SS :リゼット隣国で無双する
追加エピソード執筆しました!
楽しんでもらえたら嬉しいです!!
エルツハイム王国の王妃となって、一年が過ぎた。
「リゼット、また書庫に籠もっていたのかい? 君は本当に勉強熱心だね」
優しい声と共に、ふわりと肩に温かいショールがかけられる。
振り返ると、夫である国王クラウディオが、愛おしそうな眼差しで私を見つめていた。
「クラウディオ様。……いいえ、陛下。お仕事はよろしいのですか?」
「君がいない執務室は、少しだけ寒いからね。少しだけ、君の温もりを分けてもらいに来たんだ」
そう言って悪戯っぽく笑う彼の姿に、私の頬も自然と緩む。
かつて『出来損ない』と蔑まれ、感情を殺して生きてきた日々が、まるで遠い昔の御伽噺のように思えた。
今の私は、リゼット・フォン・エルツハイム。
この国の王妃として、そしてクラウディオの妻として、穏やかで満たされた日々を送っている。
「この国の歴史を、もっと知りたくて。わたくしが、この国のためにできることは、まだたくさんあるはずですから」
「もう十分すぎるほどだよ。君がここにいて、笑顔でいてくれる。それが、私にとっても、この国の民にとっても、最高の宝物だ」
クラウディオの言葉は、いつも私の心の奥底を温かい光で満たしてくれる。
彼の隣でなら、私は私のままでいられる。
『無色』の魔力を持つ、ありのままの私で。
しかし、そんな幸せな日々の中にも、この国が長年抱える、一つの大きな影があった。
その日の午後。
クラウディオと国の行く末について話し合っていた私は、ある資料に目を留めた。
それは、王国の西部に広がる『嘆きの谷』に関する報告書だった。
「嘆きの谷……?」
「ああ……我が国が、建国以来ずっと抱えている、呪われた土地だ」
クラウディオの表情が、わずかに曇る。
資料によれば、その谷は数百年前の古代戦争の折にかけられた強力な呪いによって、生命が一切育たない不毛の大地と化しているという。
草木は枯れ、川は淀み、大地からは常に微弱な瘴気が発生している。
周辺の村々は貧しく、人々は痩せた土地で必死に暮らしているのが現状だった。
「浄化を試みた者はいなかったのですか?」
「もちろん、歴代の宮廷魔術師や高名な神官たちが、何度も挑戦してきた。だが、谷に満ちる呪いはあまりにも根深く、強大でね。挑戦した者の多くが、逆にその魔力を蝕まれ、心を病んでしまったんだ」
クラウディオは、悔しそうに唇を噛んだ。
「あの谷を緑豊かな大地に変えることができれば、どれだけの民が救われるか……。王として、不甲斐ないばかりだ」
その横顔を見つめながら、私の心は決まっていた。
かつての私なら、何もできずにただ胸を痛めるだけだっただろう。
だが、今は違う。
私には、この力がある。
そして、この力をどう使えばいいのかを、私はもう知っている。
「陛下。……その『嘆きの谷』へ、わたくしを連れて行っていただけませんか?」
私の申し出に、クラウディオは驚いて目を見開いた。
「リゼット!? だが、あそこはあまりにも危険だ! 君をそんな場所に……!」
「だからこそ、です」
私は、彼の両手をそっと握った。
その翡翠の瞳を、まっすぐに見つめて。
「わたくしの力は、このためにあるのだと思います。あなたと出会い、この国に来て、本当に幸せな日々をいただきました。だから今度は、わたくしがこの国の人々のために、何かを成したいのです」
私の瞳に宿る決意の光を読み取ったのだろう。
クラウディオは一瞬言葉に詰まった後、ふっと息を吐いて、その表情を穏やかなものに戻した。
「……君が、そういうと思ったよ。分かった。君の意志を、私は信じよう」
そして、彼は力強く私の手を握り返した。
「だが、約束してくれ。決して無理はしないと。君の隣には、いつも私が、そしてフェンリルがついている」
《無論です、我が王よ》
どこからともなく、重々しくも頼もしい思念が響く。
いつの間にか私の足元に寄り添っていた聖獣フェンリルが、黄金の瞳で静かに頷いていた。
こうして、エルツハイム王国の歴史が、そして世界の常識が覆る、壮大な浄化の旅が始まろうとしていた。
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王妃自らが『嘆きの谷』へ赴くという知らせは、王宮内に大きな波紋を広げた。
