第10章和宮親子内親王下向
文久元(1861)年、十月。上州の秋は、例年になく荒れ模様であった。しかし、その「荒れ」の原因は空模様ではない。中山道を西から東へと押し寄せる、空前絶後の巨大な「人の波」であった。
第十四代将軍・徳川家茂への降嫁という大命を帯びた皇女・和宮親子内親王の下向行列である。その規模、実にお供の公家、武士、人足、護衛の兵を合わせて総勢三万人。先頭が武蔵の国へ入ろうかという時、最後尾はまだ信濃の山中にあるという、実に五十キロメートルに及ぶ人類史上稀に見る大移動であった。
上州の宿場町は、この「三万人の巨大な龍」を飲み込み、そして無事に送り出さねばならなかった。
一、 坂本宿の「お世継ぎ」狂騒曲
中山道の難所、碓氷峠を越えて最初に現れるのが坂本宿である。峠の険しさに息を切らした行列が、堰を切ったように宿場へなだれ込んだ。
「ええい、水だ! お茶だ! いや、それより先に足を洗う湯を持ってこい!」 「公卿様方の御輿が通る! 邪魔だ、道を開けろ!」
坂本宿の本陣前は、怒号と混乱の坩堝であった。宿場の役人たちは、あまりの忙しさに白目を剥いている。 「名主様、大変です! お局様方が『京の軟水でなければ顔が洗えぬ』と仰って、井戸の水を全部捨てろと命じられております!」 「馬鹿なことを言うな! ここは上州だ、水は全部『からっ風』の味がするんだよ! 適当に京の酒の空き瓶にでも詰めて持っていけ!」
坂本宿の宿泊は、まさに「詰込み」であった。一軒の旅籠に百人近い武士が押し込められ、廊下で寝る者、屋根裏で刀を抱えて丸まる者が続出した。 そんな中、行列の最後尾がまだ峠の上で凍えているという知らせが入る。
「おい、最後尾が着くのは10日後だそうだぞ」
「10日後!? その頃には先頭は江戸に着いてるんじゃないか?」
「これが本当の『長旅』ってやつだな、はっはっは!」
極限状態の宿場役人たちは、もはや笑うしかなかった。
二、 松井田宿の「御印」騒動
翌朝、行列は松井田宿へと向かった。 松井田は古くからの要衝であるが、三万人の食欲を満たすには米が足りない。
「おのれ、この握り飯、少し芯が残っているぞ! 皇女様への供え物に、このような不届きなものを!」
御膳所の役人が怒鳴り散らした。
「申し訳ございません! 炊飯の釜が足りず、五右衛門風呂で米を炊きましたゆえ!」
「風呂で米を炊いたのか!? それじゃあ、ご飯が人の垢の匂いがするではないか!」
松井田の宿場内では、和宮様が立ち寄られたという「御印」を巡って、本陣陣屋で商家が激しい争奪戦を繰り広げていた。
「ここに和宮様がお座りになった畳があるぞ!」
「嘘をつけ、それはさっき隣の爺さんが昼寝してた畳だろうが!」
「黙れ! 皇女様がお通りになった道の砂、一合十文で売るぞ!」
欲深い商人たちの騒ぎを余所に、和宮様のお籠は静々と進む。お籠の中からは、時折
「……お腹が空きましたわ」
という、京風の雅な、しかし切実な呟きが聞こえたというが、それは三万人の喧騒にかき消されていった。
三、 安中宿の「火そ金夫婦」登場
行列が安中宿に差し掛かった頃、ようやく物語の主人公たちが登場する。 吉井本家、中野屋の中野孫三郎信重と、その妻キタである。安政四(1857)年に先代・兼重が亡くなって以来、信重は妻と妹のタケと共に店を守ってきたが、今日は商売敵の動向を探るべく、そして何より「三万人の火」を商機に変えるべく、安中まで遠征してきたのだ。
「いいか、キタ。これだけの人数だ。火を熾す回数も三万人分。中野屋の火打ち金がどれだけ売れるか、計算してみろ。笑いが止まらんぞ」
信重は鼻息を荒くして、街道に陣取った。
「旦那様、捕らぬ狸の皮算用はやめてください。それより、あのお侍さんたちを見てくださいよ。みんな肩を落として、幽霊みたいに歩いてますわ」
キタの言う通り、五十キロに及ぶ行列の「中間地点」にいる連中は、連日の強行軍で疲弊しきっていた。
「ああ……火が欲しい。温かい茶を飲んで、一服してぇ……。だが、湿気で火打ち石が役に立たねぇ」
一人の若い武士が、路傍でへたり込んでいた。
