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燧の音色  作者: 野宿の匠


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第14章 富岡製糸

赤鬼

明治五年、上州吉井。この頃、吉井本家「中野屋」は、まさに昇天の勢いの中にあった。幕末の動乱を潜り抜け、新時代・明治を迎えてもなお、二代目・中野孫三郎信重の打つ火打鎌は「吉井の鉄は火の出が良い」と全国にその名を轟かせていたのである。一方で小栗様よりいただいた「マッチ」に暗雲が立ち込める予感をかみしめていた。

不安をかき消すために自分自身を直視できない発言も飛び出す。


「マッチ? あんな指先で折れるような脆弱な棒切れが、我が吉井の鋼に勝てるわけなかろう。火を熾すのは『気合』と『鉄』だ。そうだろ、キタ?」


工房で汗を流す信重が、妻のキタに同意を求めた。キタは、仕上がった火打鎌を布で磨きながら、そっけない返事をした。 「ええ、ええ。そうでしょうね。でもあんた、最近は火打ちを打つ合間の『お蚕様』のお世話の方が忙しいんじゃない?昨夜も寝床で『お蚕様が桑を食う音が雨音のように聞こえて、情緒があるなあ』なんて寝言を仰って」


「それを言うな。上州の男は、かいこに食わせてもらって一人前なんだ。お蚕様は『絹のなる木』、いや『うごめく、小判』だからな」


そう、当時の上州にとって、養蚕と絹は現代でいうところの「自動車産業」であった。富岡に建設されようとしている製糸工場は、さしずめ「世界最大の自動車組み立て工場」が田舎に突如出現するような、国家規模の衝撃だったのである。


そこへ、吉井宿の名主であり、時代の風をいち早く察知する男、堀越文右衛門が、袴の裾を乱しながら飛び込んできた。

「信重! 工房で油を売っている場合か! 大変なことが起きるぞ!」

「文右衛門さん、落ち着いてください。マッチが吉井に攻めてきたんですか?」

「マッチどころではない! 隣の富岡村だ。フランスから『ポール・ブリュナ』とかいう、天狗の親玉のような異国人を招いて、世界で一番でかい製糸工場ができることが決まった。日本をまるごと絹の国に変える、巨大な『お城』が建つんだ!」


信重は槌を落としそうになった。

「フランス……? あの、パンを主食にしてワインとかいう赤い泥水を飲む連中ですか」

「そうだ。そのブリュナとかいう男は、技術を教える代わりに、日本人の想像を絶するような生活を求めているらしい。信重、この辺の農家は、お蚕様を山ほど作れば、将来安泰、蔵が建つぞ。お前のところも火打ちより、桑畑を広げたほうがいい!」


「へい! 良い話をありがとうございます!」

信重は威勢よく答えたが、奥から顔を出した妹のタケが不安げに眉をひそめた。

「あんちゃん、大丈夫なの? 外国人が来るなんて……噂じゃ、あの人たちは『生きた日本人の若い娘の血』を飲むって聞くわよ。富岡の娘たちがさらわれて、樽の中に詰められて、赤い瓶に絞り出されるんだそうよ!」


「馬鹿なことを言うな、タケ。それはワインという酒だ。……多分な」 信重は自信満々に言ったが、彼の心の中にも、正体不明の「近代化」という嵐への予感が、火花のようにパチリと弾けた。


異国人の襲来と「生き血」パニック

数ヶ月後、富岡についに「それ」は現れた。鼻は天狗のように高く、顔は酒を飲んだわけでもないのに常に赤く、目は青い。そして、服の上からでも分かるほどの強烈な「脂の匂い」をさせている異国人たちである。


「出たああ! 脂臭い天狗だ! 生き血を抜かれるぞー!」 子供たちが叫びながら逃げ惑う。ポール・ブリュナを筆頭とするフランス人技術者たちは、悪気なく村の家々を覗き込み、土足のまま畳に上がろうとして、家主に竹箒で追い出されるという喜劇が各所で繰り広げられた。


