第4話
月明かりだけが頼りの森の中は、昼間とは全く違う顔を見せていた。
ざわざわと風に揺れる木々の葉音が、まるで不気味な囁き声のように聞こえる。
梟の鳴く声が、闇の中から不意に響き、そのたびに私の肩は小さく震えた。
(怖い……)
けれど、引き返そうとは思わなかった。
あの屋敷で心を殺して生きる苦しみに比べれば、この森の暗闇の方が、よほどましに思えた。
祖母の記憶だけを頼りに、獣道にもならないような道を進んでいく。
木の枝が頬を掠め、ドレスの裾は泥に汚れた。
どれくらい歩いただろうか。
全身が汗と土埃にまみれた頃、不意に視界が開け、懐かしい水の音が耳に届いた。
「……着いた」
そこは、月光を浴びて銀色に輝く、小さな泉だった。
澄み切った水面が、満月を鏡のように映し出している。
周囲には、夜にだけ咲くという月光花が、青白い光を放ちながら静かに佇んでいた。
幼い頃と変わらない、幻想的な光景。
ここは、世界から切り離された、聖域のようだった。
わたくしは泉のほとりにへたり込み、深く息を吸った。
澄み切った空気が、ささくれだった心を少しだけ癒してくれる。
鞄から水筒を取り出し、喉を潤した、その時だった。
「……グルルル……」
低い、苦しげな唸り声。
そして、淀んだ、腐臭にも似た嫌な匂い。
はっとして顔を上げると、泉の対岸、大きな岩の影に、巨大な獣が横たわっているのが見えた。
月光に照らされたその姿に、わたくしは息を呑む。
(狼……?)
それは、今まで見たどんな狼よりも大きく、そして、美しかった。
全身の毛は、まるで溶かした銀をそのまま紡いだかのように輝き、その体躯はしなやかで力強い。
神話に出てくる、伝説の聖獣のようだった。
だが、その神々しい姿とは裏腹に、聖獣はひどく苦しんでいるようだった。
左の前脚に、黒い靄のようなものがまとわりついている。
それはまるで生き物のように蠢き、聖獣の体を蝕んでいるように見えた。
瘴気――邪悪な魔力が凝縮したものだ。
聖獣は時折、体を痙攣させ、喉の奥で痛みに満ちた呻き声を漏らしている。
(怪我を、しているの……?)
わたくしは、その聖獣から目が離せなくなった。
気高く美しい存在が、邪悪な力によって苦しめられている。
その姿が、まるで家族や婚約者から「出来損ない」と蔑まれ、心を蝕まれてきた自分自身と、重なって見えたのだ。
怖い、という感情は、不思議と湧いてこなかった。
ただ、助けてあげたい、と。
その一心だった。
わたくしはゆっくりと立ち上がり、泉の水を避けながら、聖獣の方へと歩みを進めた。
わたくしの接近に気づいた聖獣が、鋭い牙を剥き、威嚇の唸り声を上げる。
「グルルルァァッ!」
空気が震えるほどの咆哮。
普通の人間なら、恐怖で足がすくんで動けなくなるだろう。
けれど、わたくしは足を止めなかった。
その黄金色の瞳の奥に、痛みと、そして深い孤独の色を見たから。
「怖がらないで。……わたくしは、あなたに危害を加えたりしないわ」
できるだけ優しく、語りかける。
聖獣は警戒を解かないものの、それ以上の威嚇はしてこなかった。
ただ、苦しそうに息をしながら、こちらをじっと見つめている。
わたくしは、その傷ついた脚の前に、そっと膝をついた。
間近で見ると、瘴気の禍々しさは想像以上だった。
見ているだけで気分が悪くなるような、濃密な負の魔力。
美しい銀の毛は黒く変色し、その下の皮膚は焼けただれたように爛れている。
(なんて、痛々しい……)
どうすれば、この苦しみを取り除いてあげられるだろう。
薬師でもないわたくしに、何ができる?
