2019年4月30日 後編
黒猫はすぐに見つかった。
多少のタイムラグがあったため、見失ってしまうかもしれないと危惧していたが、猫は先ほど僕が家の中から見た場所の近くに止まっていた。
猫は着いてこいとでも言うかのようにこちらの様子を見つめている。
僕が近づくと、猫は少し早足で歩き出した。それを追って、僕も歩みを進める。
そしていつしか全速力の追いかけっこへと発展した。
「待って、待ってよ……!」
僕は猫を追いかけて直走った。
猫は時折こちらを振り返りながらも、真っ直ぐとした、迷いのない足取りで道を行く。
草むらの中を分け入って、蜘蛛の巣に引っかかりそうになったりしながらも、とにかく猫を追った。
猫を見失わないように走るので精一杯だった僕は、すでに今自分がどこを走っているのかわからなくなっていた。
ここで猫まで見失ってしまったら途方に暮れるのは間違い無いので、もつれそうになる足を必死に動かした。
自分の息を吐く音が、静かな森の中にこだまする。
そろそろ限界が近い。
そう思っていたところで、急にひらけた場所に出た。尻尾をゆらゆらと揺らしなが、猫は立ち止まった。
一時的でも休憩の時間を手に入れた僕は、膝に手をついて地面に視線をむけ肩で息をしていた。
肺にも、胃にも空気が入り、苦しい。
これから夕食を取ろうと思っていたところだったので、いつも以上に疲労が激しい。
すでにお昼に食べたものはエネルギーに変換されてしまい、今エネルギーとなるものが何もない。それを知らしめるかのように、取り込んだ空気が、胃の中に充満する感じがした。
その体勢のまま数分が経過し、息苦しさも無くなってきたところで顔を上げた。
そこには、古びた洋館が佇んでいた。窓や外壁にヒビが入っているわけではないが、明らかに年季が入っている。
『やっぱり、この猫が水先案内人らしい』
そう思って猫に視線を向けると、猫はじっと洋館を見据えていた。
息を整えながら後ろから見守る僕を一瞥した後、猫は重厚な玄関の扉の前までゆったりとした足取りで移動した。
その扉は、小豆色に彩られていた。
重苦しい雰囲気を醸し出す扉は固く閉ざされている様子で、静かにそこに在った。
何をするつもりなのかと思いながら、僕は猫の挙動に注目した。
風が吹き、森の木々が木の葉を擦り合わせる音が鼓膜を震わせた時、猫の耳がぴくりと動いた。
と同時に、ギギギと何かが軋むような音が響いた。
「扉が……」
気がつけば、僕はそう呟いていた。
自分は夢を見ているのではないかと思ったが、木々の音や肌を撫でる風の柔さ、太陽の光の眩しさが、今この瞬間の体験が夢でないことを主張している。
一人でに開いていく扉を見つめながら、僕は呆然とその場に立ちすくんだ。
長いとも短いとも取れる間呆然としていたが、耳に届いた音のおかげで気を取り直すことができた。
カチコチカチコチ
『なんだろう、この音。どこかで聞いたことあるような気がする』
好奇心と恐れとがないまぜになっている中聞いた音は、ほんの少しだけ、僕の好奇心を増長させた。
それが、中へと足を踏み入れる勇気となった。
僕は扉の中をまっすぐと見据え、一歩を踏み出した。
「お邪魔します……」
誰もいないとはわかっているものの、他者の家であることは間違いないので、一応断りの言葉を口にする。
中は薄暗いが、ところどころから陽光が差し込んでいる箇所では、埃が揺蕩う様子が見てとれた。
妙に湿っぽく、カビの匂いもする。
長い廊下の先には、ぽっかりと口を開けた部屋が見える。
カチコチカチコチ
静寂の中に、どこか懐かしいような、それでいて恐ろしいような音が響く。
そのまま奥に進むか迷っていると、気づかないうちに僕の横をすり抜けた猫が奥に入っていくのが見えた。
「あ、待って!」
先ほどまでその場に縫い留められているかのように重かった足取りが、今は驚くほど軽い。
躊躇なく進んでいく猫を追いかけ、僕は奥へと歩みを進めた。
廊下の突き当たりは、洋間だった。
中央には大きなダイニングテーブルが置かれ、重厚な椅子が行儀良く並んでいる。
テーブルの中央には白い陶器の花瓶が添えられていた。
そこにはすでに生命の彩を失った花々が、頭を垂れていて、その周囲を取り囲むかのように、銀のナイフとフォークが整列している。
