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無色の魔力を持つ出来損ない令嬢ですが、その力をうっかり聖獣に見初められたので、冷酷な婚約者と傲慢な妹にはもう関わりません  作者: 九葉


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第6話

その頃の私は、フェンリルと共に、森の泉のほとりで穏やかな日々を過ごしていた。


《主よ。力の制御が、随分と上達されましたな》


フェンリルの思念が、優しく頭に響く。

私の目の前では、瘴気に当てられて弱っていた一羽の小鳥が、元気を取り戻して空へと羽ばたいていった。


「あなたのおかげよ、フェンリル。教えてくれるもの」


私は微笑んで、フェンリルの銀色の毛並みを優しく撫でた。

ここに来てから、私はフェンリルに教えを乞い、自分の力の使い方を学んでいた。

この『無色』の力は、ただ癒やすだけではない。

大地に満ちる魔力を活性化させ、植物の成長を促したり、汚れた水を清めたりすることもできた。


自分の力が、誰かの役に立つ。

その事実が、凍りついていた私の心を、少しずつ溶かしてくれていた。

顔色も良くなり、瞳には、かつて失われていた光が戻り始めていた。


そんなある日の午後だった。

森の木々の間から、一人の青年が姿を現した。


上質な旅装束に身を包み、腰には見事な装飾の剣を帯びている。

しかし、その佇まいに威圧感はなく、むしろ森の静けさに溶け込むような、不思議な気配をまとっていた。

夜空の色を閉じ込めたような深い瑠璃色の髪。そして、森の木漏れ日のように穏やかな、翡翠の瞳。


その青年は、私と、その隣に控える巨大なフェンリルの姿を認めると、驚きに目を見開いた。

だが、それは恐怖や警戒の色ではなかった。

――安堵と、そして敬意の色だった。


青年は、その場で静かに片膝をつき、恭しく頭を垂れた。


「……ようやく、お会いできました。嘆きの森の聖女よ」


その、あまりにも真摯な態度に、私は戸惑ってしまう。

「せ、聖女だなんて……。人違いですわ。私は、リゼットと申します」

「リゼット様、と。私はクラウディオと申します。……どうか、我々の無礼をお許しいただきたい。そして、嘆願を聞き入れてはいただけないでしょうか」


クラウディオと名乗る青年は、顔を上げると、悲痛な色を瞳に浮かべて語り始めた。

王都が今、原因不明の瘴気に蝕まれていること。

多くの人々が、魔力を濁らせ、苦しんでいること。

そして、その瘴気を浄化できる唯一の存在が、伝説の聖獣とその主である可能性に賭け、この森を訪れたこと。


彼の話を聞きながら、私の胸は大きく揺れ動いていた。

王都。

そこは、私を虐げ、苦しめた場所。

私を無価値だと切り捨てた人たちがいる場所だ。


(わたくしが、どうして……)