「そこな若侍さん! お困りのようですな!」
信重が割って入った。
「……なんだ、お前は」
「天領・吉井が誇る『吉井本家』中野屋の孫三郎だ。この火打ち金を見てくだせえ。上州のからっ風でも消えぬ、雷のような火花を飛ばしてご覧に入れましょう」
信重がカチリと打つと、青白い火花がバチバチと舞い、武士の鼻先を掠めた。
「おお、これは凄い。一打ちで火がついたぞ!」
「そうでしょ、そうでしょ。この鉄は、私の魂と吉井の岩が喧嘩してできたもんです。一丁、いかがですか?」
「旦那様、商売上手もいいですけど、あっちのお局様方の行列を見てください。お化粧が剥げて、もはや誰が誰だか分かりませんわよ」
キタが指差す先には、京から来た女官たちが、砂埃にまみれて憤怒の形相で歩いていた。
「これ、そこの職人! その火花、わらわの眉毛に飛び散ったらどうするつもりか! 打ち首だぞ!」
「ひえっ、申し訳ございません! お詫びに、この火打ち金を鏡代わりに……あ、これじゃ顔が映りませんな!」
信重の失言に、女官はさらに激怒。キタが慌てて割って入る。
「お局様、失礼いたしました! この旦那、腕はいいんですが口が錆びついておりまして。どうぞ、こちらの上州名物の焼き饅頭を食べて、お怒りを鎮めてくださいな」
キタが懐から出した饅頭を渡すと、女官は
「……毒は入っておらぬな?」
と言いつつ、もの凄い速さで完食した。
「……ふん、味は悪くないわね。火打金、三丁買いましょう。夜道の魔除けにするわ」
「まいどあり!」
信重はキタの機転に感謝しつつ、安中宿の喧騒の中で火花を散らし続けた。
四、 板鼻宿の「川止め」大宴会
安中を出た行列は、板鼻宿へと向かう。ここは上州屈指の旅籠街である。しかし、目の前には碓氷川という難所が待ち構えていた。
「川止めだ! 水位が上がって、蓮台越し(れんだいごえ)ができぬ!」
三万人の行軍が板鼻宿から最後尾は信州小諸宿で滞留することになった。宿場はパニックを超え、もはやお祭り騒ぎである。
「宿泊場所がない! 本陣は和宮様。脇本陣は公卿様。早くこの行軍を止める伝令をだせ。川止めで前がつっかえているのに、後ろが押してくる。宿泊できぬ二万九千人は……河原で野宿だ!」
「野宿!? 皇女様のお供に野宿をさせるのか!」
信重とキタも板鼻にいた。
「旦那様、大変なことになりましたわ。あっちこっちで焚き火が始まって、まるで合戦場みたいです」
「チャンスだ、キタ。野宿なら火が必要だ。中野屋の在庫を全部出すぞ!」
信重は、川止めで足止めを食らった武士たちの間を縫って歩いた。
「さあさあ、野宿の匠、吉井本家だ! この火花を見れば、故郷の家族の顔が思い出せるぞ!」
「おい、親父。故郷の顔を思い出すと、余計に帰りたくなるからやめてくれ!」
武士たちは笑いながらも、次々と火打ち金を買い求めた。
その夜、板鼻の河原には数千の焚き火が灯った。
「旦那様、綺麗ですね……」
キタが呟いた。数千人の行列が熾した火が、碓氷川の川面に反射し、まるで地上に星が降りたようであった。和宮様も、お籠の隙間からこの光景を見て、少しだけ京の都の「大文字焼き」を思い出されたかもしれない。
五、 高崎宿の「カツラ剥げ」事件
前日までの大雨で増水していた烏川の水がようやく引き、高崎宿には静謐な緊張感が漂っていた。沿道には数千、数万の民衆が土下座の姿勢で並び、誰一人として咳をすることさえ許されない雰囲気である。
遠くから、規則正しい足音が聞こえてくる。先頭は幕府の威厳を示す諸大名の供回り、そしてその背後には、京都から同行してきた優雅な装束の公家たちが続く。立烏帽子をぴんと立て、狩衣を翻して歩くその姿は、上州の農村では逆立ちしても拝めないほど美しいものだった。
だが、ここは日本屈指の強風地帯、高崎である。 「上州名物、雷と空っ風」と謳われるその真髄が、歴史的な行列に牙を剥いたのは、まさにその時だった。
突如、家々の隙間から、龍が咆哮するような凄まじい風が吹き抜けた。
「ひょおおおおおおおっ!!」