ある日、信重の家にもその「天狗」が迷い込んできた。

「オー、シルク! ベリーグッド、カイコ!」

ブリュナが、信重の家の蚕室を覗き込んで感嘆の声を上げた。

「おい、こら天狗! 靴を脱げ! そこはお蚕様の神聖な寝所だぞ!」

信重が必死にジェスチャーで伝えると、ブリュナは不思議そうな顔をしながらも靴を脱いだ。しかし、そこから漂ってきたのは、チーズと獣肉を常食する民族特有の、濃厚な「体臭」であった。


「うっ……! 旦那様、これは何の匂いです? 納豆を三日三晩、馬の鞍の下で熟成させたような……」

キタが鼻をつまんで奥へ逃げ込んだ。

「失礼だろう、キタ! ……グー、テンフォー。アイ・アム・ナカノ。ファイヤー・スチール・マスターだ!」


ブリュナは信重の腰にある火打鎌に目を留めると、

「オゥ、スチール! ヴォ、ヴォン(良い)!」

と頷き、懐から小さな銀の箱を取り出した。シュッと擦ると、先端に火が灯る。

「な、なんだそれは。石も鎌もいらんのか?」

「マッチ、ウィ」

彼は、日本の鍛冶に興味を持ち、火床、箸、鎚などの道具と素材となる玉鋼を熱心に見ていた。通訳の者が質問を沢山してくる。

最後にお礼に夕食をご馳走したいと。富岡の寄宿舎に招待を受けた。




ブリュナは自慢げに笑うと、今度は赤い液体が入った瓶を取り出し、グラスに注いで飲み始めた。


「あっ! あんちゃん、見て! 始まったわ!」

タケが叫んだ。

「ブリュナさんが、日本人の娘から絞り取った『生き血』を飲んでるわ!」 「ひえぇぇ! 助けてくれ! 飲み干されたら骨も残らんぞ!」

信重たちは、ブリュナが優雅にワインを嗜む姿を、恐怖に震えながら見守るしかなかった。さらに、ブリュナは持参した包みから、赤身の肉を取り出し、そのまま火で炙り始めた。


「おい、あれは……牛じゃないか?」

「旦那様、牛を食べるなんて、それもよく焼かずに生で食べてます。地獄に落ちますわ! 江戸の昔から、四つ足の動物を食うのは、不浄なこととして禁じられているのに!」

信重夫婦は、異国人の「食の暴力」を前に、文明開化の恐ろしさを骨の髄まで叩き込まれたのである。食べることができたのは野菜とパンだけであった。


ウサギは鳥か、獣か。

「牛や豚を食べるなんて、到底ついていけないわ」

タケが夕飯の支度をしながら愚痴をこぼした。今日の夕飯は、信重が山で仕留めてきたウサギの汁物である。

「まあ、そう言うな。異国人には異国人の理屈があるんだろう。俺たちだって、こうしてウサギを食べてるじゃないか」

「それは違います、兄さん。ウサギは鳥ですから」


信重は箸を止めた。

「……鳥? タケ、どう見てもこれは四つ足で、毛が生えていて、耳が長い獣だろう」

キタが横から真顔で補足した。

「何を仰っているんです、旦那様。ウサギは『一羽、二羽』と数えるでしょう? あの長い耳は羽なんです。ぴょんぴょんと空を飛ぶように跳ねるから、あれは鳥なんです。だから食べていいんです。豚は『一匹、二匹』でしょう? 匹は漢数字の四に似てるでしょう?だから四つ足の獣はたべてはいけない。あれは獣ですからダメなんです」


信重は首を傾げた。

「なるほど、数え方が鳥なら鳥なのか。じゃあ、あのフランス人のブリュナが牛を『一羽、二羽』と数え始めたら、牛も鳥になるのか?」

「そんな屁理屈、お天道様が許しませんわよ。でも、あの赤顔の天狗さんならやりかねませんわね」


上州の職人気質な頑固さと、生活の知恵から生まれた「数え方の妙」。信重は、自分たちが守っている伝統と、ブリュナが持ち込もうとしている「合理性」の間にある、深くて笑える溝を実感していた。


