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燧の音色  作者: 野宿の匠


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第12章水戸天狗党と下仁田戦争

元治元(1864)年十一月。上州吉井の街は、これまでにない異様な緊張感と、冬の到来を告げる冷たい「からっ風」に包まれていた。中山道の先から地響きのような跫音あしおとが近づくにつれ、街道沿いの住民たちは固唾を呑んで門を閉ざした。


中野屋の工房では、二代目の信重が、父・兼重の遺志を継ぎ、鋼を叩き続けていた。名工と呼ばれた兼重が安政四年にこの世を去ってから七年。信重は、残された妻・キタと、そして伊勢崎から一時身を寄せていた妹のタケを守りながら、中野屋の暖簾を守り抜いていた。


「……あんちゃん、来たわよ。あの、天狗様たちが」 妹のタケが、不安げな表情で工房に顔を出した。 「ああ、分かっている。タケ、お前は奥でキタと一緒にいろ。何があっても外へは出るなよ」 信重は槌を置き、鉢巻を締め直した。そこへ、慌ただしい足音とともに一人の男が飛び込んできた。吉井宿の名主、堀越文右衛門である。


宿場の知恵と堀越文右衛門

「信重! 一大事だ!」 文右衛門は、絹貿易で築いた「丸文」の当主らしい落ち着きを、今日ばかりはかなぐり捨てていた。

「文右衛門さん、落ち着いてください。水戸天狗党が吉井に入るのは分かっています」

「分かっているどころではない! 先頭はもう宿場を抜けて新屋にいやまで行っている。最後尾はまだ川内村にも入らない小串村だ。ざっと三キロに及ぶ千人の大軍勢だぞ。半年前の彼らなら、この宿場は火の海だ」


文右衛門との付き合いは古く、兼重の代から中野屋の良き理解者であった。 「信重、お前も知っての通り、半年前の天狗党は各地で強奪、強姦、窃盗を繰り返し、民衆から『人食い天狗』と恐れられていた。幕府は追討令を出し、各藩は戦々恐々としている。しかし、武田耕雲斎ら指導部は、民衆の恨みが自らの首を絞めることを悟り、軍規を厳格に改めていたのである」


「信重、私は決めた。彼らを『客』として迎える。争えば宿場が滅ぶ。礼を尽くして、平和に通り過ぎてもらうしかないのだ」

「……名主さんがそう仰るなら、私も従います。彼らも同じ人間、誠意を持って接すれば通じると信じましょう」


二人が話している間にも、軍靴の音は目前まで迫っていた。

「止まれッ!」 鋭い号令が響き渡る。行軍の先頭が現在の上信電鉄「上州新屋」付近に達したとき、全軍に小休止が命じられた。夕刻、そのまま吉井での宿泊が決定した。 驚くべきことに、千人の浪士たちは極めて紳士的であった。百数十軒の宿泊所に分かれた彼らは、乱暴を働くどころか、礼儀正しく村人達に接したのである。


山の民サンカと「ウメガイ」を操るアザミ

吉井宿が天狗党の受け入れに追われている頃、宿場の裏手に広がる深い竹林と険しい尾根筋には、世俗の法から離れて生きる山の民「サンカ」の姿があった。 彼らは定住せず、山から山へ渡り歩く。独自の言葉を操り、づくりや竹細工、そして山に眠る鉱脈を見抜く眼を持っていた。


サンカの長でありクズシリ・案内人(里の人間との交渉や物資の調達を担う)のアザミは、竹林の陰から街道を埋め尽くす異形の軍勢を冷徹な目で見つめていた。その腰には、サンカ独自の万能刀「ウメガイ」が光っている。ウメガイは単なる刃物ではない。木を削り、獣を捌き、時には岩壁に突き立てて梯子代わりにもする、彼らにとっての命そのものだ。


「……お頭、天狗の連中、殺気を隠してやがるが、ありゃあ腹の中に業火を抱えてる。吉井の街が燃えなきゃいいが」 アザミが呟くと、傍らにいた長老の甚太が静かに頷いた。 「アザミ、お前は信重のところへ行け。あいつに、山で見つけた『真っ赤な鉄』を届けてやるんだ。この嵐を乗り越えるには、普通の鉄じゃ足りねえ」


