――朱霊の考察――
曹操軍を代表する五人の将軍。
【張遼・張郃・于禁・楽進・徐晃】
彼らに次ぐ名声を誇ったとされ、曹操の廟にも祀られた功臣のひとりである【朱霊】と言う武将。
彼は何故か影が薄い。
名将なのは間違いないのだが、とにかくこれでもかと言うくらいに存在感が薄い。
曹操に常に恨まれ嫌われていたとか、麾下の兵をボッシュートされて于禁の部下にされたとか、話のネタになりそうなエピソードはあるのだが、それが『いつ』、『なんで』かがあやふやな為に話題が膨らむようで中々膨らまない。
後、『ホモ疑惑』もあったな。朱霊さん。
そんな謎の名将・朱霊さんを考えていきたい。
さて、後に魏の名将として後将軍まで出世した朱霊さんだが、元は袁紹配下の武将だった。
そんな朱霊さんは袁紹配下時代に故郷の鄃県で季雍という者が起こした反乱を鎮圧している。
当時、袁紹と争っていた公孫瓚に季雍が鄃県を挙げて寝返ったのである。
この反乱の鎮圧に赴いた朱霊さんは、『家族を助けたかったら味方しろや』と寝返りを強要されたとある。
しかし朱霊さんは、「男が一度主君を得たからには、どうして家族を顧みる事があろうか」とコレを一蹴。
猛攻撃を仕掛けて見事に季雍を捕らえている。
その代償として家族を失ってしまったが。
家族の命を代償に忠義を貫いた朱霊さんだが、その後、何故か曹操に鞍替えしている。
「これ程の人物は今まで見た事がない。私は今から曹操に仕える」と、チビのおっさんに一目惚れしたらしい。
ホモ疑惑はここで生まれた。
さて、ここからは筆者の考察です。
議題は主に四つ。
①なんで朱霊は曹操に鞍替えしたのか。
②なんで朱霊は曹操に恨まれ嫌われたのか。
③麾下の兵を没収されて于禁の配下になったのはいつだったのか。
④曹操の廟に功臣として祀られた群臣の中で、何故朱霊だけ伝が無いのか。
先ずは①の考察。
これは季雍の起こした反乱鎮圧を袁紹に強要されたからでは無いかと思われます。
袁紹は四世三公の名門『汝南袁氏』の男です。
冀州の権力者達からすれば余所者な訳ですね。
利権を巡って地元の冀州閥と中原出身の袁紹派は水面下で互いに牽制しあっていたと考えられます。
そんな中で起きたのが鄃県での季雍の反乱だった訳です。
「お前の故郷だろ。責任持って鎮めてこい」って命令された可能性が高いかなと思われます。
家族が人質にされる事は朱霊さんもわかっていたと思うので、自分から行くとか言い出すとはとても思えないですし。
恐らくこの事が原因で朱霊さんと袁紹の関係は拗れてしまったのだと考えられます。
次は②の曹操に恨まれ嫌われていた理由とその時期。
これは朱霊さんが曹操陣営に鞍替えしてから曹操が献帝を擁した頃の事ではないかと思われます。
朱霊さんが袁紹陣営から曹操陣営に鞍替えしたのは、曹操の徐州攻めの時です。
この曹操の徐州攻めは陶謙に対する曹操の個人的な恨みが原因とされていますが、実情は少し異なります。
これは当時の情勢が関係しているのですが、この頃の曹操の立場は『袁紹の部下』に近いものなんです。
簡単に言えば袁紹派閥に属していたんですね。
逆に陶謙は袁術派に属しています。
つまり、この曹操の徐州攻めは『袁紹派』と『袁術派』の戦いなんです。
この戦いで陶謙は同じ袁術の同盟相手である公孫瓚から田楷と劉備を援軍として送られています。
対し、曹操は袁紹から援軍を送られています。
この袁紹の送った援軍を率いる将のひとりが朱霊さんでした。
曹操の徐州攻めが終わり、袁紹の下に仲間たちが引き上げる中で朱霊さんだけがその場に留まります。
「これ程の人物は今まで見た事がない。私は今から曹操に仕える。お前たちは袁紹の下に帰るがいい」と、麾下の兵を解散しようとしましたが、兵たちは朱霊に付いて行く事を選んだと言われています。
兵からの人望は厚かったみたいですね。
まぁ、朱霊さんが曹操に一目惚れした案件は後の後付けで創作だと思います。
なにせ、曹操も袁紹派に属していたのですから単なる『部署の異動』でしかないですし、朱霊さんが袁紹陣営から曹操陣営に鞍替えするのは意外と簡単だったと思います。
朱霊さんのような部署の異動は戦が起きる度にあったのでは無いかと。
そんなこんなで曹操陣営に加わった朱霊さんですが、曹操が献帝を擁するとその立場が微妙になります。
なぜでしょう?
