12. 二人の亀裂
※ 誤字脱字わざわざ教えていただきありがとうございました。とても助かります。
※ 4/29 加筆修正済み
※ ※ ※
コリンヌとジャンの新婚生活はスタートした。
ジャンは旅人として宿を借りていたが、コリンヌと結婚するにあたり、古い一軒家を借りた。隣家はやかまし屋のスミス婆さんだった。
結婚してからジャンは村や隣町の公共工事の仕事を、週末以外は毎日働くようになった。
どうやらコリンヌのために“脱余所者”として、村人の輪の中に少しでも入っていきたかったのだ。
これが功を奏したのか、村人たちもジャンと徐々に親しくなっていく。
コリンヌは叔母と決別したので婦人服店を辞めた。
かわりにジャンは、コリンヌに専業主婦の役目を与えた。
月初には銀貨や銅貨がぎっしり入った袋を、コリンヌに手渡した。
「これで一カ月の生活費にあててくれ、もし足りなかったら、また渡すから言ってくれ!」
「こんなに──? どうみても半年分の生活費ですよ」
コリンヌは呆気にとられた。
「そうなのか? 生活費の相場はよくわからん。まあいい。余ったら君の小遣いにすればいいよ」
「いえいえめっそうもない……余ったら貯金します」
「は、律儀だな。あと今後は敬語はやめてくれ。君はもう妻になったんだから。妻は使用人ではない。俺に遜る必要はない」
「はい、わかりました」
「ほら、言ってる傍から敬語を使ってるぞ!」
「あ、はい。アンダーソンさん、あ、でなくて……ええと“ジャン”と呼び捨てでいいの?」
「ははは、そうだ、呼び捨てでいい。コリンヌは本当に可愛いな!」
ジャンはコリンヌをギュッと抱きしめて、お決まりの甘いキスをした。
※ ※
専業主婦となったコリンヌは、ジャンのために食事を作り、汚かった家をピカピカに掃除をし、ちょっとした壁の汚れは刷毛で塗った。
殺風景な寝室には、明るい色のモスリンのカーテンに変え、ベッドの側には季節の花を添えた花瓶を置いた。
居間には穏やかな風景画の絵を飾り、荒れ果てた庭には花壇をつくり大根やカブなどの野菜も育てた。
家の中や庭が次々と変化していく様を見て、ジャンが大喜びしたのはいうまでもない。
休日になると天気の良い穏やかな日には、二人で近くの小川で釣りをしたり、二人で馬に乗り丘を駆け抜けて夕日が沈みゆくまで眺めたりした。
また、寒い吹雪の夜は、居心地の良い居間で暖炉に薪をくべながら、赤ワイン片手にソファでじゃれあっった。
二人の甘く蕩ける新婚の日々は瞬く間に過ぎ去っていく。
このままジャンとコリンヌの家庭は、希望に満ち満ちたものと思っていたのに──。
あの愛情で満ち足りた日々から、何故こうなったのか?
突然の暗転がお腹の子供の死と相まって全ての歯車が狂いだしていった。
コリンヌが転倒したあの日から、円満だった二人の関係に亀裂が生じていく。
◇ ◇
ジャンが寝室を別にしたいと言ってから、二か月以上が経過した。その間、ジャンはコリンヌに挨拶のキスすら避ける態度を取り続けていく。
もちろんそれをコリンヌは良しとしなかった。
スキンシップのない夫婦生活は、酷く味気のない単調な毎日に思われた。
毎晩、独り寝をするようになってから、コリンヌは疑心暗鬼する。
──もしかしてジャンに女ができたのかしら?
いいえ、いいえ、そんな筈はない!