助ける義理など、ないはずだ。

そう思う一方で、クラウディオの語る、名も知らぬ人々の苦しみを、どうしても無視することができなかった。

瘴気に苦しむというのは、どういうことか、私は知っている。

フェンリルを蝕んでいた、あの禍々しい苦痛。

あれと同じ苦しみに、今、多くの人々が苛まれている。


《主よ》


フェンリルが、そっと私の頬に鼻先を寄せた。

その黄金色の瞳が、静かに問いかけてくる。

『どうされますか』、と。


「……わたくしの力で、本当に、人々を救うことができるのでしょうか」

私の問いに、クラウディオは力強く頷いた。

「できます。あなたのその清らかな気配、そして、あなたに付き従う聖獣フェンリル様の存在が、何よりの証拠です」


彼は、私の『無色』の魔力について、何も聞かなかった。

ただ、私という存在そのものを、私の持つ力を、真っ直ぐに信じてくれていた。

こんな風に誰かに信じてもらえたのは、亡き祖母以来、初めてのことだった。


「……分かりました。行きます」


迷いを振り払うように、私は顔を上げた。

「わたくしで力になれることがあるのなら、王都へ参りましょう」


私の決意に、クラウディオの表情が、ぱっと明るく綻んだ。

それは、心からの感謝と喜びに満ちた、太陽のような笑顔だった。


「ああ、感謝いたします、聖女リゼット様。あなたこそ、我が国……いいえ、この世界にとっての、希望の光だ」


こうして私は、クラウディオとフェンリルに守られ、忌まわしい記憶の残る王都へと、再び足を踏み入れることになった。

それが、過去との決別と、新たな運命の始まりになることも知らずに。


---


王都の城門が見えてきた時、私は思わず足を止めた。

記憶にある活気に満ちた姿はそこにはなく、街全体が灰色の靄に沈んでいるように見える。

人々は俯きがちに歩き、その表情は一様に暗い。


城門の前には、物々しい雰囲気で武装した一団が待ち構えていた。

そして、その中心に立つ二人の人物を認めた瞬間、私の心臓は冷たく凍りついた。


「――リゼット!」


父、ヴァインベルク侯爵。

そして、元婚約者のアルフォンス様だった。


彼らは、クラウディオに護衛され、巨大なフェンリルを従えた私の姿を見るや否や、驚きと、そしてすぐに下卑た喜びに満ちた表情を浮かべて、駆け寄ってきた。


「おお、リゼット! 無事だったか! 心配したのだぞ!」

父が、今まで一度も見せたことのないような、愛情深い父親の仮面を被って叫ぶ。

そのわざとらしさに、吐き気がした。


「リゼット、君を探していたんだ! なんてことだ、噂は本当だったのだな。君が、聖女だったとは!」

アルフォンス様も、恍惚とした表情で私に手を差し伸べる。

「さあ、帰ろう、リゼット。屋敷では、君を迎える準備ができている。君ほどの素晴らしい女性を、私が手放すはずがないだろう?」


見え透いた嘘。

都合のいい言葉の羅列。

以前の私なら、この偽りの優しさに縋ってしまったかもしれない。

けれど、もう違う。


私の隣には、真に私を信じ、守ってくれる人たちがいる。


私はアルフォンス様の手を払いのけることなく、ただ一歩、後ろに下がった。

そして、氷のように冷たい視線で、彼らを真っ直ぐに見据えた。


「……お言葉ですが、アルフォンス様。あなたは、わたくしを『出来損ない』だと、『ベルクシュタイン家の恥』だと、そうおっしゃって、妃教育の任を解いたはずですわ」


私の静かな、しかし芯の通った声に、アルフォンス様の顔がひきつった。


「なっ……そ、それは、君の本当の力を隠すための、演技に決まっているだろう!」

「では、お父様。わたくしを『ヴァインベルク家の恥』だと罵り、妹の爪の垢でも煎じて飲め、とおっしゃったのも、演技で?」

「うぐっ……! そ、れは、お前を奮起させるための、親心だ!」


必死で言い訳を重ねる二人の姿は、滑稽で、そして哀れだった。


私は、静かに首を横に振った。


「もう、結構ですわ。あなた方が求めているのは、『リゼット』という人間ではありません。ただ、あなた方の都合のいい『聖女の力』だけなのでしょう?」


私の言葉が、図星を突いたのだろう。

二人はぐっと言葉に詰まる。


「わたくしはもう、あなた方の道具ではありません。ヴァインベルク家の出来損ない令嬢でも、ベルクシュタイン家のための飾り物でもないのです」


私は、すっと背筋を伸ばし、はっきりと宣言した。

「わたくしは、わたくし自身の意志で、この力を、苦しんでいる人々のために使います。……あなた方のためでは、断じてありません」


これが、私の決別宣言だった。


アルフォンス様の顔が、屈辱に赤く染まっていく。

「……っ、この、恩知らずがッ!」

プライドをズタズタにされた彼は、理性を失い、私に掴みかかろうと腕を伸ばした。


その瞬間。


「グルルルルァァァァッ!!」


フェンリルが、地を揺るがすほどの威嚇の咆哮を上げた。

剥き出しにされた牙と、燃えるような黄金の瞳。

その圧倒的な神威の前に、アルフォンスも、兵士たちも、恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。


そして、もう一つ。

アルフォンスの腕が私に届く寸前、閃光のような速さで抜き放たれた剣が、その動きを制していた。


「――それ以上、聖女殿に近づくな。下衆が」


冷たく響く声と共に、クラウディオが私の前に立ちはだかる。

その翡翠の瞳は、穏やかな光を消し、絶対零度の怒りを湛えていた。


「き、貴様、何者だ!」

アルフォンスが、剣を突きつけられたまま叫ぶ。

クラウディオは、ふ、と鼻で笑うと、ゆっくりと告げた。


「我が名は、クラウディオ・フォン・エルツハイム。隣国エルツハイム王国の、第一王子である」


その言葉に、アルフォンスとヴァインベルク侯爵の顔から、完全に血の気が引いた。

隣国の、王太子殿下。

自分たちが、どれほど高貴で、そして敵に回してはいけない相手に無礼を働いたのかを、ようやく理解したのだ。


クラウディオ王子は、青ざめる二人を冷ややかに見下ろすと、厳かに宣言した。


「聖女リゼット様は、我がエルツハイム王国が、最大級の敬意をもって庇護させていただく。……もはや、貴殿らが口を挟む余地など、一片たりとも存在しないと知れ」


絶望。

アルフォンスと侯爵の顔に浮かんだのは、まさしくその一言だった。

自分たちが手放した「石ころ」が、世界を救うほどの輝きを持つ「宝石」だったこと。

そして、その宝石はもう、二度と自分たちの手には戻らないこと。

その事実が、彼らの目の前で、無慈悲に突きつけられた瞬間だった。

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