CASE 0:Ran Goryobaru
アルカンシエル。
それは、ひそかに佇む小さな店。
その店には、秘密がある。
幸せで、切ない、秘密がーー。
これは、明音たちが訪れるよりももっと、もっと昔。
ある男の始まりと喪失、そして再生を綴った物語ー
*藍 Side*
コーヒーが好きだった。
そこに特別な理由なんてない。
ただ、自分のために淹れる一杯が好きだった。
自分が好きだから、飲む。ただ、それだけ。
大学で立ち上げたコーヒー研究会は、そのために作った自分への憩いの場だった。
「ねぇ、コーヒー研究会ってなに!? もしかして、コーヒー作ってくれるの!!?」
そんな自分だけの領域に、彼女はなんの躊躇いもなくきた。
周囲から変人として、一線置かれていた、自分の元に。
「不法侵入でーす。関係者以外は入らないでくださーい」
「え、だって書いてるじゃん! 誰でもどうぞって! 先生に聞いたよ、職員室のコーヒーはコーヒー研究会からもらうことがあるって! それ、君のことだよね!?」
「あー、あれは残してもらうための交換条件的なやつで……ともかく、知らない人に作るコーヒーなんてありません。はい、おとといきやがれー」
「そんなこといわずにさぁ! お願い! 今、すんごくコーヒーが欲しいの!! 自販機のコーヒー、全部売り切れてて〜」
「コンビニで買えばいいじゃないですか」
「今から行ったら講義始まっちゃうじゃぁん! ね、いいでしょ? おねがぁい! 今度超絶高いコーヒー奢るからぁ〜!!」
ーーーー人間は、めんどくさい。
関わるだけで恋愛、友情など、ありとあらゆる問題に振り回される。
そんなことを考えずに済む、一人が好きだった。
だから一人でいた。一人が、気楽だった。はずなのに。
「………は? 何これ、ほんとにコーヒー?? これ、めちゃくちゃおいしい!! こんなコーヒー、あたし飲んだことないよ! ねえ、あたしと組まない?! お店、開こう!!」
彼女ー緑野虹架が、何もかも変えてしまった。
彼女は自分とは正反対の人間だった。
耳障りなほど明るい声に、八重歯が見えるほど笑う屈託ない笑顔。
自分が闇なら、彼女は光。
どんなに近くに感じても、自分には遠く感じて、手すら届かない。
まるで、空に浮かぶ虹のようで。
彼女の光が、自分の闇を少しずつ照らし、温めていくようだった。
「……あんたはさー、なんでミーといるんですー? 周りで噂になってますよ。あの緑野が汚染されたって」
「汚染って、やな言い方だなぁ。別に、いたいから一緒にいるんだよ。それだけランランのコーヒー、美味しいもんっ。言われたことない? 先生とか親とか」
「親は昔に死んでるし、先生には厄介者扱いされてますからねー。あなたも早く離れた方がいいですよー、お店なんて無謀な夢捨てて」
「無謀じゃないよ、あたし割と本気だもん。ランランのコーヒーはね、すごいんだよ〜? 一見苦そうで、飲みにくそうだけど、一度飲んだら、忘れられないの! 触れるだけでここが、すごくあったかくなる。……まるで、ランランそのものだねっ!」
気がつけば、いつも彼女に乗せられていた。
なんとかなる、きっとうまくいく。根拠のないような言葉に、騙されるようにして。
大学を卒業しても、彼女との関係は続いた。
その関係がなんだったのか、正直今でもわからない。
彼女はずっと言い続けた。自分のコーヒーが一番だ、絶対世に放たれる日が来ると。
それが本当になったのは、26になった頃だった。
成り行きで出たバリスタコンテストにて、審査員として参加していた財前コーポレーションのお眼鏡にかなったのだ。
「くぅぅ、やっときたね!! ランランの良さを世界中に見せつけられる日が!! そういや、店名は自由にしていいって言ってたけど、何にするの?」
「んー……とりあえず、アルカンシエルでいんじゃないですかー?」
「アルカン……? 何それ、アルミ缶の別名か何か??」
「相変わらずおバカですねーあなたは。アルクは弧、シエルは空、という意味ですよ。空にかかる弧、フランス語で虹……だったかなー」
7月16日。その日は、彼女の誕生日だった。
なんの因果か、店を開ける日を聞いた時は、正直鼻で笑った。
何もかも、彼女にひきよせられているようでー
