 留二が明るく振る舞う。
「……留二。お前、いつかマッチで火を熾すようになったら、俺のことを思い出すか?」
「何言ってんですか! 俺は一生、親方の火打金で煙草に火をつけますよ。マッチなんて、あんな軟弱なもん……」
そう言いながら、留二は小栗様から頂いたマッチの空き箱を、興味津々で眺めていた。
信重は再び横座に座り、留二は大槌を構えた。 マッチの火花は一瞬にして炎となり燃え尽きる。だが、俺たちの打つ火花は、使う者の指先に、そして心に、一瞬の輝きと、鋼の護身を残す。つまり火花を放つお守りだ。日本古来の切り火の原点で毎回浄化された炎を作る。
「留二、打て! マッチの野郎に、吉井の魂を叩き込んでやれ!」
「へい!!」
カッカッ! カッカッ!
その日、吉井の工房から飛んだ火花は、沈みゆく江戸の夕日に抗うように、ひときわ高く舞い上がった。それは、迫りくる「文明」という名の嵐に対する、職人たちの最後の咆哮のようでもあった。
カッカッ!カッカッ!
明治八年マッチ国産化
信重が恐れたことがいよいよ始まった。
明治九年。中野屋の工房に響く槌音は、湿った空気に沈んでいた。
士族授産・産業振興の一環としてマッチの国産化が推進さた。明治九年には旧加賀藩士・清水誠により東京• 本所柳原町(現墨田区、都立両国高校内)に新燧社( しんすいしゃ)といういかにも発火具が従来の火打金から「新しい煽」であるマッチに変わることを象徴するかのような社名の国産マッチ製造会社が設立された。
「……旦那。そんなに睨んでも、そいつは爆発しませんぜ」
弟子の留二が、煤けた顔で茶を差し出す。
「新燧社だと? いかにも『新しい火』と言わんばかりの社名だな。大久保利通公まで視察に来たという。政府がこの木っ端を担ぎ上げている以上、火打金の時代は終わる」
「まさか。シュッと擦ってポッ、ですよ? 情けねえ。男ならカチッと火花を飛ばして、指先に熱を感じてこそ人生ってなもんです。……ま、おかげで私の鼻毛は燃えずに済んでますがね」
「貴様の鼻毛はどうでもいい。問題は、廃刀令だ」
同年、廃刀令により武士の魂が奪われる。身分制度の廃止つまり武士階級は「士族」、大名や公家は「華族」、それ以外は「平民」となった。
廃藩置県では大名の領地が政府のものとなり、秩禄処分によって武士の俸禄も段階的に廃止になった。
それは刀工・信重にとって死刑宣告に等しかった。
「帯刀禁止だとさ。腰にさして、歩いてはいけないらしいぜ。」
背負って歩くものが実際出現した。
「そうやって屁理屈をこねる士族もいるが、客そのものが消えた。鞘師も研師も廃業だ。挙句、玉鋼を作るたたら場まで火を落とすという。……留二、俺たちは、何のために鉄を叩く?」
しかし士族から刀を物理的に没収することはなかった。刀が没収されるのは、第二次世界大戦後GHQの政策によってである。これは所持の禁止となる。GHQによって約三百万本の日本刀が失われた。軍刀を抜いての数である。