晩餐の途中にそこだけ時が止まり、取り残されてしまったかのような歪な風景に、背中がヒヤリとするのを感じた。
ダイニングテーブルのさらに奥には大理石に囲まれた暖炉、窓にかけられたカーテンは天鵞絨のように艶やかで、一見して良い素材が使用されているとわかる。
さらに窓の反対側にはグランドピアノが設置されていた。降り積もった埃が、漆黒に輝いているはずのピアノの色を曇らせていた。
もう長く使われていないのだろう。
調律もなされていないだろうそれは、きっともう錆びた音しか奏でられない。
どこか悲哀すら感じさせるその姿を眺めながら、僕は首を傾げた。
「どこにもない……」
僕はピアノを視界の端にとらえた瞬間から、この洋館に入る前に聞こえたカチコチという音は、メトロノームかもしれないと思っていた。
しかし、周囲を見回しても、特にそれらしいものの姿は見られない。
カチコチカチコチ
考えている間にも、音は絶えず聞こえてくる。
音の方向はこっちであっているはずだと思いながら、僕はピアノよりも少し奥にある本棚に近づいた。
それは一見してただの本棚だった。埃を被ったその本棚には、整然と本が並べられていた。装丁はしっかりしており、どれも辞書のように分厚い。
背表紙は外国語で綴られているため、それらがどんな本であるかは不明だったが、一つだけ、毛色の違う本があった。
その本は、色を持っていなかった。
何ものにも染められていない純白のそれは、背表紙にも文字は刻まれていなかった。
これだけ本棚の中で浮いているのであれば、手掛かりになるのではないかと思い、僕はその本を手に取って中を開いて見た。
____が、残念ながら中も真っ白だ。
一応全ページをパラパラと確認し、表紙、裏表紙と一通り調べてみたが、何も手掛かりは見つけられなかった。
『流石にこんなあからさまな仕掛けは無いか』
少しだけがっかりした感を抱きながら本を戻そうとした、その時。
「これって……!」
本棚にぽっかりと空いた黒い闇の先に、さらに深い闇を持つ穴が見えた。
穴の形状からして、間違いなく鍵穴だ。ここに鍵をさせば、何かがわかるかもしれない。
しかし、問題はその鍵だ。
一応僕はこの本棚に手をかける前に、一通りこの部屋の中を探った。
残念ながら置いてあるものといえば、机の上のカトラリーのみ。
そのほかに小物類は一切見当たらなかった。
「とすれば、この本棚を探してみるしか無いか」
そう独りごちて、僕はひとまず本棚に並べられた古書を片っ端から確認していくことにした。
本棚は高く、僕の背丈をゆうに超える。そのため、僕は一番上の段の本を取る際には背伸びをして、精一杯腕を伸ばす必要があった。
その条件に分厚く重い本が加わるとどうなるかは、誰でもわかるだろう。
僕は三冊目の本を取っていたところで、左手で抱えていた本の重さにバランスを崩し、尻餅をついた。
ドサッという音と同時にドンッという大きな音がして、周囲に埃が舞う。
「痛い……」
打ちつけた臀部を擦りながら、僕は鈍い痛みに唸った。
落としてしまった数冊の本が床に散らばっている光景が視界に入る。数冊のうちの一冊はあの白い本で、落とした拍子に開いてしまったらしく、何も書いていないまっさらなページを曝け出していた。
ジンジンとした痛みがおさまってくるのを待ちながら冊子を眺めていると、そこに薄らと文字が浮かび上がったような気がした。
「え?」
見間違いではないかともう一度目を凝らしてページを見ようと目を凝らした時、突然あの黒猫が現れ、本に向かって跳躍した。
と思うと、猫の形が変形する。
どろどろと溶けるように猫の形はなくなり、その彩だけがページの上に残った。
それはページの中に吸い込まれていき、一つ一つの文字を形成していく。
ボーンボーンボーンボーン
本棚の奥から耳慣れた音が聞こえたと同時に、その文字が光りだした。
「眩しい……!」
そのあまりの眩さに、僕はたまらず顔の前に手を翳す。
数秒間ののち、眩しさが視界から無くなったことを確かめてから、僕は恐る恐る目を開いた。
「鍵だ」
白い本を見ると、確かに、開かれたページの上に古びた鍵が置かれていた。
『何が起こっているのだろう』
呆然としたまま、あまり機能していない頭でぼんやりとそう思った。
『とりあえず、鍵を拾ってみるか』