渋沢栄一と尾高惇忠の来訪

富岡製糸場の建設が進む中、吉井の街に二人の大物が姿を現した。一人は、大蔵省の官僚として近代化を推し進める渋沢栄一。もう一人は、渋沢の従兄であり、製糸場の初代場長(工場長)に任命された尾高惇忠である。


「信重、今日はお客様だぞ!」

文右衛門に案内されて工房に入ってきた二人は、土埃にまみれた信重の仕事をじっと見つめた。

「ほう、これが有名な吉井の火打ちか。実に見事な鋼だ」

渋沢栄一が、感心したように火打鎌を手に取った。

「渋沢様、尾高様、ようこそお越しくださいました。火打ちしか能のない男ですが」


尾高惇忠は、真剣な眼差しで信重に語りかけた。

「信重殿、実は困っていることがある。富岡の工場を作ったはいいが、肝心の『工女』が集まらんのだ。フランス人が生き血を飲むという根も葉もない噂のせいでな」

「ああ、やはり。たわしたち夫婦はブリュナーの家で夕食の招待をうけ生き血を飲んできましたよ。はははは」


渋沢栄一が苦笑しながら続けた。

「そこでだ、信重殿。まずは地元の信頼ある家から娘を出してほしい。尾高の娘、ゆうも第一号として入る。そして君には、火打ちを売り歩くついでに、ワインは血ではなくブドウの汁だと、面白おかしく触れ回ってほしいのだ。君の言葉なら、民衆も笑って信じるだろう」


「……この信重、大役を承りました。火花を散らすのは本業ですが、デマを散らすのは御免ですからな。真実の火を灯して歩きましょう!」

信重の威勢の良い返事に、渋沢たちは満足げに頷いた。


工女たちの不安と葛藤

「嫌よ! 私、血を抜かれるなんて絶対に嫌!」 吉井の農家の娘、おハナが泣きじゃくっていた。彼女は富岡製糸場への採用が決まったものの、恐怖で足がすくんでいる。タケが彼女の肩を抱いて慰める。

「おハナちゃん、大丈夫よ。あんちゃん夫婦が、あのフランス人と一緒にワインを飲んで、ピンピンしてるんだから」


しかし、工場での生活は不安の連続だった。見たこともない蒸気機関の音、レンガ造りの巨大な空間。そして何より、ポール・ブリュナの指導である。 「違う、そうじゃない! 糸を均一に引け!」 ブリュナのフランス語の怒鳴り声(実際には励ましだったが)に、工女たちはビクビクして糸を切ってしまう。


「……私たち、本当にこんな機械の部品みたいになっちゃうのかしら」

おハナが零した涙が、繭を煮るお湯の中に落ちた。そんな彼女たちを支えたのは、工場長の娘・尾高勇であった。

「みんな、泣かないで。私たちは、この細い糸で、新しい日本を織り上げているのよ。私たちの手が、世界中を驚かせる絹を作るの」


勇の凛とした姿に、工女たちは少しずつ前を向き始めた。


道具から「お守り」への変貌

ある日の夕暮れ時、信重が富岡製糸場の厨房に菜切包丁の納品に訪れた。そこで彼は、不安げに機械を見つめる工女たちの姿を目にした。彼女たちは故郷を離れ、未知の技術と格闘し、さらには「異国の魔術」に怯えている。