この明治六(1873)年、徴兵制の施行により、戦うのが仕事だった武士は役割を終えた。帯刀することは、武士に限られていたので、それまでは、町中を歩いていて一目で士族と判断できた。しかしこの廃刀令によって、士族も、農民も町民も身分がわからなくなった。それは「四民平等」という理念が可視化された瞬間であった。人々の意識を変える前に、外見を変えさせることで、新しい社会秩序を目に見える形で定着させたのである。
それに伴って、新たに日本刀を制作依頼するものもいなくなり、数百年続いた刀産業に関係するものは追い込まれる。刀工、研師、金工師(きんこうし・つば・つか等の刀装具を手掛ける職人)、鞘師、塗師(漆を塗る)と一振りの刀を作るには、多くの高度な専門職の手が加えられていた。それは武士階級という安定した顧客に支えられていたのである。
顧客のいなくなった刀産業は、その緻密な技を美術工芸品への転身として生きていくことになる。そして玉鋼も生産を中止していく事となっていく。
非効率な和鉄は洋鋼に駆逐され、多々良製鉄の火も大正末までに廃絶してしまう。
信重は、かつて父・兼重が愛用した古い大槌を握り直した。 「四民平等、か。外見を変えて身分を消す。聞こえはいいが、魂まで平民に成り下がってどうする。……俺は、このマッチ箱が逆立ちしても出せねえ火を、最後の一振りに込めてやる」
信重は、残された僅かな玉鋼を火床に投じた。 一週間、不眠不休で叩き上げたのは、刀ではない。一見すれば、何の変哲もない火打金だ。だが、その肌には名刀と同じ「地景(折り返し鍛錬の際に、炭素量の異なる鋼の境目などが、焼き入れによって地肌に黒い筋状に浮き上がったものである)」が走り、焼き入れの刃文さえ浮かんでいた。
その完成の日、工房に一人の老武士が訪れた。 ボロを纏い、腰の刀を失った男は、信重の火打金を手に取り、一度だけ石を打った。
カチッ。
その瞬間、工房の闇を切り裂いたのは、黄金色の龍のような火花だった。マッチの頼りない軽い火花とは違う、網膜に焼き付くほど鋭く、熱い光。
「……いい火だ」 老武士の眼に、涙が溜まる。
「刀は奪われた。だが、この火花を散らすたびに、俺は自分が武士であったことを思い出せる」
男は僅かな銭を置き、闇に消えた。
「留二。注文だ。これからは、火を売るんじゃない。……誇りを売るんだ」
武士、侍は仕事がなくなり、生活に困窮した。しかしマッチにより産業構造の配置転換が進み、士族の新しい仕事ができたのである。政府が推し進める「士族授産」——その実態は、武士の魂を捨ててマッチを作る内職であった。かつて肩で風を切って歩いていた士族たちが、情けない顔で小さな木切れを箱に詰めている。
そして明治十年頃から多数のマッチ製造会社が誕生した。マッチの勢いで火打鎌の衰退が本格化。他の火打鎌職人はいよいよ、恥も外聞もなく吉井本家の銘を使い、偽物を作り販売した。
そして、ついに吉井で火打金の銘問題で訴訟が起きた。
カッカッ! カッカッ!
明治十年の吉井。中野屋の工房に響く槌音は、どこか空虚に反響していた。
「旦那、見てくださいよ。あそこの元家老様、刀を振るう代わりにマッチ箱の糊付けですよ。器用なもんですねぇ」
弟子の留二が、皮肉まじりに外を指差した。
「笑うな、留二。あれは明日の俺たちの姿かもしれんのだぞ」
信重は、手元の火打ち金を厳しく見つめた。
カッカッ! カッカッ!
