最終話
クラウディオ王子に導かれ、私が足を踏み入れた王城の中は、想像以上に深刻な状況だった。
廊下のあちこちで騎士や侍女たちが倒れ伏し、玉座の間からは、重苦しく淀んだ瘴気が溢れ出している。
玉座の間の中央。
そこには、国の要である国王陛下と、その側近たちが苦悶の表情で喘いでいた。
彼らの体から立ち上る黒い靄が渦を巻き、部屋全体の魔力を蝕んでいる。あれが、この異変の源泉。
「……なんと、禍々しい」
クラウディオ王子が、思わずといった様子で呟く。
広間にいた宮廷魔術師たちが、青ざめた顔で私たちに気づいた。
そして、私の隣に控える聖獣フェンリルの神々しい姿と、私自身から放たれる清浄な気の奔流に、目を見開く。
「あの方は……まさか、森の聖女!?」
「聖獣様までお連れだ……!」
国王陛下が、かろうじて意識を保ち、助けを求めるように震える手を私に向けた。
「……頼む、聖女よ。この国を……民を、救ってくれ……」
私は、静かに頷いた。
もう、迷いはない。
恐怖もない。
私はフェンリルとクラウディオ王子に見守られながら、ゆっくりと広間の中央へと進み出た。
そして、瞳を閉じ、両手を胸の前でそっと組む。
(お願い……)
祈りを込める。
誰かを救いたいと、心から願う。
それは、かつて出来損ないと蔑まれた少女が、初めて心の底から自分のためにではなく、他者のために力を解放する瞬間だった。
私の体から、光が溢れ出した。
それは、何色でもない、ただひたすらに純粋で、どこまでも透明な『無色』の光。
左手首の腕輪が、今までで最も強く、温かい輝きを放つ。
光は、はじめは小さな灯火のようだったが、すぐに広間全体を満たすほどの奔流となった。
シャンデリアの光でも、太陽の光でもない。
魂を直接温めるような、慈愛に満ちた光。
「おお……」
「なんて、温かい光だ……」
魔術師たちから、感嘆の声が漏れる。
私の光が、渦巻く瘴気に触れた。
ジュウウゥゥ……という音と共に、闇が光に浄化されていく。
まるで、夜の闇が朝の光に払われるように。
あれほど頑なだった瘴気の塊が、いとも容易く霧散していく様は、まさしく奇跡の光景だった。
国王や側近たちの体から黒い靄が消え、その表情に安堵の色が戻る。
光は玉座の間を満たし、さらに城全体へ、そして王都の隅々へと広がっていく。
灰色の靄に覆われていた空が晴れ渡り、久しぶりに見る温かい太陽の光が街に降り注いだ。
人々は空を見上げ、その奇跡に涙を流し、聖女の到来を喜び合った。
やがて、光が収まった時。
王都を覆っていた瘴気は、一片の欠片もなく消え去っていた。
後に残ったのは、雨上がりのように澄み切った空気と、人々の穏やかな笑顔だけ。
私は、そっと目を開けた。
国王陛下が、玉座から立ち上がり、私の前に進み出て、深く、深く頭を下げた。
「聖女リゼットよ。この国を救ってくれたこと、心より感謝する。……我々は、あなたという真の宝が、こんなにも近くにいたことに気づけなかった。愚かだった」
その言葉に、周囲の貴族たちも皆、一様に頭を垂れる。
そこにはもう、私を『無色』だと蔑む視線は一つもなかった。
あるのはただ、純粋な感謝と、畏敬の念だけ。
私は、静かに微笑んで首を振った。
「陛下、お顔をお上げください。私は、為すべきことを為したまでです」
その時、玉座の間の扉が乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、惨めなほどに打ちひしがれた、アルフォンス様と父の姿だった。
彼らは、国王が私に頭を下げ、貴族たちが傅く光景を目の当たりにして、愕然と立ち尽くしていた。
自分たちが捨てたものが、今、この国の誰よりも尊い存在として輝いている。
その現実を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
王都を救った聖女への感謝を伝える祝宴の席は、そのまま、国を危機に陥れた者たちへの断罪の場へと変わった。
玉座の前に引き据えられたのは、アルフォンス、ヴァインベルク侯爵、そして、震える体で俯くカトリーナの三人。
国王の厳かな声が、静まり返った広間に響く。
「ベルクシュタイン公爵子息アルフォンス、並びにヴァインベルク侯爵。両名は、聖女リゼット様を不当に虐げ、その尊い力を知りながら私利私欲のために利用しようとした。あまつさえ、聖女様を追放したことで、王都の危機を招いた罪は万死に値する」
「そ、そんな……! 私は、知らなかったのです!」
父が、見苦しく弁明を始める。
「あの娘が無色の出来損ないでなかったなどと! 知っていれば、もっと丁重に……!」
その言葉が、彼の罪をさらに重くした。
国王は、侮蔑に満ちた冷たい視線を父に向ける。
「……つまり、そなたは力ある者にはへつらい、力なき者(と思い込んだ者)はゴミのように扱うと。そう申すか。貴族の風上にも置けぬ男よ」
隣に立つクラウディオ王子が、静かに口を開いた。
「陛下。聖女リゼット様は、我がエルツハイム王国が正式に保護をお約束した方。その方を虐げたということは、我が国への侮辱と受け取ってもよろしいですな?」
その一言が、決定打だった。
隣国、それも大国であるエルツハイム王国の王子からの、静かな、しかし絶対的な圧力。