「信重さん。この娘たちは、毎日が戦いなのです。どうか、彼女たちの心を支える『何か』を打ってはくれませんか」

尾高勇の頼みに、信重は腕を組んで考え込んだ。

「……火を熾すだけの道具じゃ、心の闇は払えねえか」


工房に戻った信重は、槌を振るう前に、キタとタケを集めた。

「いいか、これからは『道具』を売るんじゃない。『祈り』を打んだ。あの工女たちが故郷を思い、無事に働けるように、吉井の鉄に特別な銘を刻むぞ」


信重は、火打鎌の側面に細かく「安全」と「吉」の文字を刻み始めた。そして、それを持ち運びやすいように、タケが華やかな絹の袋を縫い、キタが「厄除け」の結びを施した。


「兄さん、これ凄いわよ。ただの鉄が、なんだか神様のお札みたいに見えるわ」

タケが感心して袋を撫でた。

「ああ。火打ちってのは元々、切り火で厄を払うもんだ。工女たちが慣れない機械で怪我をしないよう『安全祈願』。家族のために稼げるよう『商売繁盛』。病気にならぬよう『無病息災』。そして最後は、立派な工女になって家に帰れるよう『家内安全』だ。これ全部、俺が火花と一緒に鉄に叩き込んでやる」


数日後、製糸場で信重はこの「特製・お守り火打ち」を工女たちに配り歩いた。

「おハナちゃん、これを持っておけ。仕事の前にカチンと一発やるんだ。そうすれば、機械の魔物もフランス人の体臭も、全部火花が追い払ってくれるぞ!」


工女たちは、その美しく飾られた火打鎌を宝物のように抱きしめた。

「……なんだか、これを持っていると、お父さんやお母さんが守ってくれているみたい」

「信重さん、ありがとう! 私、明日からもう泣かないわ!」


お守り火打ちは、瞬く間に工女たちの間で大流行した。彼女たちは毎朝、作業に入る前に「カチン!」と清めの切り火を切るようになった。工場のレンガ壁に響くその乾いた音は、近代化の喧騒の中に、日本古来の安心感をもたらしたのであった。


富岡製糸場、始動!

明治五年十月、ついに富岡製糸場が開業した。信重は文右衛門に連れられて、見学に訪れた。

「見ろ、信重。あの煙突を。あそこから出ているのは、日本を変える煙だぞ」

文右衛門は誇らしげに言った。


工場内では、三百人を超える工女たちが、一斉に座席についていた。その中には、あのおハナの姿もあった。彼女はもはや泣いてはいなかった。真剣な眼差しで、絶え間なく動く糸を見つめている。彼女の腰には、信重が打った「お守り火打」が、タケの縫った絹袋の中で誇らしげに揺れていた。


「凄いな……。俺たちが手で引いていた頃とは、速さがまるで違う」

信重は圧倒された。しかし、同時に奇妙な光景を目にした。工女たちの休憩時間に、彼女たちが楽しそうにパンを食べ、なんとあの「赤いワイン」を少しずつ舐めて、「あら、案外いけるわね」と笑い合っているではないか。


「文右衛門さん、あの娘さんたちを見てください。近代化ってのは、血を抜かれることじゃなく、注がれた新しい血に慣れることだったんですな。そして、その腰にある俺の火打ちが、彼女たちの勇気の灯火になってる」

「全くだ。渋沢様も喜ばれるぞ。信重、お前の『ワインは焼き饅頭のタレに似ている』という説法も、あのお守り火打の御利益の一つだな」


信重は、火打鎌の商売の傍ら、行く先々で文明開化の「正体」を面白おかしく語り続けた。

「いいか、みんな。フランス人は天狗じゃない。鼻が高いのは、日本のいい匂いを人より早く嗅ぐためだ! そして、このお守り火打を持っていれば、天狗も牛も恐れるに足りん!」


絶頂期の陰りと、信重の決意

製糸場が活気づくにつれ、信重の養蚕も大儲けとなった。中野屋の蔵には、火打鎌の売り上げと繭の代金が積み上がり、まさに人生の絶頂期を迎えていた。しかし、信重の鋭い職人の感性は、小さな異変を逃さなかった。富岡製糸場の売店で、フランス製のマッチが並んでいるのを見かけたのだ。


「マッチ、一箱、数文か……。火を熾すだけなら、これで十分なんだろうな」

信重は、自分が魂を込めて打った火打鎌と、その横にある無機質な木箱を見比べた。


その夜、信重は工房で一人、最高級の鋼を叩いた。


カッ! カッ! カッ!