冬の吉井に響くその音は、もはや時代の鼓動ではなく、断末魔の叫びのように聞こえた。数百年続いてきた「火打鎌」という帝国の、終焉の合図であった。
泥沼の「商標」争い
マッチの普及は、火打金業界を絶望の淵に叩き込んだ。市場が狭まれば、残ったパイを奪い合う醜い争いが始まる。 吉井の町では、かつてない事態が起きていた。他の火打鎌職人たちが、いよいよ食い詰め、「吉井本家」や「中野屋」という偽の鏨名を堂々と打ち始めたのだ。
ある日、信重の元に、横田屋や福島屋といった同業者が連れ立ってやってきた。
「よう、信重。おめぇんとこだけ『本家』を名乗って儲けるのは不公平じゃねえか。これからは吉井で作ったもんは、全部『吉井本家』って名乗ることにしたからよ。文句はねえな?」
「何だと? 偽物の粗悪品にうちの名前を打つなど、火打金の寿命を縮めるだけだ。客を騙してまで食う飯は旨いか!」
信重が激昂すると、福島屋はくすっと鼻で笑った。
「旨いも不味いも、飯がなきゃ死ぬんだよ。おめぇみてぇな『ぼんぼん』には分からねえだろうがな。……嫌なら、お上(役所)にでも訴えるんだな」
「……ああ、そうしてやる。この火打金の一振りに、どれだけの意地が籠もっているか、法廷で白黒つけてやろうじゃないか」
これが、吉井の町を二分した「火打金銘問題訴訟」の幕開けであった。
鉄の涙、父の遺言
裁判が始まると、信重は連日のように高崎の裁判所へ通った。 だが、相手側は卑怯だった。
「『吉井本家』とは地名を表すものであり、特定の個人の商標ではない」 「中野屋こそ、我ら職人の共有財産を独占しようとしている強欲だ」
虚偽の証言、裏での根回し。信重は精神的に追い詰められていった。
ある夜、信重は亡き父・兼重の墓前に座り込んだ。
「おやじ……。鉄を叩くより、人間を相手にする方が、よほど熱くて息苦しいよ。いっそ、看板を捨ててしまえば楽になれるんかね?」
その時、闇の中から聞き慣れた声がした。
「……親方。何、湿っぽいこと言ってるんですか。墓石に涙をかけても、火花は散りませんぜ」
留二だった。彼は、懐から一本のマッチを取り出した。
「ほら、これを見てください。マッチですよ。便利で、軽くて、誰にでも火が点く」
留二はマッチを擦った。小さな、ひ弱な炎が灯り、風に吹かれてすぐに消えた。
「マッチは、消える時に何も残さない。でも、旦那の打つ火打ち金は、叩けば叩くほど石が削れ、鉄が減り、その『痛み』が火花になるんです。吉井の偽物野郎たちの鉄からは、あんなに綺麗な火花は出ねえ。俺が一番よく知ってます」
留二は、信重の手に一丁の、ひどく錆びた火打金を握らせた。
「これ、さっきの元家老様が内職の合間に使ってた、先代兼重親方が打った古い火打金です。ボロボロになっても、『中野』の銘だけは誇らしげに光ってやがった。……看板ってのは、名前じゃない。信じてる奴らの『記憶』なんですよ」
信重は、その錆びた鉄の冷たさに、父の掌の熱さを感じた。
「……そうだな。俺が守らなきゃならんのは、金儲けの看板じゃない。この鉄を信じて、暗闇を照らしてきた人々の心だ」
法廷の火花
裁判の最終日。信重は、証言台に立った。 裁判官は冷淡に問いかけた。 「中野孫三郎信重殿。他者が『吉井本家』を名乗ることで、貴殿にどのような実害があるのか。名前など、どれも同じではないか」
信重は、懐から二つの火打ち金を取り出した。一つは福島屋の偽物、もう一つは、先ほど留二から渡された、父・兼重が打った古い錆びた一丁だ。
「裁判長。お許しをいただけるなら、ここで一度だけ、火を熾させてください」
静まり返る法廷で、信重はまず偽物を手に取った。 カチッ。カチッ。 鈍い音が響くだけで、火花はほとんど飛ばない。
「これは、人を騙すために作られた鉄です。形は似ていても、中身は空っぽだ」
次に、信重は父の錆びた火打金を構えた。
「これは、二十年前、父が名もなき士族に売ったものです。錆び、擦り減り、寿命は尽きかけている。……だが、見ていてください」
信重が石を振り下ろした。
カカカカッ!!
