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燧の音色  作者: 野宿の匠


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第9章 贋物

上州吉井の朝は、兼重の振るう槌音で幕を開ける。しかし、その音はいつになく苛立ちを含んでいた。


「旦那、そんなに力任せに叩いちゃ、鉄がかわいそうですよ。ほら、見てください。この『吉井本家』の偽造品、江戸の市中で山ほど出回ってるって噂ですぜ」


弟子の次男が、どこからか手に入れた火打ち金を差し出した。兼重はそれを一目見て、鼻で笑った。


「なんだ、このブサイクなナマコみたいな鉄は。ねじりの回転数が多すぎて、まるで茹ですぎたうどんじゃないか。右回しと左回しもバラバラ、おまけに端っこが潰れてやがる。これを作った野鍛治は、朝飯を食い忘れて目が霞んでたのか?」


「へい。でも、これに『吉』とか『中』とか一文字だけたがねを打って、『吉井の中野屋の代物だ』って言い張って安く売ってる野郎がいるんですよ。客は騙されちまう」


卑怯な隣人たち:居酒屋の悪巧み

その頃、吉井宿の裏通りにある居酒屋では、同業の福島屋、岡田屋、横田屋が、酒を煽りながらヒソヒソと悪巧みをしていた。


「おい、福島。中野屋の『ねじり火打金』、なっから(すごく)売れてるらしいじゃねえか。俺たちも作んべえよ」


福島屋がニヤリと笑う。 「おうよ、岡田。俺んちでも試してみたが、あのねじり、作んのなっから難しいぜ。百本作って、まともなのは一本きりだ」


横田屋が猪口を干して付け加えた。 「いいんだよ、形さえ似てりゃ。客は鉄の質なんて分かりゃしねえ。ちっと手ぇ抜いて、はがねの代わりに安い地鉄を多めに混ぜてよ、中野屋より三割安く卸しゃ、江戸の問屋は大喜びさ」


「中野屋だけにいい思いはさせねえ。吉井の看板を借りて、一儲けしてやろうじゃねえか!」


彼らの手口は巧妙だった。大手老舗の枡屋や明珍は、自負があるため形を真似ても銘まで汚すことはしない。だが、この三軒は中野屋の「鏨名たがねめ」を絶妙にぼかし、劣悪な品質の「まがい物」を市場に流したのだ。


卑怯な罠と、兼重の苦悩

数ヶ月後、中野屋に一人の客が怒鳴り込んできた。 「おい、中野屋! おめぇとこで買った火打ち金、一週間で火が出なくなったぞ! どうしてくれんだ!」


差し出されたのは、案の定、福島屋たちが作った偽物だった。 「お客さん、これはうちのじゃありません。見てください、ねじりが十二回転もしてる。うちのは熟練の技で四から六回転。端の三角形の角も、うちのは潰れてない」


「知るか! 『吉』って書いてあったんだ! 吉井の中野屋だろうが!」


兼重は歯を食いしばった。偽物が安いのは、焼き入れを甘くし、質の悪い鉄を使っているからだ。火花が出にくいだけでなく、すぐ欠ける。これを「吉井本家」だと思って使えば、吉井全体の信用が地に落ちる。


「旦那……このままじゃ、吉井の火が消えちまいますぜ」 留二の言葉に、兼重は火床の炎を凝視した。


吉井本家の「反撃」

兼重は、妻のワキと長男の信重夫婦を集めた。 「力でねじ伏せるんじゃねえ。鉄の質と、信頼の差を見せつけてやるんだ」


兼重が打ち出したのは、当時の鍛冶業界では前代未聞の**「引札ひきふだ」**、それは品質保証書の発行だった。


「いいか、信重。これからは引札を付けて売る。『商品に不備があれば、いつでも新しいものと交換する』と明記しろ」


「父上、そんなことをしたら、偽物を持ち込む連中まで相手にすることになりませんか?」


「構わん。偽物を持ってきた客には、こう言うんだ。『それはうちの鉄じゃありませんが、お困りでしょう。本物の火花を一度見てください』とな。そこで本物と偽物の差を叩き込んでやるのさ」


決戦:本物の火花

ある日、福島屋の息のかかった商人が、嫌がらせのために大量の偽物を持って中野屋に現れた。 「おい、壊れたから全部交換しろ! 保証書があるんだろ!」


兼重は動じず、その商人の目の前で、偽物と本物の火打ち金を並べて石を打った。


カチッ……。 偽物は鈍い音と共に、消え入りそうな赤い火花が一つ飛んだだけだった。


カカカッ!! 次に兼重が本物を打つと、工房の奥まで照らすような鮮烈な黄金の火花が、滝のように降り注いだ。


「……お客さん。火を熾すのは鉄じゃねえ、職人の魂だ。あんたが持ってきたこれは、客を騙すための『嘘』だ。うちは嘘の交換は受け付けねえが……もし本物の火が欲しけりゃ、この鏨名がしっかり入った一丁を、誇りを持って売ってやるよ」


商人は、本物の火花の眩しさに目を細め、一言も返せずに逃げ帰った。


惜しまれる結末:残された火花

その後、吉井本家の徹底した品質保証と啓蒙により、偽物たちは次第に淘汰されていった。福島屋たちは「正直に作ったほうが儲かる」と悟り、ようやく改心して真っ当な修行を始めたという。


しかし、兼重は後に、信重にこう漏らした。 「……偽物が出るのは、それだけうちの形が『美しい』と思われた証拠でもある。だがな、信重。形を真似る奴はいても、俺たちが客の不便を想って打つ『心』までは真似できねえんだ」


兼重が亡くなった後、彼が発行した引札は、古びた蔵の中から何枚も見つかった。そこには、ただ売るだけでなく、生涯その火を世話し続けようとした一人の職人の、泥臭くも崇高な意地が刻まれていた。


吉井の夜空に飛ぶ火花を見るたび、人々は今も思い出す。 かつて、偽物の嵐に晒されながらも、決して濁ることのない黄金の光を打ち続けた、中野孫三郎兼重という男の背中を。


カッカッ!カッカッ!