その考えをコリンヌは直ぐに否定した。
確かに若い男が、何時までも独り寝を我慢するのは生理的におかしい。
だからといって、ジャンが浮気をしてる可能性は無きに等しいだろう。
コリンヌがそう言い切れるのも、ジャンは妻のコリンヌに気遣ってか、一度たりとも村の女たちと二人きりになるのを見たことがないし、他の者から噂を聞くこともなかったからだ。
逆に、ジャンが年配の婦人たちの立ち話をコリンヌは良くみかけはした。
特にスミス婆さんとは仲が良い。
先日も隣家の前でジャンとスミス婆さんが、二人きりで何やらヒソヒソ話をしていた。
部屋にいても隣りから二人の「ガハハハ!」と高笑いが聞こえてきた。
余りにも楽しそうなので、コリンヌはやきもちを焼いたほどだ。
──バカバカしい、スミス婆さんは六十六よ。
そんな勘ぐりは愚の骨頂だった。
コリンヌは久しぶりに笑った。
だが、コリンヌのジャンに対する欲求不満は日ごとに増していく。最近ではジャンに不遜な態度をコリンヌは隠さなくなっていた。
夕食時もコリンヌは、ほんの些細なことで彼に嫌味や罵言をした。それでもジャンはその場から逃げるだけで、コリンヌとの言い争いを避けるのだった。
そういう自分から逃げるジャンの態度すら、コリンヌは腹立たしくやりきれなかった。
──ジャン、あの輝く甘い日々は戻らないの?
あなたはあたしに言ってくれた言葉を忘れちゃったの?
コリンヌはギュッと唇を噛み締めた。
※ ※
初めてジャンと会った時、コリンヌを抱きしめながらジャンはいった。
「コリンヌ、君のような美しい髪と、輝く瞳をした娘は王都にだって滅多にいやしない、君は俺の妖精であり女神なんだ」と。
──ああ、よく覚えてるわ。
あの時のジャンの崇拝する眼。
とても眩しげにあたしを見つめてくれた。
まるでジャンは湖の深淵を覗くような、神々しい女神を凝視するような瞳で、あたしを見てるのが不思議で仕方なかった。
逆にあたしがジャンの碧い瞳に、いつも吸い込まれそうになるのに⋯⋯
コリンヌはジャンに初めて告白されて帰宅した後、鏡で自分の姿を穴があくほどじい~っと凝視した。
『普通だ⋯⋯どうみても村娘よね?』
鏡に映るコリンヌは呟いた。
鏡に映った自分はごくごく平凡このうえなかった。
髪は薄茶色で、目も榛色。
ライブレッド村では“器量よし”かもしれないが、痩せてて胸は平たんでお尻も小さい。
──どうみても子供体型だ。
女神って、もっと胸が豊満でウエストはくびれてて、お尻もぼんっという感じじゃないの?
夫の言う“絶世の美女”とあたしとでは似ても似つかないわ。
コリンヌは結論づけた。
──やっぱりジャンは目が悪いんだわ。
当時、コリンヌはジャンを“近眼の男”だと本気で信じてた。
だがジャンは結婚した後、凄い至近距離でもあの時と同じ眼でコリンヌを見つめて言った。
「君は自分で気づかないだろうが、誰よりも綺麗だよ。きっと此処では俺しかその美しさに気付かないのだろう──だがそれでいい。俺だけが本当の君を知っている、だからこそ君は俺だけのものにできるんだ」
と、こそばゆい美麗文句で褒め捲った。
誰だって、女なら愛の賛辞は心地のよいものだ。
醜女でも夫から毎回「君は綺麗だ、美しい!」
と愛する男から言われれば、不思議なことにそう自覚していく。
“痘痕もエクボ”ではないが、少なくともジャンにとって、あたしが『絶世の美女』に見えるのだろうと、思う事にした。
──ああ、あの時のジャンはどこにいったの?
まるで夢のような時間だった。
なのに、なのに──。
あの日々は幻想だったの?
魔法から醒めた童話の娘とあたしは同じ。
今の孤独な惨めな人妻──。
皆からは羨ましがられてるけど⋯⋯。
そんなの見せかけに過ぎない。
ううん、美麗な言葉など何も要らない。
そんな言葉は要らない。
普通でいいのよ。毎日でなくてもいい。
ジャン、自分の庭の花には水をやるものでしょう?
このままだと貴方の花は萎れて干からびるだけ。
ほんのちょっとだけでいい、あなたの愛を感じたいのよ。
──おお、ジャン、あたしにキスして、どうかお願いよ。
コリンヌは憤懣やるかたなく、心がどんどん病んでいった。