法廷の薄暗い天井まで届くような、鮮烈な黄金色の火花が、滝のように降り注いだ。 その光は、傍聴席にいた裏切り者の職人たちの顔を、残酷なほど明るく照らし出した。
「名前を盗むことはできても、この火花を盗むことはできない! この火花こそが、吉井本家の真実です!」
法廷内がどよめきに包まれた。 裁判官も、その余熱に圧倒されたように、しばらく言葉を失っていた。
終わりの始まり
訴訟の結果、中野屋の「吉井本家」としての正統性は認められた。 だが、勝利の喜びは長くは続かなかった。 マッチの波は、もはや判決一つで止められるものではなかったからだ。
「旦那……勝ったのに、注文は増えませんね」 留二が力なく笑った。
「ああ。時代が、火打金を必要としなくなっているんだ。……だがな、留二。俺は、日本最後の火打鍛冶屋になっても、この『本物』を打ち続けるぞ」
落日の吉井本家
中野孫三郎信重は、工房で一人、最高級の鋼を叩いた。かつて、忠治一家の守護神となり、大前田栄五郎の島抜けの道具となる。浪士隊の面々にいつくしまれ、天狗党の細貝實を支え、和宮親子内親王の下向に火花を添え、富岡製糸場の工女たちに「お守り」として崇められた吉井本家の火打鎌。しかし今、信重の目の前にあるのは、山のように積み上がった「売れ残り」の在庫であった。
「あんた、また江戸の丸文様から手紙が届きましたわよ」
妻のキタが、重い足取りで工房に現れた。
「……なんて書いてある」
「『吉井の火打ち』は今でも江戸っ子の代名詞。しかし、肝心の売上は崖を転げ落ちるようでございます、と。明珍も枡屋も取り扱いを止めました。うちだけは最後まで置きますが……注文は出せません、と」
信重は槌を置いた。
「崖を転げ落ちる、か。奴、相変わらず言い方がきついや。ハハハ……」
垂直落下の絶望
しかし、その「崖」は想像を絶する谷の深さだった。明治八年の国産マッチ解禁を境に、中野屋を襲ったのは「斜陽」などという生温かい言葉では片付けられない、文字通りの「破滅」であった。
「旦那様! 大変です、江戸の荒物問屋から一斉に返品が届きました!」
奉公人の悲鳴が響く。大八車に山積みされた木箱には、かつて「家内安全のお守り」として誇らしげに出荷したはずの火打鎌が、薄汚れた藁に包まれて戻ってきた。
「『マッチの方が安くて早い。鉄の塊は高くて遅くて重くて売れん』……そう言われました。代金の支払いどころか、未払いの買掛金と返品を相殺しろと強引に迫られています!」
さらに追い打ちをかけたのは、売上の八割を占めていた最大手「丸文」の通告だった。名主の文右衛門が、冷徹な書面一通で取引中止を突きつけてきたのだ。キタは丸文の二女。実家からの縁切りに、彼女は文面を握りしめて震えた。
「文右衛門さん、あんたまで見捨てるのか! キタの顔を立ててはくれないのか!」
信重が本陣へ乗り込むと、文右衛門は帳面から目を上げることすらしなかった。
「信重、これは商売だ。火打金の市場はわずか二年で百分の一にまで縮んだ。もはやゴミを扱っているのと同じだ。我が丸文は今、生糸とマッチに全力を注いでいる。お前の火打ちの在庫を引き取る余裕など、毛頭ない」
中野屋の資金繰りは、瞬く間に火の車となった。昨日までの「吉井の長者」が、今日は日銭に困る窮状。信重は、先代・兼重が残した蔵の家宝を二束三文で質に入れ、職人たちの給金を工面した。
「いいか、みんな。このマッチのブームも一時的なもんだ。日本人が、あの吉井の火花を忘れるはずがねえんだ」
信重は虚勢を張ったが、給金が遅れ始めると、長年連れ添った熟練の鍛冶職人たちが一人、また一人と、道具を置いて黙って去っていった。
