第3話
昨夜、心の奥底で灯った小さな決意の炎は、翌朝にはもう、冷たい現実の前にかき消されそうになっていた。
朝食の席。
いつもはカトリーナの楽しげな声だけが響くダイニングルームは、今日に限って重苦しい沈黙に支配されていた。
父と母は、まるで値踏みでもするかのような冷ややかな視線を、時折わたくしに投げてくる。
カトリーナは、わざとらしく悲しげな表情を浮かべて、俯いていた。
そして、その異常な空気の中心にいるのは、客であるはずの婚約者――アルフォンス様だった。
銀の食器が皿に触れる、乾いた音だけが響く。
その音が止んだ時、アルフォンス様がナプキンで口元を拭い、切り出した。
「リゼット。単刀直入に言おう」
氷のように冷たい声。
わたくしは、これから告げられるであろう言葉を予感し、思わずフォークを握る手に力を込めた。
「君には、ベルクシュタイン家に嫁ぐための教育を、これ以上施しても無駄だと判断した」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
息が詰まる。
それは、事実上の婚約破棄の宣告に等しかった。
「あまりにも、君は出来が悪い。魔力は無色で、社交性も皆無。そんな君を公爵夫人として迎えれば、我が一族の恥となる」
「……っ」
「そこで、だ。ヴァインベルク家との縁は残しておきたい。――カトリーナ嬢に、君の代わりに公爵夫人教育を受けてもらうことにした」
アルフォンス様の視線が、カトリーナへと注がれる。
カトリーナは頬を染め、しかし、申し訳なさそうに眉を下げてみせた。
「まあ、アルフォンス様……。お姉様がいらっしゃるのに、わたくしなどが」
「いや、君こそがベルクシュタイン家に相応しい。その類まれなる薔薇色の魔力、そして誰からも愛されるその美貌と才覚。リゼットとは、何もかもが違う」
父が、満足げに頷く。
「賢明なご判断です、アルフォンス様。この出来損ないの娘には、荷が勝ちすぎたようですな」
出来損ない。
実の父親から、婚約者の前で、そう断じられる。
頭が真っ白になり、耳鳴りがした。
昨夜、ほんの少しだけ抱いた希望や決意が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
「というわけだ、リゼット。今日から、君が今まで受けていた妃教育の全てを、カトリーナに引き継いでもらう。いいね?」
「……はい」
抵抗など、できるはずもなかった。
この家で、この国で、わたくしに味方など一人もいないのだから。
食事の後、わたくしは自室で、妃教育に関する全ての資料をカトリーナに引き渡していた。
分厚い歴史書、複雑な作法に関する教本、そして王家の系譜。
それらを受け取りながら、カトリーナは勝ち誇った笑みを隠そうともしなかった。
「お姉様、今までご苦労様でした。出来の悪いお姉様に代わって、これからはわたくしがアルフォンス様をしっかりお支えしますわ」
「……ええ」
「ああ、そうだわ。それから……」
カトリーナの視線が、わたくしの左手首で止まった。
その瞳に、欲深い光が宿る。
「その腕輪。みすぼらしくて、今の『無用な』お姉様にはお似合いですけれど、わたくしが貰って差し上げますわ」
「! それだけは、だめ……!」
思わず、腕輪を右手でかばうように覆った。
これだけは。
亡き祖母の、唯一の形見であるこれだけは、絶対に渡せない。
「これは、お祖母様の……大切な形見なの」
「あら、お祖母様はわたくしのことも可愛がってくださいましたもの。わたくしが持っている方が、お祖母様もお喜びになるのではなくて?」
「嫌です! これだけは、絶対に……!」
わたくしが強く拒絶したことに驚いたのか、カトリーナは一瞬目を見開いた後、憎々しげに顔を歪めた。
「たかがガラクタ一つに、みっともない。……いいですわ、そんなもの。アルフォンス様の隣に立つわたくしには、もっと相応しい宝石がいくらでも手に入りますもの」
そう吐き捨て、カトリーナは資料を抱えて部屋を出て行った。
一人残された部屋で、わたくしは崩れるようにベッドに倒れ込む。
(無用な、わたくし……)
そうだ。
婚約者としての役目も、侯爵令嬢としての価値も、全てを失った。
この家にはもう、わたくしの居場所などどこにもない。
心が、ぽっかりと穴が空いたように空虚だった。
涙さえ、もう流れない。
(……どこかへ、行きたい)
この息の詰まる屋敷から。
冷たい視線しかない家族から。
わたくしを無価値だと断じる、この世界から。
ふと、脳裏に一つの場所が浮かんだ。
屋敷の裏手に広がる、広大な森。
その奥深くにある、小さな泉。
幼い頃、祖母がよくわたくしを連れて行ってくれた、秘密の場所。
――ここでは、魔力の色なんて関係ありません。リゼットは、優しい、いい子ですよ。
あの場所なら、少しだけ、息ができるかもしれない。
わたくしは誰にも見つからないよう、質素な旅支度を整えた。
クローゼットの奥から、古びたフード付きのクロークを引っ張り出し、深く頭から被る。
そして、小さな鞄に少しばかりのパンと水筒を詰め、夜の闇に紛れて、静かに屋敷を抜け出したのだった。