アザミは豹のような身のこなしで斜面を駆け下りた。中野屋の工房の裏手にたどり着いた彼は、気配を消したまま、信重の背後に音もなく現れた。 「信重、親父からの届けもんだ」 信重は驚きもせず、振り返った。 「アザミか。サンカの勘は相変わらず鋭いな。天狗の通過を知って、わざわざ来たのか」


アザミは答えず、懐から布に包まれた重みのある塊を取り出した。そして、腰のウメガイを抜き放つと、その鋭い切先で布を切り裂いた。 「見てな。山が吐き出した、混じりっけなしの『火の粉』だ」 ウメガイの刃先が、信重に差し出された鉄の塊を軽く叩く。キィィィンと、耳鳴りがするほど高い音が響いた。

「これは……サンカの伝説にある『鳴り鉄』か!」

「そうだ。これで天狗の連中に持たせる火打ちを打て。中途半端な鉄じゃ、あいつらの業火に負けちまうからな」


アザミはそう言うと、ウメガイをくるりと回して鞘に収めた。その一連の動作には、何百年も磨き上げられた山の知恵と武術が凝縮されていた。彼はそのまま、風が止むように姿を消した。


3. 諸沢の瑪瑙めのうと夜更けの酒

中野屋にも宿泊の打診があった。信重は、伍長四人が率いる二十名の隊員の受け入れを決めた。

「……今夜は騒がしくして申し訳ない、主殿。かまどを借りたい。食事は自分たちで炊き上げる」 そう言って入ってきたのは、日に焼けた屈強な男たちであった。その中に、ひときわ手のひらの厚い、細貝實という男がいた。


その夜、工房の片隅で、信重は細貝と向かい合った。妻のキタと妹のタケが用意したささやかな肴と、地元倉淵村権田の牧野酒造の「大盃」酒を酌み交わす。かつて、国定忠治や小栗様と飲み交わした酒だ。

「細貝さん、あんたの手は武士というより、職人の手だ」

信重の問いに、細貝は自嘲気味に笑った。

「ほう、目が肥えているな。俺は常陸の国の諸沢もろざわ村から来た。瑪瑙を掘って、江戸へ火打ち石を出荷していた採掘人だ。国難を前に、石を捨てて刀を取ったが……」


諸沢村といえば、日本最大の火打石の産地である。信重にとって、これほど興味深い相手はいなかった。

「諸沢の現場の話を、ぜひ聞かせてくれ。父・兼重も、あそこの石には一目置いていたんだ」

細貝の話は、信重が想像していた以上に壮絶なものだった。


「瑪瑙の採掘は、常に死と合わせだ。狭い穴を潜り、いつ落盤するか分からない暗闇の中で石を叩く。掘り出した瑪瑙は馬の背に積んで運ぶが、険しい山道で馬ごと谷底へ落ちた仲間もいた」


「……馬ごとですか」

「ああ。採れた石を江戸まで運ぶのも一苦労だ。だがな、火打石がなければ世の中は暗いままだ。誰かの家の竈に火を灯し、灯籠を照らす。そのために俺たちは泥にまみれて石を掘る。あんたが鉄を叩くのと、根っこは同じだ」


信重は、アザミが持ってきた「鳴り鉄」を細貝に見せた。

「細貝さん。あんたの掘った石と、俺が叩いたこの特別な鉄が合わさって、初めて本当の『火』が生まれるんだな。あんたが京都へ行くというなら、俺の打った最高の一振りを、あんたの隊に持っていってくれ。これまでの感謝を込めてな」


夜が更けるまで、二人は酒を酌み交わした。奥の部屋で心配そうにしていたキタとタケも、漏れ聞こえる二人の笑い声にようやく安堵の色を見せた。 「兄ちゃん、あんなに楽しそうに笑うのは、親父様が亡くなって以来だわ」 タケが小さく呟くと、キタも静かに頷いた。


翌朝、日の出とともに、吉井宿にはぴんと張り詰めた空気が漂っていた。不穏な殺気を纏いながらも、どこか悲壮な決意を秘めた天狗党の一団が、宿賃を礼儀正しく置いて静かに出発の途についた。

