4. コリンヌの不満と夫の言い分
◇ ◇ ◇
コリンヌはソファーにもたれながら、新婚時代の昼下がりの情事をうっとりと思い出していた。
コリンヌの脳裏には、あの頃のジャンが今よりずっと輝いて見えた。
もしかしたらあの時のジャンは、たまたま地上に降りてきた“アポロン神”が彼に憑依したのではないか?
それほどあの日のジャンの碧い瞳は金色に輝いていたし、アポロンが誰よりも愛した、ヒュアキントスさながらコリンヌに夢中だった。白昼夢のような真昼の情事のあれやこれやを、コリンヌは思い出しながら顔がぽっと紅潮していた。
嫌だ、あたしったら──。
コリンヌは我にかえって、目の前にあった、ジャンの飲みかけの珈琲をグイッと飲んだ。
「うっ……」
コリンヌは不味そうに顔をしかめた。
既に珈琲はすっかり醒めてとても苦かった。
珈琲はジャンの嗜好でわざわざ、舶来の貿易商から取り寄せたものだ。
異国の西の遠い大陸から珈琲豆を購入したのはいいが、苦すぎてとてもじゃないが、そのままでは飲めかった。
──おお、なんて苦くて不味いの!
よほど林檎のお茶の方が甘くて美味しいわ。
ジャンたら何で、こんな苦くて黒いお茶が好きなんだろう!コリンヌはジャンの好みに疑問をもった。
コリンヌはすっと立ち上がり、テーブルの珈琲カップを片付けた。そのまま台所で、もの凄い速さで食器を洗い始めた。石鹸の泡がぴしゃっと撥ねあがって、コリンヌの顔にかかった。
「ああん、もう!?」
コリンヌは思わず顔をしかめた。
なんだろう、さっきから苛々が抜けない。
コリンヌは、自分の手を振り払ったジャンの冷たい態度が頭から離れないのだ。
──あんなことってある? いくらなんでも夫が妻におやすみのキスを忘れるなんて!
有りえないわ。ジャンはどうしちまったの?
結婚してからまだ一年半もたってないのに!
転倒したあの夜から、あたしたちは絶対にぎくしゃくしてる。新婚時代の甘い日々は、幻想だったのかと思うくらい。
コリンヌはずっと、ジャンのことばかり考えていた。
思わず洗ったばかりのお皿を、床にぶちまけたくなる衝動を抑えた。
◇ ◇
コリンヌが不満に思うのは無理もない。
赤子を失ってからのジャンは確かに人が変わった。
翌朝、ジャンはコリンヌに当分夫婦の寝室を別にしようといった。
──え、あり得ない! 何故?
コリンヌは納得できず、おそるおそるジャンに理由を聞いた。
「正直に言ってもいいか?」
「え、ええ、どうぞ」
内心コリンヌは身構えた。ジャンが正直に何をいうのか途端に不安になったからだ。
「なら言いうが、君は赤子が流れてまだ体の調子が完全ではないだろう。医師にも当分睦言は控えるように注意されたのは聞いたよな。だが俺は男だ──女には男の生理など理解できないだろうが、若い女とベッドを共にすれば、男は女が欲しくなる。これは当然の理なんだ──だから当分は自制のため自分の部屋で寝ることに俺は決めたんだよ」
ジャンは生物学者の如く、まことしやかにウンチクを垂れた。
「⋯⋯⋯」
コリンヌは黙って聞いていたが、全てに納得した訳ではない。すかさずジャンに言った。
「ジャン、あたしの体に気を使う好意はとても嬉しいし、ありがたく受け取ります。でも“挨拶のキス”はそれとは違うでしょう。何故しないの?」
「それは……キスすれば君が欲しくなるだろう」
「はあ? ただの挨拶のキスで?」
「そうだ、だから当分はキスも抱き合うのも無しにしよう」
「はぁ〜それはあんまりだわ、一人で何でも勝手に決めないでよ!」
「仕方ないだろう。医者に止められたんだから!」
とジャンはとてつもなく強情だ。
この後、何度となくコリンヌはジャンに食い下がったが無駄だった。
二人は何処までも平行線をたどった。
あくまでもジャンの言い分は『コリンヌの体のため』と、とりつくしまもなかった。
コリンヌは憤慨する。
──いくらなんでも屁理屈だわよ。
ジャンの医者の忠告なんて言い訳に過ぎないとコリンヌは納得しなかった。
──あたしの体調はすっかり改善した。ジャンにはいわないが生理だってある。
それでなくてもジャンはキスどころか、日常の会話すら自分を避けてる節がある。
これではまるで倦怠期の老人夫婦ではないか、とコリンヌは憤る。
さすがに食事は一緒にしてくれたが、たまに友人と会ってくるといって、ちょくちょく外出をするようになった。
コリンヌはこれも不満だった。
──友人って誰よ? ジャンに友人などいたの?
第一行くときは奥さんに『どこそこの誰だれと会う』とかいうものよ。何故にコソコソしてるのかしら?
コリンヌはジャンの不審な行動を疑問視した。
尚且つ友人と会うと、ジャンは翌朝には決まって不機嫌になった。
いや不機嫌というよりも──無視するのだ。
「ジャン、珈琲のお変わりする?」とか「昨日はとても遅かったわね」とコリンヌが聞いても彼は聞いていない。
まるでコリンヌの声など聞こえてないかのように、心ここにあらずで何かを考察していた。
──おかしい、一緒に飲んだ友人に大切な相談事でもされたのかしら?
コリンヌはとても不安になった──。
こんな時は独りで抱え込まないで誰かに相談したいのだが、夫婦の睦言など気恥ずかしくて誰にも話せなかった。
いっそ隣のスミス婆さんにでも人生相談してみようか?
いやいや駄目だ──。
きっと「若いもんはお盛んでいいねぇ──」と速攻でカラカラと笑われるのがオチだ。
コリンヌはもやもやした思いを、一人で何とか我慢するしかなかった。