そこへキタが、晩酌の酒を持って現れた。

「あんた、また難しい顔をして。お守り火打が大評判で、注文が山積みではありませんか」

「キタ……。マッチってやつは便利だ。だがな、マッチにお守りの真似はできねえ。工女たちが、あの鉄の重みに安心し、火花に祈りを込める。その『心』だけは、絶対に大量生産の棒切れには負けねえんだ」


信重は、ブリュナから譲り受けたマッチを一箱、懐から取り出した。

「機械が糸を引く時代になっても、人が何かに縋りたい気持ちはなくならない。俺の仕事は、火を熾す道具作りから、人の心を灯す『お守り』作りへと変わっていくのかもしれん」


信重はマッチを擦らず、火打鎌で火を熾した。パチリ。闇の中に、一瞬だけ鋭く、そして温かい火花が舞った。


「兄さん! またフランス人が来たわよ! 今度は『バター』とかいう、黄色い石鹸を食えって言ってるわ!」

タケの叫び声が、中野屋の静寂を破った。

「バター? 石鹸を食うのか、あの連中は! よし、俺が行って『それは鳥じゃないから食えんが、お守り火打を一打ちすれば腹を壊さない』と教えてやる!」


ポール・ブリュナとの友情

明治六年の春、富岡製糸場は世界中から絶賛される品質の絹を送り出していた。ポール・ブリュナもまた、住民たちと奇妙な共生関係を築いていた。ある日、信重は、ブリュナを自分の工房に招いた。


「ミスター・ブリュナ。あんたの国に、これを持って帰ってくれ」

信重が差し出したのは、金象嵌でフランスの国旗と日の丸が彫られた、世界に一つだけのお守り火打ちだった。

「オー……! セーフティ(安全)! ヴォ、ヴォン!」

ブリュナは、その重厚な鉄の輝きを見て、目を見張った。

「信重、フランスにはマッチがある。だが、この鉄には『ソウル(魂)』と『グッドラック(幸運)』がある。これは素晴らしいマスコットだ!」


言葉は半分も通じなかったが、二人の職人は笑顔で握手をした。

「そうか、グッドラックか。ブリュナ、あんたもなかなか分かってるじゃないか」


その日の夕食、信重はブリュナと一緒に、ウサギの肉を「二羽」食べた。ブリュナはそれが鳥だと説明されると、腹を抱えて笑ったが、信重は真面目な顔で

「日本人は数え方を重んじるんだ。一羽、二羽……これが安全を祈る日本の作法だ」と説法した。


工女たちの成長と旅立ち

製糸場の第一期生たちが、それぞれの村へと帰る日がやってきた。おハナは、入ったばかりの頃の泣き虫な面影はどこにもなかった。彼女の指先は、繭の糸で少し硬くなっていたが、その手は「技術」という誇りを掴んでいた。そして、その腰には、使い込まれて少し黒ずんだ信重の火打鎌が。


「おハナちゃん、村に帰ってどうするの?」

タケが尋ねると、おハナは晴れやかな顔で答えた。

「村の娘たちに、製糸のやり方を教えるの。そして、このお守り火打ちを見せてあげるわ。これがあったから、私は一度も怪我をせず、病気もせず、こうして家族に誇れるお金を持って帰れるんだって」