「病院山」と呼ばれ、吉井の誇りだった広大な山林も、負債を減らすため丸文へ譲渡せざるを得なくなった。
信重が博打という底なしの沼に足を踏み入れたのは、職人としての矜持が、激動する時代の濁流に呑み込まれ、ひどく磨り減ってしまったがゆえの悲劇だった。小栗上野介という巨大な精神の支柱を理不尽な斬首で失い、自分が精魂込めて打ち上げた火打金が、マッチという文明の「軽い火」に駆逐されていく。その残酷な現実を直視するには、彼の魂はあまりに繊細で、正直すぎたのである。
信重は、藁をも掴むような切迫した心地で、無意識のうちに博打へと手を伸ばし始めた。賽の目が盆の上を転がり、勝負の帰趨が決まる一瞬の刹那――その凝縮された熱狂の中にいる時だけは、脳裏に焼き付いた小栗の最期も、消えゆく火打金職人としての焦燥も、すべてを忘却の彼方へ追いやることができた。それは、崩れゆく日常からのあまりに無様で、切実な逃避行であった。
しかし、吉井の街で「中野孫三郎」の名はあまりに重く、通り過ぎる誰もが彼の顔を知っている。職人の家門を汚す醜態を地元で晒すわけにはいかず、彼はわざわざ数里離れた高崎の街まで足を運んだ。当時の高崎は北関東随一の絹の集積地であり、信重は店を守る妻のキタや奉公人たちに対し、「絹市場の動向を視察し、新たな火打金の販路を探ってくる」ともっともらしい口実を設けては、家を出るようになった。
絹市場が立つ田町は、当時「お江戸見たけりゃ、高崎田町」と謳われるほどの未曾有の賑わいを見せていた。だが、その華やかな表通りのすぐ隣、柳川町の一角には、男たちの欲望と絶望を飲み込む深い闇が口を開けていた。遊郭、居酒屋、そして秘密の賭場。そこには市場で動く莫大な金に群がるように、裏の支配者たちが根を張っていた。
商業が隆盛を極める場所には、必ずと言っていいほど「貸元」が存在する。彼らは腕力と度胸で街の安全を確保するという名目を掲げ、商人たちから執拗に「みかじめ料」を徴収していた。その見返りは、表向きの身の安全だが、実態は逆らう者を容赦なく叩き潰すための支配権の確立である。当時の高崎を縄張りとしていたのは、泣く子も黙る大前田一家の子分、和田の六兵衛であった。
信重は、その六兵衛が仕切る闇賭場へと、吸い寄せられるように通い詰めた。元来、信重に博打の才能などあるはずもなく、また重度の博打癖があったわけでもない。しかし、六兵衛のような海千山千の博徒にとって、精神を病んだ「羽振りの良い職人」ほど御しやすい獲物はいない。六兵衛は信重が火床で培った異常なまでの集中力を逆手に取り、絶妙な「負けさせ方」で彼の自尊心を煽りながら、知らない間にその資産をじわじわと、かつ確実に剥ぎ取っていった。
最初は懐の小銭の賭け金であったものが、やがて店の大切な運転資金となり、それすらも賽の目に消えた。極限まで追い詰められた信重は、ついに正気を失った。賭け金が底をつくと、彼は職人の誇りであったはずの「中野屋」の土地、先祖代々受け継いできた家財道具、果ては仕事道具のすべてを担保に入れるという、狂気の証文に指印を突いた。
六兵衛の冷徹な薄ら笑いの先にあるのは、もはや現実逃避のまどろみではなく、愛する家族と歴史ある吉井本家の暖簾が、一瞬にして露と消える絶望の淵であった。信重が必死に握りしめていたはずの「鉄の守護神」は、今や冷酷な貸元の帳簿の中に書き込まれ、その火花は今にも掻き消えようとしていた。
「あんた、お願いだからもう止めて……」
キタが涙ながらに縋ったが、信重は狂ったように、いや、狂っていた。
深夜まで槌を振り続けた。何を打っているのかもわからない。
カッ! カッ! カッ!