「あなたとミーの店ですよ、虹架」
その日からは、わりと順調だった。
お昼は喫茶店、夜にはバーや演奏会。慣れないことばかりで、毎日疲れたけど。
少ない客の中、自分のコーヒーを美味しいと言って飲みにきてくれる人がいる。
閉店後に2人で飲み交わせる時間が、コーヒーがあるだけで。
それだけで、十分だった。
そんな毎日が、突然終わりを告げた。
彼女が、突然死んだ。40になる、直前だった。
事故、だったらしい。
聞いた時は別に、特に何も感じなかった。
別に、どうだっていい。いなくなったからといっても、昔に戻るだけ。なんの問題もない。
そのはずなのに。
「師匠、味かえました? なんか、いつもと味がちげーような……俺の気のせいか?」
最初に指摘されたのは、弟子になりたいと懇願してきた青年だった。
あの日、自分でも衝撃だったのを今でも覚えている。
同じ手順だというのに、何度やっても変わらなかった。違うことなんて、何もない。
あるとすればーコーヒーが、作れない。
作ろうとすればするほど、彼女が浮かんで、鬱陶しくて。
だから、店をやめた。その時にいた店員に、全て投げるように。
「パパ、お店やめちゃうの? なんで? どうして?」
店を開けて翌年に生まれた息子も、その一つだ。
初めて発した言葉は父親でも母親の名前でもなく、「コーヒー」だったのを今でも覚えている。
彼は、彼女によく似ている。
まっすぐな瞳も、純粋な言葉も、心を見据えているような顔も。
彼を見るたび、どうしても思い出してしまう。
「ランランのコーヒー、美味しいもんっ」と笑う彼女の顔が。
だから遠ざけた。彼女がつけていたアクセサリー押し付けるのと同じように、親戚に預けて。
記憶というのは、厄介だ。
忘れたい記憶ほど、ずっとずっと残っている。
消えて欲しいと願えば願うほど、夢や幻となって浮かんでは消えてゆく。
だったら、消してしまおう。彼女のことさえ忘れれば、コーヒーもまた作れるはず。
消えろ、記憶の中から。
「いいでしょぉ、これ。虹を模ったアクセなんだけどさ、二つ買ってお揃いにしない? ランランもつけてよ!」
消えろ。
「ここ、すんごく虹綺麗にみえるじゃん? あたし、こっから見る虹好きなんだよねぇ〜」
消えろ。消えろ。
あれから、どれくらいたったのだろう。
42のおじさんになった今となっては、あの日から、何もかもがどうでも良くなった。
食事も、育児も、店も、気にしなくなった。
それでもきまってこの海に来てしまうのは、何故なのだろう。
心の底から忘れたい、消えろと願っているはずなのに。
瞼を閉じるたび、忌々しくも思い出す。
明るい声色に、屈託のない笑みをー
「コーヒーを作れなくなったのは、奥さんが忘れられないからじゃないんですか? あなたにとって、奥さんが大切な存在だったから。好きな気持ちは、忘れたりなんてできない……それに、忘れようとしてたら、思い出の場所にきたりなんてしないですよ」
聖明音にそう言われた時、何もかも腑に落ちた気がする。
彼女が大切だった。なくてはならない、大切だったんだ。
その事実すら目を背け、逃げて……だから、自分はー
「ママ、よく言ってた。虹は幸運の兆し、ママがいない時は虹を見つけて、虹が道を照らしてくれるからって」
彼の瞳が、緑色のミサンガと共に揺れる。
その先にあるのは、アーチ状のアクセサリー。あいつが持っていたものと、同じものだ。
いつから、見ないようにしていたのだろう。
答えなんて、すぐそばにあったというのにー
「御領原さん。一度、戻りませんか、お店に。奥さんもきっと、それを望んでますよ」
『ランラン、コーヒー作って!!!』
声が、聞こえた気がする。
消えて欲しいと願った、忌々しくも愛しい声。
それでも、悪い気はしない。まるで、支えていたものがとれたようなー
「……ま、気が向いたらねー」
遠ざかってゆく海の上空には、七色の虹が浮かんでいる。
それはまるで、彼女が「大丈夫、きっとうまくいく」と語りかけているかのような、そんな気がした。
(À suivre : La suite……)
ケース話はおまけはありません。
ここからが、本当の物語です。
次回は1月6日更新。