尾高惇忠と渋沢栄一は、正門に立って彼女たちを見送った。

「栄一、見てみろ。あの娘たちの腰で光っている火打ちを。あれは、信重殿が打った『日本の安心』だな」

「ええ、惇忠兄さん。合理的な機械の影で、ああいった古き良き『祈り』が人々を支えている。それこそが、和魂洋才というものかもしれませんな」


斜陽の予感

明治八年。製糸場の成功とともに吉井は活気に沸いていたが、中野屋の工房に差し込む夕日は、どこか冷たく感じられた。信重の懸念は、現実の波となって押し寄せ始めていた。


国産マッチの製造が本格化し、市場には安価な燐寸マッチが溢れ出した。一箱数文。それは火打鎌一丁の代金の、十分の一にも満たない。

「旦那様、また江戸の丸文様から手紙です」

キタの声に、かつての明るさはない。

「『ヨシイの火打ち』はもはや、骨董品になりつつあります。若者は皆、マッチを懐に入れ、火打ちを『遅い』と笑います……と」


信重は無言で槌を振るったが、その音は以前のように響かなかった。鋼が、時代に拒絶されているように感じられたのだ。

「あんちゃん!……」

タケが心配そうに覗き込む。

「お守り火打ちも、もう注文が止まってしまったわ。工女さんたちも、二期生、三期生となると、みんなハイカラなマッチを使うようになって……」


信重は、ブリュナに贈ったあの火打鎌のことを思い出した。

「タケ……。俺たちの火花は、マッチの光に負けたのか?」

「そんなことないわ、あんちゃん! あんちゃんの打つ鉄は、日本一!」 だが、信重は知っていた。どんなに優れた鉄でも、数秒で火がつく「利便」の前には無力であることを。


崩壊の足音

明治十年前後。西南戦争の勃発による物価の高騰と、その後のデフレが上州を直撃した。

「信重! 大変だ!」

文右衛門が駆け込んできた。だが、かつてのような勢いはない。その顔は憔悴しきっていた。

「養蚕の相場が暴落した! 富岡の糸も、外貨の変動で売れ残っている。お前が広げた桑畑の借金、どうするつもりだ!」


「……文右衛門さん、あんたが『桑畑を作れば蔵が建つ』って言ったんじゃないか」

「時代が変わったんだ! 俺だって、自分の蔵を維持するのに精一杯だ!」


中野屋を支えていた二本の柱――火打鎌の伝統と、養蚕という近代化の波――が、同時に崩れようとしていた。信重は、かつて渋沢栄一と交わした約束を思い返そうとしたが、その記憶は霧の向こうに消えかかっていた。


キタは家財を質に入れ、タケは着物を売って、日々の米を工面した。

「旦那様、もう、火を打つのはおやめください。その鉄の代金すら、今の私たちには……」

キタが涙ながらに訴えた。信重の手は、長年の労働で節くれ立ち、真っ黒に汚れていたが、その手で握るべき槌は、もはや重すぎて持ち上がらなかった。


暗闇の中の灯火

明治十三年。信重は、工房の隅で一人、震える手でマッチを擦った。 シュッ。 一瞬で灯る火。それはあまりにも軽く、あっけなく、信重が人生をかけて打ち続けた鋼の重みを否定していた。


「……あんなに、あんなに火花を散らしたのにな」


富岡製糸場の巨大な煙突は、今も煙を吐き続けていたが、それはもはや希望の煙ではなく、古い時代を焼き捨てる火葬の煙のように見えた。工女たちが大切にしていたはずの「お守り火打ち」も、多くは錆びつき、忘れ去られていった。


信重は、暗い部屋の隅で、かつてブリュナに語った「一羽、二羽」という言葉を反芻した。

「ウサギは鳥だ……そうだな、タケ。鳥なら、どこか遠くへ飛んでいける。この苦しみから、遠い空へ……」


信重の瞳には、かつて自分が熾したはずの、あの温かく力強い火花はもう宿っていなかった。外では、冷たい風が上州の枯れ野を吹き抜けている。


「キタ……火が、消えそうだ」


信重が呟いた言葉は、風の音にかき消された。マッチの小さな火が燃え尽き、指先に熱い痛みが走る。だが、その痛みすら、彼が抱える巨大な不安と絶望に比べれば、あまりにも小さなものであった。


西洋文明という名の荒波が、全てを飲み込んで通り過ぎた後。そこには、火花を失った一人の職人と、かつて「お城」と呼ばれた工場の、冷徹な機械の音だけが残されていた。


上州の夜は、深く、そして果てしなく暗かった。



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