売れるあてのない火打鎌が、冷たい月明かりの下で山を成す。それは、もはや富を築く製品ではなく、一家を押し潰そうとする巨大な鉄の墓標であった。
嫌われる努力
その頃、信重の妹・タケは伊勢崎の嫁ぎ先にいた。夫・佐太郎の暴力は日に日に激しさを増し、タケは離縁を決意していた。
「そうだ、嫌われりゃいいんだわ」
タケは、持ち前の明るさを「狂気」に変えて、佐太郎を追い詰める作戦に出た。
ある日の夕方、農作業から帰った佐太郎が怒鳴った。
「タケ! 飯はまだか!」
「あいよ、今出すよ!」
タケは、わざと爪の間に真っ黒な泥を詰めた手で、沢庵を手づかみにして皿に盛った。
「ほれ、食いな。隠し味はあたしの指の垢だよ」
「……きったねえな! 手を洗え!」
ベシッ! 佐太郎の平手が飛ぶ。 (心の声:いってぇ……。平手打ちは計算外だわ。次はもっと汚くいこう)
翌日。
「タケ、着物は洗濯したのか!」
「できてるよ。西洋式の最新の洗い方さ」
佐太郎が着ようとした着物は、ジャリジャリと砂がこぼれ、ひどい異臭を放っていた。
「おい、これ砂がついてるぞ! 洗ったのか!」
「当たり前だい。水を使わずに砂で汗を吸い取らせる。これぞ文明開化の乾式洗浄だよ!」
「嘘つくんじゃねえ!」 ベシベシベシ! 佐太郎の連打が続く。
そして最後の手。
「おーい、今夜は酒を飲むぞ!」
「あんた、今日は奮発して『西洋のビール』ってのを手に入れたよ。ぬる燗が一番美味いんだってさ」
タケは、隣で息子の政吉が桶に溜めてさきほど出したばかりの「小便」を、徳利に入れて出した。
「おお、気が利くじゃねえか」
一気に飲み干した佐太郎が、顔を真っ青にして吐き出した。
「……マジー! しょんべんくせえぞ、これ!」
「そんなことないよ。熟成された麦の香りだよ」
「この尼あああ!」
佐太郎の拳骨が乱れ飛ぶ。タケはボロボロになりながらも、最後は「お稲荷様が憑いた」と村中で狂言を演じ、ようやく離縁状を勝ち取った。
富岡の隠れ家と政吉の光
タケが政吉を連れて吉井に戻ったとき、そこには驚愕の光景が待っていた。 中野本家の家屋は競売にかけられ、信重とキタは夜逃げ同然に富岡の在へ隠れ住んでいたのだ。債権者の目を盗み、最小限の鍛冶道具だけを大八車に積んで、闇夜に紛れて逃げ出した果てだった。
タケがようやく見つけ出した兄の姿は、あまりにも惨めだった。 かつての「火打ちの王者」は、朝から安酒をあおり、手の震えが止まらないアルコール中毒に陥っていた。
「あんちゃん、しっかりしてよ! 道具はまだあるじゃない!」
「……タケか。もうダメだ。マッチがあれば、火打ちなんてゴミだ。俺はゴミを打ってたんだ……」
信重はうつ病に沈み、一日中どんよりとした目で天井を見つめていた。
そんな中、希望の光となったのが、十五歳になったタケの長男・政吉であった。
「孫おじさん、オレに教えてよ。鍬の直し方、火打の叩き方」
政吉は、酒に溺れる伯父の横で、泥まみれになって働いた。農具を作り、わずかな賃金を得て一家を支えた。信重は、政吉に技術を聞かれる時だけ、かつての目の輝きを取り戻した。
「……政吉、鉄は熱いうちに打て。そこはもう少し冷めてるぞ。鉄が悲鳴上げている。泣いてるぞ」
その瞬間だけは、中野屋二百年の魂が繋がっているように見えた。
悲劇の雪の夜
明治十三(1880)年。冬の寒さが一段ときつい朝だった。 キタが目を覚ますと、炉端のそばで信重が横たわったまま動かなくなっていた。顔は、肝硬変の末期症状で不気味なほど黄色く染まっていた。
「……あんた?」 享年三十九歳。 かつて上州の空に数えきれないほどの火花を散らした男は、安酒の匂いの中で静かに息を引き取った。葬儀を出す金もなかった。ひっそりと庭に埋めるような寂しい別れ。しかし、悲劇は死後も終わらなかった。
奈落への追い打ち
信重の四十九日も過ぎぬある日。家の外で野太い声が響いた。