何もできない無力な自分が、もどかしかった。
その時、わたくしは無意識に、祖母の腕輪を握りしめていた。
そして、祈るように、そっと瘴気に蝕まれた聖獣の脚へと、手を伸ばした。
わたくしの指先が、聖獣の脚を覆う黒い瘴気に触れるか触れないか、という瞬間。
――パチッ。
小さな火花が散るような音がした。
次の瞬間、わたくしの体の中から、自分のものではないような、温かい力が溢れ出してくるのを感じた。
「……ぁ」
それは、わたくしの魔力だった。
いつもはただそこに在るだけで、何の色も、何の力も示さなかった、あの『無色』の魔力が。
左手首の腕輪にはめ込まれた水晶が、淡い、けれど確かな光を放ち始める。
その光に呼応するように、わたくしの手のひらから、透明な光の粒子が溢れ出した。
聖獣が、驚いたように目を見開く。
わたくしの手から放たれた無色の光は、まるで清らかな水が汚れを洗い流すように、禍々しい瘴気に触れていく。
ジュウウゥゥ……。
瘴気が、陽光に晒された闇のように、音を立てて消えていく。
腐臭が消え、代わりに雨上がりの森のような、清浄な空気が満ちてきた。
聖獣の脚にまとわりついていた黒い靄は、みるみるうちに薄れ、やがて跡形もなく消え去った。
後に残ったのは、痛々しい傷跡だけ。
だが、その傷も、わたくしの光に包まれるうちに、ゆっくりと、しかし確実に癒えていくのが見えた。
焼けただれた皮膚が再生し、黒く変色していた毛が、元の美しい白銀の色を取り戻していく。
(これが、わたしの……『無色』の魔力の、力……?)
信じられなかった。
出来損ないと蔑まれ、自分自身ですら忌み嫌っていたこの力が、今、目の前で奇跡を起こしている。
それは、何かを破壊する力ではなかった。
傷ついたものを癒し、邪悪なものを清める、あまりにも優しく、温かい力だった。
やがて、腕輪の光が静かに収まり、わたくしの手から溢れていた光も消えた。
聖獣の脚は、完全に元通りになっていた。
傷跡一つない、滑らかで美しい銀色の毛並み。
わたくしは、呆然と、自分の手のひらを見つめた。
聖獣は、ゆっくりと体を起こすと、治った自分の脚を不思議そうに眺め、それから、静かにわたくしの顔を見上げた。
その黄金色の瞳には、もう警戒の色はなかった。
代わりに宿っていたのは、深い感謝と、そして畏敬の念。
聖獣は、わたくしの目の前に進み出ると、恭しくその場に前脚を折り、頭を垂れた。
まるで、騎士が主に忠誠を誓うかのように。
その時、凛とした、けれど優しい声が、頭の中に直接響いてきた。
《――我が主よ》
「え……?」
声など、どこからも聞こえない。
けれど、確かに聞こえたのだ。
《我が名はフェンリル。この森を守りし聖狼。永きにわたり我を蝕んでいた呪いの瘴気を浄化してくださったこと、心より感謝申し上げる》
テレパシー……?
聖獣が、わたくしに直接語りかけている。
《その御力……なんと清らかで、尊いものか。それは、あらゆる魔力の源にして、あらゆる穢れを祓う原初の光。『無色』にして『全ての色』を内包する、聖なる浄化の力》
聖なる、浄化の力。
わたくしの魔力が?
出来損ないと、無価値だと、誰もがそう言ったこの力が?
《人々は、その力の本当の価値を知らぬのですな。派手な色の破壊の力ばかりをもてはやし、最も尊い、生命を育み癒す力を忘れてしまった》
フェンリルの言葉が、乾ききった私の心に、じんわりと染み込んでいく。
《我が主。あなた様は、決して出来損ないなどではない。その力は、この世界にとって、何よりも必要な、かけがえのない宝なのです》
その言葉は、誰よりもわたくし自身が、ずっと聞きたかった言葉だった。
祖母以外の誰からも、一度もかけてもらえなかった言葉。
ああ、そうか。
お祖母様は、知っていたのかもしれない。
わたくしの力の、本当の意味を。
だから、この腕輪を。
――この腕輪が、いつかあなたの本当の力を示してくれるでしょう。
溢れ出した涙が、次から次へと頬を伝い、地面に落ちて染みを作った。
それは、悲しみの涙ではなかった。
初めて自分の存在を肯定されたことへの、どうしようもないほどの喜びと安堵の涙だった。
わたくしはしゃがみ込み、フェンリルの柔らかい毛並みに顔をうずめて、子供のように声を上げて泣いた。
フェンリルは、そんなわたくしを咎めることなく、ただ静かに、その温かい体で寄り添ってくれていた。
月光が照らす泉のほとりで、一人の令嬢と一匹の聖獣は、静かに互いの孤独を癒し合っていた。
わたくしの心の中で、何かが音を立てて生まれ変わる。
もう、以前の、ただ虐げられるだけのリゼット・フォン・ヴァインベルクではなかった。
これは、わたくしが、本当の自分を取り戻す物語の、始まりだった。