その風は、ただの風ではなかった。高崎の地形が作り出した、圧縮された空気の塊である。それは、街道の中央を悠然と進んでいた行列を、真横から薙ぎ払った。
「ああっ!? 私の、私の烏帽子が!」 まず悲鳴を上げたのは、先頭を歩いていた気品あふれる公家である。糊でガチガチに固められ、天をも突く勢いだった立烏帽子が、風の力であっけなく剥ぎ取られ、冬の空へと高く舞い上がったのだ。
「待て! それは家宝の……! 返せ、風よ!」 必死に手を伸ばす公家。だが、惨劇は連鎖する。突風はさらに勢いを増し、今度は警護の武士たちの頭上に襲いかかった。
「おわああっ!」 「ああっ、それは私の……私の誇りだああ!」
信重が「何事か」と、伏せていた顔を上げた瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。 なんと、威厳たっぷりに馬を操っていた武士たちの「カツラ(付け髷)」が、まるで黒い鴉の群れが一斉に羽ばたくように、バサバサと宙を舞い始めたのである。
「……旦那様。旦那様、見てください!」 横で平伏していたはずのキタが、すでに腹を抱え、必死に指をさしている。 「こら、キタ! 指をさすなと言っただろう……って、ひぇえっ!?」
信重もまた、その凄惨かつ滑稽な光景に目を見張った。 街道を駆け抜ける突風に乗って、数十個、いや数百個のカツラと烏帽子が、まるでお祭りの投げ餅のように宙を踊っている。 そして、その下から現れたのは……。
「旦那様! あそこのお侍さんを見てください! 頭が、頭がこれっぽっちも毛がなくて、ツルッツルでございますわ! しかも、雲の間から差した夕日を反射して、まるでお寺の鐘のように眩しいですわ! 目が、目が潰れます!」 「これ、キタ! 笑うな! 罰が当たるぞ!」
だが、言っている信重も、口元がプルプルと震えていた。 夕日に照らされた高崎宿。そこには、自分のカツラを必死に追いかけて走り回る、立派な身なりの武士たちが溢れていた。中には、風に飛ばされたカツラを必死に掴んだものの、それが隣の公家の「予備の烏帽子」だったという取り違えも発生し、現場はもはや収拾のつかない大混乱となった。
「それ、私のだ!」「いや、お前のカツラはもっと毛が薄かったはずだぞ!」「何を言うか、これは上質な馬の毛で作った高級品だ、返せ!」
この前代未聞の失態。行列の指揮官たちは「切腹ものだ」と青ざめた。民衆もまた、「これを見てしまったら処刑されるのではないか」と恐怖に震えた。 だが、その沈黙と混乱を打ち破ったのは、意外な場所からの声だった。
行列の主、和宮様がお乗りになっている豪華な籠。 その固く閉じられていた御簾が、ほんの少しだけ揺れた。
「……ふふっ、ふふふふっ」
鈴を転がすような、しかし抑えきれない笑い声。 それまで一度として表情を崩さず、京都を離れた悲しみに沈んでいると噂されていたお姫様が、空を舞うカツラと、夕日に輝く武士の頭をご覧になり、ついに吹き出されたのである。
その笑い声は、緊張に張り詰めていた高崎宿全体に、魔法のように広がった。 「……えっ? 和宮様がお笑いになったぞ!」 「あのお顔のツルツル侍のおかげだ!」 「カツラ万歳! カツラのおかげで、姫様の心が晴れたんだ!」
信重は、その瞬間の空気の変化を逃さなかった。彼は懐からお守り代わりの火打鎌を取り出し、キタの目の前でカチン! と一発、景気よく火花を散らした。
「キタ、見たか。あんなに偉いお侍様もお公家様も、風が吹けば俺たちと変わらねえ。ただの人間なんだ。頭が剥げようが、烏帽子を失おうが、それで笑いが起きるなら、それは『福』ってもんだ」 「本当ですわね、旦那様。あんなに眩しい希望の光は、吉井の鉄でもなかなか出せませんわ!」
和宮様の笑い声を聞いた警護の武士たちも、もはや隠し立てするのをやめたのか、「姫様が喜ばれるなら」と、剥げた頭を誇らしげにさらして行進を続けたという。
この事件以後、高崎宿には「高崎の空っ風は、福を呼ぶ神風である」という、おかしな信仰が生まれた。
「高崎でカツラが飛べば縁起が良い」 「立烏帽子が飛んで川に落ちれば、その年は豊作だ」