転倒した痛みも大分和らいだと判断した僕は、座ったままにじり寄るようにして本に近づき、次いで鍵を手に取った。
その質感は間違いなく金属だった。少しだけ錆びたそれは、ざらざらとした感触と金属特有の冷たさを肌で感じた。
重量も大きさの割にしっかりとあり、その存在感を主張している。
どうやら本物のようだ。
現段階で見つけられた鍵はこの一本だけ。ならば、試してみるしかない。
僕は鍵を手にしたままゆっくりと立ち上がり、鍵穴に差し込んだ。途中で引っかかったりすることなく、鍵の先端は鍵穴の中に収まった。
ふーっと息が漏れる。
緊張から止めていた息を吐き出し、全身に酸素を巡らせる勢いで思いっきり息を吸う。
この先に何が待っているかわからない恐怖と、何かを目撃したいという好奇心を飼いながら、僕は鍵を右に捻った。
ガチャリ
鍵が開く音が聞こえた。
どうやらこの鍵は当たりだったらしい。また一歩、謎の真相に近づくことができた。
ただ______
「この扉?自体はどうやったら開けることができるんだろう……」
僕は顎に手を当てながら考える。
こういった隠し扉は周囲に障害物がない場所にあって、隠された鍵を開けると押したら開くといったイメージがある。
もしくは一見障害物に見えるものがあっても、鍵が開いた瞬間にその障害物が動いて扉が開くような仕組みになっていると思っていたが、僕の目には扉の存在は映っていないし、本棚が動いてくれるようなこともなかった。
『仕方ない、本棚の移動を試みよう』
思ってもみなかった重労働に、僕は心の中で盛大にため息を吐いた。
収納されていた本を片っ端から手に取り、本棚を空にしていく。
古びた書籍、古びた本棚の割に、埃はあまり立たなかった。まるで、その空間だけ時の流れがゆっくりでもあるかのように。
十数分後、僕は多少息を弾ませながらも、本棚を空にすることができた。
何も無くなった伽藍堂の本棚は、先ほどよりもずいぶん頼りなさげに見えた。
僕は空になった本棚を上から下に眺めたが、残念なことにまだ扉の存在を確認することはできていない。
やはり、動かしてみるしか道はないようだ。
僕は本棚の側面にまわり、腰を低くして脚を開き、踏ん張りが効く体勢を作る。
そして全身全霊の力を込めて、本棚を押した。
押し始めてから数秒の後にズズズッと重い音がして、本棚が元の位置から少しずつその身を滑らせていく。
『よし、動いた』
僕はできる限りの力を本棚にかけ続け、一歩、また一歩と前進していった。
横目で壁を確認すると、扉の一部と思しき壁の切れ目が見えた。そして鍵穴が完全に見えるようになると、そこに真鍮のドアノブも姿を現した。
『本当にあった』
隠された扉を見て、僕は息を呑んだ。
正直本当に出てくると思わなかった。いや、思わなかったというのは正確ではない。
僕は“見つかってほしくなかった“のだ。
何となく、この不思議に取り憑かれてしまいそうな気がしたから。
息を整えながら、僕は睨みつけるように扉を見つめた。
そして完全に呼吸が落ち着いたと思った時、僕はゆっくりと扉に歩み寄り、ドアノブを捻りながら、ゆっくりと扉を奥へ押した。
最初に飛び込んできたのは、白だった。
天井も壁も床も、全て白で彩られていた。豪奢な電燈がぶら下がっているものの、あかりが灯っていない薄ぼんやりとした中でも、その白は浮かび上がって見えた。
カチコチカチコチ
一応電気がつかないかと軽く身体を乗り出して中を覗き込んでみると、扉の右横に何かのスイッチがあるのを発見した。
ものは試しとそのスイッチを切り替えた瞬間、パチッという乾いた音がしたと思うと、部屋に昼が来た。
その灯りは黄色く部屋の中を照らした。
おかげで、その部屋の全貌が見えた。
部屋には、生活感が全くもってなかった。
白く彩られたその空間には、部屋と同じく真っ白な椅子が一つだけ、ポツンと置かれていた。それ以外に机もなく、暖炉もなく、書棚や鏡、寝具も何もない。
いや、もう一つだけあった。
カチコチカチコチと、今も独りで音楽を奏でている、大きな柱時計が。
硝子の向こうで揺れる振り子は、ただ静かに、正確に時を刻んでいる。
ここで、一つの謎が解けた。
メトロノームの音のように思えたそれは、大きな柱時計だったのだ。
『通りで聞いたことのある音だと思った』