吉井宿木戸の中の熊次郎は、呆然とした面持ちで去りゆく背中を見送っていた。その手元の台帳には、驚くべき数の火打金の販売記録が残されていた。隊員たちは皆、示し合わせたかのように、吉井本家の「ねじり形」を求めたのである。幾重にも螺旋を刻んで鍛え抜いた「吉井本家・ねじり形火打ち金」を自らの懐へと深く忍ばせ、京都への果てしない旅路の中へと消えていった。


彼らにとって、この火打ち金は単なる実用民具の域を遥かに超えていた。農家の冷たい納屋で夜を明かす際のささやかな明かりを灯し、凍える指先を温めるための煮炊きの火を熾すという実用的な役割は、その機能のほんの一部に過ぎなかった。


この鋼を幾重にもねじり上げた独特の造形は、死線を潜り抜ける彼ら一人一人の魂と共鳴し、戦いの闇を照らす「守護神」へと昇華していったのである。 それは、いつ命を落とすか分からぬ長い旅路における、絶対的な安全祈願のお守りであった。さらに、故郷を離れ、主義主張の激流に身を投じる男たちにとって、暗闇で火花を散らすたびに響く鋼の音は、孤独を癒やす唯一の精神的な支えでもあったのだ。


「中野屋のねじりは、折れぬ。俺たちの志も、こうありたいものだ」


誰かがそう呟いた一言は、隊列の中に静かに伝播していった。真っ直ぐなだけの鉄は、強い衝撃を受ければ脆く折れる。だが、一度ねじり上げられ、内側に強固な芯を持った吉井の鉄は、どんな苦難にも屈しない。


4. 下仁田戦争:鉄砲を使わぬ最後の剣戟

天狗党が去った後、吉井に届いたのは平穏ではなく、血の匂いだった。幕府の追討令を受けた高崎藩二百名が、下仁田の青倉川渓谷付近で天狗党を待ち伏せているという。

「信重! 私はこれから下仁田へ向かう。名主として、この目で見届けねばならん。一緒に行くか」 文右衛門の言葉に、信重は迷わず頷いた。

「私も行きます。細貝さんたちが、どう戦うのか……」


十一月十六日。下仁田の地は、霧に包まれていた。 元治元年、日本で最後と言われる大規模な接近戦、「下仁田戦争」の火蓋が切って落とされたのである。特筆すべきは、この戦いが鉄砲をほとんど使わない、日本最後の凄惨なチャンバラ(剣戟)戦であったことだ。


追討に加わった深井八之丞が着用した具足を娘婿も水原徳門(如洗)が着用した写真

深井八之丞は第三番手の小頭武者(隊長)として出陣した。

信重と文右衛門は、渓谷を見下ろす岩陰からその光景を目撃した。 高崎藩の武士たちが抜刀し、鬨の声を上げた。

「かかれェーッ!」

対する天狗党も、抜刀して正面からぶつかり合った。 ガギィィィン! ギィィン! 渓谷全体が、鋼と鋼がぶつかり合う、耳を突き刺すような金属音に支配された。


そこにあったのは、もはや言葉では言い表せない地獄だった。

「ああっ……!」

信重は思わず目を背けた。 高崎藩の武士たちは、平和な時代に慣れすぎていた。対して天狗党は、故郷を捨て、家族を捨て、命を捨ててきた死兵の集団である。一振りの刀に込められた重みが違った。


乱戦の中、信重は一人の男の姿を目で追った。細貝實だ。 細貝は刀が折れたのか、懐から大きな石を取り出した。昨夜語っていた、諸沢の瑪瑙だろうか。彼はその鋭い石を握り拳に込め、迫りくる敵を殴り倒していた。

「細貝さん!」

信重の叫びは、怒号にかき消された。


高崎藩兵の刀が細貝の肩を深く斬り裂く。しかし細貝は止まらない。彼は血を吹き出しながら、相手の喉元に、中野屋の火打金を叩きつけた。 石と鉄が、そして肉と骨がぶつかり合う。 火花が散った。 その火花は、温かい飯を炊くための光ではなく、命を削り合うための虚しい閃光だった。