国王は頷き、判決を言い渡した。
「ベルクシュタイン公爵家、及びヴァインベルク侯爵家は、その爵位を剥奪! 全財産を没収の上、王都から永久追放とする!」
「そん、な……」
父が、その場にへたり込んだ。
アルフォンスは、顔面蒼白のまま、わなわなと震えている。
彼らが最も執着していた、地位、名誉、富。その全てが、一瞬にして奪い去られたのだ。
最後に、国王の視線がカトリーナに注がれた。
「カトリーナ嬢。そなたは姉を貶め、その婚約者の地位を奪おうとした。何か申し開きはあるか」
カトリーナは、はっと顔を上げた。
その瞳には、涙が浮かんでいたが、それは反省の色ではなかった。
憎悪と、嫉妬に燃える、醜い光だった。
「どうして……どうして、あなたみたいな『無色』がッ!」
彼女の叫びが、広間に響き渡る。
「わたくしの方が、美しい薔薇色の魔力を持っているのに! わたくしの方が、アルフォンス様に相応しいのに! あなたさえいなければ、全部わたくしのものだったのにッ!」
その醜い嫉妬心が、彼女の中に残っていたわずかな魔力さえも濁らせていく。
あれほど誇りにしていた薔薇色の輝きは、もはや見る影もなく、淀んだ泥水のような色に変わっていた。
人々は、その変わり果てた姿に、憐れみと軽蔑の視線を送る。
「……哀れな娘よ。お前は最後まで、物事の本質を理解できなかったようだな」
国王はそう言って、興味を失ったように視線を外した。
爵位も財産も、そして自慢の魔力の輝きさえも失った三人は、兵士たちによって引きずられていく。
その道中、アルフォンスは、まるで最後の蜘蛛の糸にでもすがるように、私の足元に這い寄った。
「リゼット……! 頼む、考え直してくれ! 君を愛している! 私の、私の女神……!」
「……離してください」
私は、その手を冷たく一瞥した。
「あなたの言う『愛』は、わたくしには必要ありません。それに、わたくしは誰の女神でもありませんわ」
私は、はっきりと告げた。
「わたくしは、ただの『リゼット』です」
その言葉に、アルフォンスは完全に打ちのめされたように崩れ落ちた。
彼らがこれから辿るであろう、惨めで苦しい人生。
それは、彼らが私に与えてきた仕打ちを考えれば、あまりにも当然の報いだった。
全てが終わり、私は王城のバルコニーで、生まれ変わった王都の景色を眺めていた。
街には活気が戻り、人々の楽しげな笑い声が風に乗ってここまで届いてくる。
「……美しい眺めだ」
いつの間にか隣に立っていたクラウディオ王子が、優しい声で言った。
彼の翡翠の瞳が、私を穏やかに見つめている。
「クラウディオ様。……この度は、本当にありがとうございました」
私が深く頭を下げると、彼は慌てたように私の肩に手を置いた。
「やめてください、リゼット様。礼を言うのは、私の、そして我が国のほうです」
彼は真摯な瞳で、続けた。
「リゼット様。もし、よろしければ……この国を出て、私の国へ来てはいただけませんか」
それは、あまりにも思いがけない申し出だった。
「あなたのその偉大な力を、我が国のために、などと野暮なことは言いません。ただ……あなたに、穏やかで、幸せな日々を送ってほしい。もう二度と、誰にもあなたの心を傷つけさせはしないと、私が誓います」
「クラウディオ様……」
「私は、森で初めてお会いした時から、あなたに惹かれていました。聖女としてのあなたではなく、傷つきながらも、他者を思いやる優しさを失わなかった、リゼットという一人の女性に」
彼の言葉は、今まで誰からも向けられたことのない、温かく、真っ直ぐなものだった。
それは、私の『力』ではなく、『私自身』に向けられた、偽りのない想い。
「リゼット様。私と、結婚してください。私の隣で、あなたのありのままの笑顔を見せてほしい」
気づけば、私の頬を涙が伝っていた。
それは、悲しみでも、安堵でもない。
心の底から湧き上がる、温かい、幸福の涙だった。
私は、最高の笑顔で頷いた。
「……はい、喜んで」
―――
それから、一年後。
エルツハイム王国の王宮には、国民から深く敬愛される、一人の美しい王妃がいた。
彼女の魔力は、相変わらず『無色』のまま。
けれど、そのことを蔑む者など、もうどこにもいない。
人々は知っている。
その色が、何よりも尊い、生命を育む癒やしの光であることを。
「リゼット、ここにいたのか」
「クラウディオ様! ……見てください。この月光花、綺麗に咲きましたわ」
中庭で、私は新しい夫となったクラウディオと、そしていつもそばにいてくれる忠実な騎士、聖獣フェンリルと共に、穏やかな時間を過ごしていた。
私の隣には、真に私を愛し、理解してくれる家族がいる。
もう、他人の評価に怯え、自分を偽る必要はない。
私は、ありのままの私を愛してくれる人々と共に、ここにいる。
かつて『出来損ない』と呼ばれた令嬢は、その無色の輝きで世界を照らし、誰よりも幸せな笑顔で、新しい人生を歩み始めたのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
★~★★★★★の段階で評価していただけると、モチベーション爆上がりです!
リアクションや感想もお待ちしております!
ぜひよろしくお願いいたします!