悲劇の始まり


安政四年。それは吉井の町から、二つの大きな灯火が消えた年だった。


正月に働き者の母・ワキが労咳で逝き、その寂しさに耐えかねたかのように、十一月には父・兼重が心筋梗塞で急逝。享年五十。あまりにあっけない幕引きだった。


「……旦那、そんなに溜息をついたら、せっかくの火が消えちまいますぜ」


弟子の次助が、おずおずと声をかけます。残された長男・信重は、父が遺した莫大な財産と、十六人の大家族、そして「中野屋」という重すぎる看板を背負い、途方に暮れていた。


「ぼんぼん」の相続奮闘記

父・兼重は、町に多大な功績と、笑うしかないほどの貯えを残していた。 しかし、信重にとってそれは「宝の山」というより「針のむしろ」だ。


「キタ……。この帳面を見てくれ。職人たちの給金、見習いの食費、病院山の維持費。おやじはどうやってこれらを回していたんだ? 僕は鉄を叩くより、算盤を弾く指の方が先に折れそうだ」


妻のキタは、おっとりした夫を励ますように笑います。 「お前様、大丈夫ですよ。お義父様は『中野屋の財布は、吉井の皆の幸せで膨らんでいるんだ』って仰っていました。……でも、確かにこの薬代の請求書は、ちょっとしたお城が建ちそうな額ですね」


「笑い事じゃないよ。おまけに、父上の『女作一』という銘を超えるものがどうしても打てない。僕の鉄は、父上のものよりどこか、育ちが良すぎて甘いんだ……」


信重は、いわゆる「豊かな家庭で育ったぼんぼん」だ。苦労を鉄に変えた父とは違い、打たれ弱さが顔を出す。子宝に恵まれない寂しさも、彼の肩に重くのしかかっていた。


文明の利器、倉賀野河岸の船旅

そんな信重にとって、唯一の慰めは江戸・日本橋の「丸文」への商談だ。


「昔は二日半かけて草鞋を履き潰して歩いたもんですが、今は楽でいい。倉賀野河岸から船に乗れば、一日で日本橋ですからね」


次助を連れて、絹や砥石、そして自慢の火打ち金を積んだ船に乗り込む。 「旦那、見てくださいよ。利根川の流れに乗って、風を切って進む。これなら足の豆を潰す心配もねえ。お江戸の女郎衆に会いに行く元気も残りますな!」


「次助、不謹慎だぞ。僕は商談に行くんだ」 そう言いながらも、信重の表情は少しだけ和らいだ。船旅は、重い相続の重圧から一時だけ彼を解き放ってくれた。


父の影を追って

江戸の丸文支店で、信重は父の代からの大番頭に詰め寄られた。

「親方、中野屋の火打ち金は相変わらず素晴らしいが……兼重親方のあの『魂が跳ねるような火花』が、最近少し大人しくなった気がしますな」


その言葉は、信重の胸に深く刺さった。 吉井に戻った信重は、桑畑の広がる屋敷の北側を一人歩いた。火打金作りの合間に養蚕を営む、穏やかな生活。明治に入っても生産高は良好で、暮らしに不自由はない。


しかし、延命蜜院にある父の墓——墓を前にするたび、信重は己の未熟さを痛感するのだった。


「父上。僕は、あなたのように強くなれるでしょうか」


信重は、父が遺した「女作一」の鏨を握りしめた。 打たれ弱い二代目は、それでも逃げ出さずに火床の前に立ち続ける。 父が愛した吉井の町を、そして病院山の患者たちを守るために。


「カッ……カッ……」


信重の槌音は、兼重のものほど激しくはない。 けれど、それは誰よりも優しく、悲しみを包み込むような、二代目ならではの「祈り」の音へと変わり始めていた。


カッカッ!カッカッ!


嫁いだ娘タケ

一方娘のタケ伊勢崎の在の養蚕農家の佐太郎に嫁いだ。吉井の工房で鉄を叩く兼重の耳に、嫌な風の音が混じった。伊勢崎に嫁いだ娘・タケの噂だ。 婿の佐太郎は、蚕を育てる腕は確かだが、ひとたび酒が入ると人が変わる。仕事のストレスを拳に変え、タケに叩きつけているという。


ある夜、タケがこっそり実家へ顔を出した。頬の腫れを隠すように頭を下げた彼女に、兄の信重がたまらず口を開いた。 「タケ、もう我慢しなくていい。太田の満徳寺へ行け。あそこへ一歩踏み込めば、徳川の公儀も佐太郎も手出しはできねえ。縁切り寺は女の最後の砦だ」


太田市 縁切り寺満徳寺

「……でも、兄さん。あそこへ入れば私は尼さん。息子の政吉はどうなるの。あの子を置いて、仏様に身を捧げるなんてできないわ」


タケは、信重の甥にあたる愛児・政吉を抱きしめ、涙を落とした。 その時、それまで黙って鉄を熱していた父・兼重が、真っ赤に焼けた鋼を水に突っ込んだ。「ジュッ!」という激しい音と共に、真っ白な蒸気が工房を包む。


タケは一泊して気が落ち着くとまた伊勢崎に帰っていった。

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