「おい! 中野孫三郎信重はいるか! 借金を返してもらおうじゃねえか!」
現れたのは、悪名高い金貸し・和田の六兵衛であった。
キタが震えながら応対した。
「……信重は、昨冬に亡くなりました」
「死んだ? ケッ、逃げやがったか。じゃあ女房、あんたが代わりに払え。利込みで三百円だ」
「法律では、破産した際に吉井の土地も建物も競売にかけられ、清算が終わっているはずです!だんなの借金だし 私は関係ないわ!」
キタが必死に叫ぶと、六兵衛は下卑た笑いを浮かべて土足で上がってきた。 「法律?そんな決まりはねえぞ! 人情ってのがあるだろうが。家族が払うのがあったりめーじゃねいかい。それが常識だろう?女房が払えねえなら、そのツラを拝ませろ。まだ女郎屋で売れるかもしれねえな」
「やめて! 帰って!」
奥からタケが飛び出してきた。 それからというもの、取り立ては日増しに激しくなった。六兵衛が来るたびに、タケはキタを天井裏や押し入れに隠し、自ら矢面に立って罵声を浴びた。
「キタはどこだ! 出せ!」
「いないよ! どっかへ消えちまったよ!」
「嘘つくんじゃねえ! そこに隠れてるんだろ!」
六兵衛はタケを突き飛ばし、家中を荒らし回った。タケもまた、精神を病んでいった。
「キタが払えねーなら、おまえさんタケが払えばいいだろうがよ。信重の妹ならそのぐれーやってやってもいいじゃないかい?それともあんたのせがれの政吉に払わせたらどうだい。まだ若けーし、今から仕込めばいっぱしのっ渡世人になれるぜ。はじめは三下だがな。」
三下とは博徒や任侠組織における最下層の階級のことである。
貸元(親分)代貸(二番手)出方(現場責任者)の上からの三段階階層のその下という意味である。人間として扱われることはなく、汚れ仕事や親分の世話などを強制され、上の者には絶対服従であった。もちろん俸禄(給金)などなくわずかの食事のみで働く「食い詰め」が多かった。
六兵衛は政吉を狙った。
自分とは関係のない借金に追い詰められ、日々恐怖に怯える生活。その様子を押し入れの隙間から見ていたキタは、涙を流し続けた。
「……あたしがここにいる限り、みんなに迷惑をかける」
消えた火花
明治十五(1882)年。 キタの精神は限界に達した。
自分がいることで、義妹のタケや、若い政吉の未来まで奪っているという自責の念。
ある嵐の夜。キタは書き置き一つ残さず、富岡の隠れ家から姿を消した。 タケと政吉が必死に山中を探したが、彼女の行方を知る者は誰もいなかった。入水したのか、あるいは遠くの街へ売られていったのか。
中野孫三郎信重の妻キタ・行方不明。
ここに火打鎌鍛冶屋としての中野屋吉井本家は終焉を迎えることとなった。
1670年ころから続いた中野屋は二百年の歴史を閉じたのである。
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あとがき
「吉井町郷土資料館」と高崎市「あかりの資料館」には、沢山の古びた火打金が展示されている。 かつておみつが持ち、信重が守り、留二が笑い飛ばした、あの鉄の欠片だ。
カッカッ! カッカッ!
耳を澄ませば、今でも風に乗って聞こえてくる。 それは、どんなに時代が変わろうとも、火打金で熾す火花の意味を私たちに残してくれる。マッチやライターで熾すことのできない浄化と護身の証だ
中野孫三郎兼重から始まった物語は、いま、あなたの心の中に「小さな火花」となって、静かに灯っている。
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しかし物語はまだ終わっていない。
伊勢屋で拾われた兼重の実の子・紋次郎。
そして、中野家の本家を継ぐことになったタケと政吉。
この二つの枝分かれした人生の中で、生き続ける鋼の魂がいまでも続いている。
燧の音色・完結