古参の貴族たちの中には、「正気とは思えぬ」「聖女である王妃様を危険に晒すなど」と、声高に反対する者も少なくなかった。
しかし、クラウディオは国王として、毅然とした態度で宣言した。
「王妃の意志は、私の意志だ。そして、私は彼女の力を、誰よりも信じている。この件に関する一切の異論は認めない」
彼の絶対的な信頼が、私の何よりの力となった。
数日後。
最小限の護衛と、クラウディオ、そしてフェンリルと共に、私は『嘆きの谷』の入り口に立っていた。
そこに広がっていたのは、報告書で読んだ以上の、絶望的な光景だった。
空は鉛色に淀み、乾いた風がヒューヒューと音を立てて吹き抜ける。
大地はひび割れ、生命の気配はどこにもない。
黒く捻じれた枯れ木が、まるで亡霊のように点在している。
そして、淀んだ川から立ち上る、腐臭を伴った微弱な瘴気が、肌をピリピリと刺した。
「……これが、嘆きの谷」
護衛の騎士たちが、思わずといった様子で顔を覆う。
空気に含まれる呪いの濃度は、並の人間であれば、立っているだけで精神を蝕まれてしまうほど強烈だった。
だが、私は不思議と、落ち着いていた。
この禍々しい気配は、かつてフェンリルを蝕んでいた瘴気と同質のもの。
そして、私の『無色』の魔力は、その天敵だ。
「リゼット、大丈夫かい?」
心配そうに私を覗き込むクラウディオに、私は力強く微笑んでみせた。
「はい。……むしろ、心が燃えるようです。この大地が、助けを求めているのが分かります」
私は一歩前へ進み出ると、瞳を閉じて、深く息を吸った。
そして、祈る。
この大地に眠る、生命の息吹に。
どうか、もう一度目覚めてほしい、と。
左手首の腕輪が、温かい光を放ち始める。
次の瞬間、私の体から、純粋な『無色』の魔力が、光の波紋となって四方八方へと広がっていった。
ザァァァァァ―――……ッ!!
それは、暴力的な破壊の力ではない。
春の陽光が、冬の凍てついた大地を優しく溶かすような、慈愛に満ちた浄化の奔流。
光が触れた場所から、劇的な変化が起こり始めた。
ジュウウゥ、と音を立てて、大地を覆っていた呪いの気配が霧散していく。
鉛色だった空は、光の中心からみるみるうちに青空を取り戻し、温かい太陽の光が何百年ぶりに谷底へと差し込んだ。
黒く淀んでいた川の水は、その濁りを失い、せせらぎの音を立てて清流へと変わっていく。
そして、奇跡は、起こった。
ポツ、ポツ……。
乾ききってひび割れていた大地から、緑色の小さな芽が、一斉に顔を出し始めたのだ。
それは瞬く間に成長し、可憐な白い花を咲かせる。
黒い亡霊のようだった枯れ木には、みるみるうちに新しい葉が茂り、生命の息吹を取り戻していく。
「お……おお……!」
「な、なんだこれは……神話の、光景か……?」
護衛の騎士たちが、目の前で起こる奇跡に言葉を失い、その場に膝をつく。
クラウディオもまた、愛する妻が起こした神の御業に、ただ息を呑んで見入っていた。
浄化の光は、谷の隅々まで行き渡り、数刻とかからずに、あれほど絶望的だった不毛の大地を、生命力に満ち溢れた緑豊かな楽園へと変貌させた。
風は花の香りを運び、鳥のさえずりが聞こえる。
川には魚が跳ね、大地は豊かな実りを約束するように、ふかふかと柔らかくなった。
何かを打ち負かすのではなく、全てを生かし、育む力。
世界でただ一人、私だけが成し得る、絶対的な創造と再生の奇跡。
光が収まった時。
私は、生まれ変わった大地に立ち、満面の笑みを浮かべていた。
少しの疲労感もなかった。
むしろ、大地が喜びに打ち震えているのが伝わってきて、私の心も、かつてないほどの幸福感で満たされていた。
「……やったぞ、リゼット」
駆け寄ってきたクラウディオが、感極まった様子で私を強く抱きしめる。
「君は……君は、本当に、私の、この国の女神だ」
彼の腕の中で、私はそっと呟いた。
「いいえ、陛下。わたくしは女神ではありません」
「あなたと出会い、自分の力を信じることができた……ただの、リゼットです」
『嘆きの谷』が『恵みの谷』へと生まれ変わったという知らせは、瞬く間にエルツハイム全土を駆け巡った。
人々は、無色の王妃が起こした奇跡に熱狂し、その名を永遠に語り継ぐことを誓った。
かつて虐げられた令嬢は、今や、一つの国の歴史を塗り替え、未来を創造する、伝説の存在となったのだった。