信重夫婦は、その後も吉井で火打ちを打ち続けながら、この話を何度も何度も近所の人々に聞かせた。
「いいか、政吉(タケの息子)。人間、取り繕った外見なんて、ちょっとした風で飛んでいくもんだ。大事なのは、その中身、そして飛んでいった後に一緒に笑い合えるかどうかだ。中野屋の火打ちも、ただ火を出すんじゃない。そういう『心の余裕』を叩き込んでるんだ」 「旦那様、また格好つけて。本当は、あのお侍さんの頭があんまり綺麗だったから、火打石の代わりにならないか真剣に考えてたクセに」 「これ、キタ! それは秘密だと言っただろう!」
明治の世になり、散髪脱刀令で皆がカツラを脱ぎ捨てる時代が来たとき。高崎の人々は、誰よりも早くそれを受け入れたという。なぜなら、彼らには文久元年のあの夕暮れ、和宮様と共に笑い飛ばした「カツラ大乱舞」の記憶があったからだ。
「さあ、キタ。今日も景気よく火花を散らして、世の中を明るくしようじゃないか。高崎の風にも負けない、俺たちの魂をな!」 「はいはい、旦那様。でも、風で旦那様の数少ない髪の毛が飛ばないように、気をつけてくださいな」 「……俺はカツラじゃない!」
二人の笑い声は、上州の空っ風に乗って、いつまでも、どこまでも響き渡っていた。 「カツラ万歳、縁起よし!」 その合言葉は、今も高崎の空のどこかで、風と共に舞っているのかもしれない。
六、 倉賀野宿の「五十キロ」の溜息
行列は倉賀野宿へと進む。ここは烏川の舟運で栄えた宿場だ。 ここでようやく、行列の全貌が人々に意識され始めた。
「おい、名主様。先頭の新町宿から連絡が来たが、あちらはもう夕食を済ませて寝る準備をしてるそうだぞ」
「こっちはまだ昼飯も食ってねえのにか!」
「最後尾の信州岩村田宿からは『こっちは雨が降ってきたから動きたくない』と文句が来ている」
先頭から最後尾まで五十キロ。倉賀野宿にいる連中は、まさに「中だるみ」の状態であった。
「信重、まだ売るのか?」
文右衛門(かつて吉井で世話になった名主)が信重に声をかけた。彼はこの巨大行列の差配に駆り出されていた。
「ああ、文右衛門さん。倉賀野の連中は疲れてる。火を熾す元気もない。だから、俺が代わりに火を熾して回ってるのさ」
「信重、お前は相変わらずだな。だが見ろ、あの和宮様のお籠。倉賀野の常夜燈の下を通る姿は、まるで絵画のようだ」
信重は手を止め、静かに進む行列を見つめた。 三万人。それぞれに人生があり、故郷があり、悩みがある。その全員が、一人の少女を江戸へ届けるために、この上州の地を歩いている。
「キタ。俺たちの火打ち金も、あの三万人の一部なんだな」
「急に格好いいことを言わないでください。……でも、あのお籠の奥にある、和宮様の不安な気持ちを、私たちの火が少しでも明るくできたらいいですね」
七、 新町宿と本庄宿への旅立ち
行列はさらに東へ、新町宿、そして国境を越えて武蔵の本庄宿へと向かっていく。 新町宿では、上州最後のもてなしとして、大量の「おっきりこみ」が振る舞われた。
「ああ……温まる。上州の味だ」
「からっ風は冷たかったが、人は温かかったな」
武士たちの会話を聞きながら、信重とキタは吉井への帰路につく準備を始めた。
「旦那様、結局、火打ち金は何丁売れました?」
「数えるな。この重みが答えだ」
信重はパンパンに膨らんだ銭袋を叩いて笑った。
「でも、一番大事なのは、和宮様が最後に倉賀野を抜ける時、少しだけこちらを向いて会釈してくださったことだ。俺の火花が見えたのかな」
「それは旦那様の勘違いですよ。きっと、私の饅頭が美味しかったからお礼を言いたかったんですわ」
二人は軽口を叩き合いながら、夕闇の中山道を吉井へと向かって歩き出した。 五十キロに及ぶ巨大な龍は、ゆっくりと、しかし確実に江戸へと消えていく。その通り過ぎた後には、数え切れないほどの焚き火の跡と、中野屋が売った火打ち金が熾した「希望の残り火」が、上州の夜を静かに照らしていた。
文久元年の秋。 三万人の行列が駆け抜けた中山道は、その後もしばらく、火花の匂いとお局様たちの笑い声が消えることはなかったという。




