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ある紫の夜

挿絵(By みてみん)


   1


 荒れ地と砂漠に覆われたアハーリールの国を行く旅人は、水の町をめざし旅をする。

 陽を目印に星をたよりに、夜を照らす町の明かりをひたすらに目指し、白駱駝を引き連れたキャラバンが今日も列をなしていた。

 砂漠と荒野のはざま。

 切り立った岩山の谷間に忽然とあらわれる、赤獅子の横顔のような大岩の下に、交易の交差点〈水の町〉がある。

 旅人をかどわかすという「砂漠の魔女」に魅入られぬよう、町の近くをゆく者はみな足早だ。

 だが、近頃はそんな昔話を恐れるものも少なくなった。


「なぁに、ゆっくりいくといい。アハーリールの砂漠の魔女は、神を恐れて死んだそうだよ」


 町を出て東へ向かう隊商が、口元を砂除けのマスクで覆った男に声をかける。

 男の背には眠りに落ちた子どもが一人。親子連れだろう。

 幼い少女を背負った旅装の男は軽口にうなずくこともなく、


「導きに感謝を。ルシュディーあれ」


 手短に応じ、ただ町の灯を目指し、歩いていった。


◇◇◇


 アハーリールの安息日、紫の夜。

 朝も夜も人の行き交う水の町は、今宵もにぎわい、騒がしい。


ルシュディー(正道への導き)を」

「ああ、お前にもルシュディーを!」


 口ひげをたくわえた男や着飾った女たちが、安息日の挨拶を交わし、酒杯の縁を打ち当てて互いの幸福を祈り合う。

 アハーリールの王都には酒をとがめる法があるが、昼夜の別なく自由を謳う交易の交差点では、法もただの無粋だった。

 色ガラスのランプのとりどりの明かりが天幕の下を充たし、人々の心を浮き立たせる。

 三日月が夜空を静かにのぼるころ、店を充たしていた陽気な楽の音が途絶えた。

 舞台に、矢を射るような視線が集う。

 人々は舞台袖から現れた十にも満たない少女にマユをひそめると口々にヤジを飛ばしはじめた。


「おいおい、踊り子はどうした。オレはバドリーヤを見に来たんだぞ」


 店のなじみの踊り子でないと知るや、アゴひげの男はこぶしを机に打ちつけた。

 傾いた酒器を慌てて受け止め、赤ら顔の男がそれにかぶせるように少女を揶揄する。


「お遊戯を見せる気か? おうちでねんねしてな、おじょうちゃん!」


 少女は少しの動揺も見せなかった。

 シャン、と鋭く鈴のひと鳴り――。

 それを合図に、七九弦のカーヌーンの音色が店を甘くふるわせた。

 へその見える短い上着はか細い体つきを隠さない。

 少女の腰には手のひらほどのタトゥが刻まれているが、見慣れない紋様は、彼女の出自を誰の目にも教えなかった。

 足首まで隠れるムルムル地の下衣は、彼女が動くたび、すその縁に縫い込めてある鏡がチラチラと光る。

 少女が、面差しを隠していた紗のマスクを取る。

 匂い立つような女の仕草に、観客が息を飲む。

 客席にちらりと視線を投げかけ、すぐに少女は背を向けた。

 舞の世界へ(いざな)う指先の動きを追い、夜霧のような薄紫の布が空気をはらみふわりと舞う。


「今宵の踊り子、シャーディヤ」


 店主が声を張り上げると、少女は指先であやつるベールをまるで生き物のように波打たせ、振り向いた。

 光をはじくなめらかな白磁の肌、珊瑚色の口唇(くちびる)

 長いまつげにふちどられた瞳は砂漠の夜の色だった。むき出しの肩は少女らしい丸みを帯びていたが、幼い腕には踊りを愛する者らしい鞭のようなしなやかさがある。

 弦の音色、太鼓の響き。指先が、爪先が、つぶさに音を拾い、拍子を取る。

 細い首をそらし、少女は腰をくねらせる。

 曲の盛り上がりを巻き込んでくるりと回れば、深い青の下衣の裾が扇のごとく広がった。

 少女の瞳が放つ暁星の輝きは、瞬く間に客の胸を刺しつらぬいた。

 奏者の鼓する山羊皮のトンバクが、軒伝う雨だれの音を奏ではじめる。

 舞手の少女が楽の音に合わせ指先をパラリと外に振ると、細腕に連ねた腕輪(ブレスレット)がシャランとはじまりの報せを鳴らした。

 トンバクを指先で打つ音が激しくなる。

 驟雨のように、心の臓を撃ち抜くように。

 争いの、音色だった。

 幼い少女は戦いに翻弄された娘の悲哀を舞う。

 天にかざされた指先が無情を嘆く。怒りと哀しみを、夜の色のまなざしが静かに投げかける。幼いはずの指先は艶めいて、失った恋人への想いを紡ぐ。

 童子然とした少女のやわらかなほほは、観客の目にはやつれた女の哀れな面差しに見えた。

 いまや舞を児戯と揶揄する者はひとりもいない。

 だれもが幼い少女の舞に魅入られていた。

 いつしか酔客たちの目には、幼女ではなく生い立った美しい娘の姿がうつりはじめる。

 人々が目をこすり幻に惑うなか、少女の舞は最高潮を迎える。

 舞台袖で女がひとり、わなわなとふるえてそれを見ていた。


「誰よ、誰なの、あの子はっ。ここは私の舞台よ、いますぐ――ぅぐ」

「ダメだよ、バドリーヤ。静かにね、今日はあの子の舞台なんだ。おい、奥の部屋に連れて行け」


 叫びかけた踊り子の口を押さえ、酒場の主人は何者かに惑わされたかのような陶酔した面持ちで舞台を見やる。

 万雷の喝采が少女を讃えていた。

 天の恩寵に謝する紫の夜にふさわしい、神をも微笑ませる見事な舞だった。


「……シャリーファ」


 舞台を見つめ、熱に浮かされた客の男がかつての舞姫の名をこぼす。男は慌てて自分の口を手で覆った。

 踊り終えた少女の差し出す革の袋には、つぎつぎに硬貨が差し出される。

 中には銀貨をいく枚も投じる者もいた。店中に歓声と熱気があふれていた。


「いやぁ、すばらしい。お嬢ちゃんにルシュディーを」

「また踊りに来るだろう? ああ、すぐにでも、もう一度みたいものだ。頼むよ、シャーディヤちゃん」


 シャーディヤと呼ばれた美しい少女は微笑みを返す。

 そして、床に水たまりのようにわだかまっていたベールを風のように翻し、チリチリとふるえる鈴の音に足音を絡ませ、軽やかに舞台をあとにした。

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