僕の祖父母の家には、小さい掛け時計がある。それこの柱時計と同様、振り子時計なのだ。
ふと静かなタイミングが訪れると、カチコチカチコチと音が聞こえてくる。無音が苦手なのでありがたいと思う反面、永遠と続くかに思われるそのリズムに、どこか恐ろしさを感じることもある。
音の正体が変なものでなく、少しだけ安堵したところで、僕の瞳が椅子を捉えた。
よくよく見てみると、その椅子の上には一つの機械が置いてあった。
どうやら映写機のようだ。
何故こんなところに映写機があるのだろうと首を傾げていると、突然、柱時計が鳴り出した。
ボーンボーンボーンボーン
驚いて柱時計をみると、その針は中途半端な時刻を指していた。少なくとも、柱時計が鳴るような時刻ではない。
鈍く響く音が、状況も相まってか普段よりも恐ろしいもののように感じる。
そろそろお暇しようかと視線を背後の扉に移した時、その部屋一面に映像が映し出された。
古い映画のように、モノクロの映像が。
ある面に目を向けてみると、そこには見慣れた食堂が映っていた。そして、カレーを食べるKと、唐揚げ定食を頬張る僕がいる。
またある面には、夏の夜にKと花火を眺めている映像が流れていた。Kも僕も美しい花火の彩りに感動し、楽しそうに目を細めて笑っている。
____これは、僕の記憶だ。
天井、床、四方の壁。そのどこを見ても、僕が体験した出来事の映像が流れていた。
ただその記憶は、Kとの記憶に限ったものらしかった。
他の友人と家族との色濃い思い出はいくつもあるはずなのに、この部屋で映し出されているものは全て、彼との思い出だ。
僕がKと出会った、高校生だった頃の映像まで流れている。どれも自分たちが動画に残していないシーンであるため、この映像がどうやって記録されたものなのかは見当がつかないが、間違いなく僕たちの記憶が再現されていた。
懐かしさに目を細めながら映像を眺めていると、突然映像に砂嵐が流れた。
ざーっという音のあと、再び正常に映像が流れ始めたと思った時、更なる異変が起こった。
Kの隣にいる僕が、見たことがない他の誰かに置き換わっていく。
上下左右どの映像を見ても、僕がだんだんと透明な存在になっていくのが見て取れた。
「何、どうして、嫌だ、嫌だ!!」
今何が起こっているか理解できてはいないが、僕は否定せずにはいられなかった。
そして僕の理解が追いつく前に、パッと全ての映像が切り替わった。
そこには、僕に蓄積されたKとの思い出の時間軸に、僕ではない誰かが何十と映っていた。
食堂でKと談笑している映像、夏の花火、海水浴、花見、雪合戦。同じ時間の映像がいくつも展開され、そこには絶対にKが存在しているが、もう一人の貌が映像ごとに違った。
そこで唐突に理解した。
“誰も知らない噂“の正体と、今起こっている現象を。
やはりとらわれていたのはKだったのだ。彼の直感は正しい。
記憶として覚えていなくても、彼の脳は確かにそれを違和感として知覚していた。
彼はずっと、消えた親友を探していた。
確かに僕も彼の親友だったはずだ。しかし、それは僕だけではなかった。
僕が生まれる以前の時間軸で、僕と同じ時間を過ごしたKの親友が別に存在していて、僕が消えた後の時間軸でも、僕と同じ時間を過ごすことになるKの親友が存在する。
そうやって何度も何度も同じ時間を繰り返し、4月30日で終わりを迎え、また一からやり直される。
Kはずっと、明日を____2019年の5月1日を迎えられないでいる。
これで、噂の具体的な中身が出回っていない理由もわかった。
猫に誘導されるのはKの親友という役割を与えられた存在だけで、その人間__本当に人間なのか今となっては分からないが__もこの部屋で真実を知ったら最後、用済みになってしまうのだろう。用済みとなった存在の行く末はまだ確定していないが、十中八九元の世界にも取ることはない。
こうして、“誰も知らない噂“が完成する。
全てに気がついてしまった僕は絶望感を抱きながら、ふと視界に入った柱時計を見た。
もう少しで長い針が十二を指す。
カチカチカチ
ボーンボーンボーンボーン
柱時計の鈍い音が鳴り響いた瞬間、急に僕の身体と瞼が重くなっていくのを感じた。
争えないその眠気に、僕は身を委ねることにした。
幽靈のやうに解れてくる、柱時計の錆びついた響を聞きながら。