その乱戦の最中、信重は信じられないものを見た。 高崎藩の伏兵が、背後から細貝を狙おうとした瞬間、霧の中から影が飛び出した。 アザミだった。 彼はサンカの鞘に納めたままの「ウメガイ」を逆手に握り、その伏兵の刀を受け流すと、電光石火の早業で峰打ちを食らわせた。

「……無粋な真似はすんじゃねえ。この男は、信重の鉄を運んでるんだ」

アザミは一言だけ吐き捨てると、再び霧の中へと消えていった。ウメガイの刃が血を吸うことはなかったが、その一撃は高崎藩の精鋭を一瞬で無力化するほど重かった。


結局、高崎藩は死者三十六名を出す大敗を喫し、天狗党はわずか四名の死者で戦いを終えた。高崎藩の生存者たちは這うようにして撤退し、天狗党は内山峠を目指して、再びその歩みを進めていった。


5. 散りゆく火花への祈り

戦いが終わった青倉川の河原に、信重と文右衛門は降り立った。そこには、無数の遺体が転がり、清流は朱に染まっていた。信重は、細貝が戦っていた場所を探した。そこには、砕けた瑪瑙の破片と、真っ二つに折れた中野屋の火打ち金が落ちていた。


「細貝さん……どこへ行った」

姿はなかった。遺体の中に彼の姿がないということは、手負いのまま進軍したのだろうか。

「信重、これが戦争だ。志を貫くということは、これほどまでに残酷なのだよ」

文右衛門の声も震えていた。


信重は、その折れた火打金を拾い上げた。アザミが持ってきた「鳴り鉄」の欠片が、血に汚れながらも鈍い輝きを放っていた。

「文右衛門さん……。俺は、おやじから教わりました。火打金は、暗闇を照らすためにあると。でも、今日は……人を殺すための道具になってしまった」

信重は、折れた鉄を強く握りしめた。掌に血が滲む。

「……私は、この鉄に誓います。もう二度と、こんな悲しい火花は散らせない。いつか、刀が必要なくなる世が来ても、中野屋の火だけは、人々が幸せになるために打ち続けてみせます」


吉井に戻った信重を待っていたのは、涙に濡れたキタとタケだった。

「あんちゃん、無事だったのね!」 タケがしがみついてきた。信重は妹の背を静かに叩きながら、下仁田で見た地獄を心の中に封じ込めた。

「ああ、無事だ。タケ、キタ。……これから、また忙しくなる。新しい、本当の『吉井本家』を打たなきゃならないんだ」


6. 結び:受け継がれる「誠」の火

天狗党の隊列を記録した絵巻物は、今も吉井の街に眠っている。そこには、千人の男たちが整然と行進する姿が描かれている。


信重がその絵を見るたびに思い出すのは、絵には描かれていない、あの夜の酒の味と、下仁田の渓谷に散った虚しい火花のことである。


天狗党の志士たちは、この後、越前敦賀の地で悲劇的な最期を迎えることになる。武田耕雲斎ら主要メンバーの処刑。その中に細貝實の名があったかどうか、信重が知る術はなかった。しかし、信重は信じている。細貝が最後に熾した火は、確かに中野屋の鉄から生まれたものだったと。そしてその火花は、たとえ一瞬で消える運命だったとしても、暗い歴史の闇を一瞬だけ、真っ直ぐに照らしたのだと。


「カッ! カッ! カッ!」


今日も吉井の工房から、槌の音が響く。 信重の打つ火打ち金は、その評判をますます高めていった。明治になり、文明開化の波が押し寄せ、マッチが普及し始めても、信重は決して槌を置かなかった。

「旦那、もう火打金の時代じゃないですよ。みんなマッチですよ」

次助がそう言うと、信重は笑って答えた。

「いいや、次助。マッチの火は便利だが、指先に魂を込めなきゃ熾せない『火』が、この世にはまだ必要なんだ」


信重の横には、タケの息子「政吉」が立ち、背中を見つめていた。中野屋の火は、幕末の動乱を越え、悲しみを越え、新しい時代を照らすための「誠」の火として、上州の風に乗り、未来へと繋がれていったのである。


カッカッ!カッカッ!



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