それは袁紹に答えがあります。
実は袁紹は『劉辯派』で『反劉協派』と言う立場を貫いていたからです。
劉辯は董卓に弑いされてしまいましたが、それでも袁紹の考えは変わらず、『劉虞』を新たな皇帝にしようと画策したりしています。
これは失敗に終わりましたが。
公孫瓚が劉虞を殺したのは個人的な対立もある中で、彼が袁術派に属する立場であり、敵対派閥である袁紹派が劉虞を担ぎ出そうとした為に危機感を覚えたからだと思われます。
もし劉虞が折れて皇帝になったら逆賊認定されちゃいますから。
さて、『反劉協』を貫いていた袁紹ですが、曹操が献帝を擁した事で両者の関係に亀裂が生じます。
曹操はこの頃には袁紹からの独立を目論んでいたのではないでしょうか。
そこで目に付いたのが朱霊さんだった訳です。
何しろ袁紹陣営から部署異動して来ただけの人ですし。
直属の部下という訳では無かったので、朱霊さんの存在は目の上のたんこぶ状態だったのではないかと思われます。
朱霊さんから袁紹に情報が流れている可能性も考えていたのではないでしょうか。
だから曹操に警戒されていたとしても不思議じゃないんですよね。
以上の理由から曹操に朱霊さんが恨まれ嫌われていたとされる時期はこの頃の事では無いかと推測されます。
③兵を没収されて于禁配下にされたのは?
これは②に関係しているのですが、朱霊さんが兵を没収され于禁の配下にされていたのは『劉協の擁立直後』から『官渡の戦い~袁家平定』までの期間だと思われます。
袁紹と繋がりのある朱霊さんに直属の兵を持たせているのは危険だと曹操は考えたのではないでしょうか。
軍法に厳しい于禁の配下としたのは、朱霊さんに怪しい動きがあれば于禁が斬るだろうと考えての事でしょう。
袁紹と曹操の対立が本格化すると、袁紹は曹操を討つべく軍を興します。
広義の『官渡の戦い』です。
朱霊さんは于禁配下として従軍していたと思われます。
この一連の戦で朱霊さんは功を立て、曹操に信用されたのだと思います。
以後、相当に重用されていますので。
冀州を平定した曹操は、朱霊さんに冀州兵五千と騎馬千頭を預け許昌の南を守らせたとあります。
この時には于禁配下から脱していたものと思われます。
ただし、朱霊さんに冀州兵を預けたのは曹操のミスだったと考えています。
冀州兵の扱いには気を付ける様に忠告していた曹操ですが、彼らを率いた朱霊さんが陽翟という場所に来た所で中郎将の程昂が反乱します。
袁家の敗北から曹操に降った程昂。
顔見知りだったかはわかりませんが、袁紹から曹操に鞍替えした(当時はただの部署異動)朱霊さんを裏切り者と見ていても不思議じゃないですね。
「裏切り者のお前なんかに従えるか!!」と反乱しちゃうのも分かるような気がします。
朱霊さんはすぐに程昂を斬って反乱を鎮め、曹操に謝罪の文を送っています。
この文を受け取った曹操は鄧禹の故事を引いて特に罪を問わず、逆に朱霊さんを慰めてるんですよね。
今までと扱いが違いすぎて朱霊さんもびっくりだったでしょう。
そんなこんなで曹操の下で各地を転戦した朱霊さん。
曹操の死後、その後を継いだ曹丕に「その威光は周の宣王の賢臣方叔・邵虎より上であり、功績は周勃・灌嬰よりも上である」と、その功績を絶賛されています。
この時に曹操に恨まれたままだったら、性格の捻くれ曲がった曹丕が朱霊さんを絶賛する事はないでしょう。
さて、ここから少し話は変わりますが、魏の五大将軍と言えば【張遼・張郃・于禁・楽進・徐晃】と認識されています。
実はこれ語弊がありまして。
実際には、曹操の時代には【于禁】が左将軍・【楽進】が右将軍と二人しか任命されていません。
曹丕が帝位に就いた時に任命されたのが【張遼・張郃・徐晃】で、ここに朱霊さんが加わったのです。
【于禁・楽進】が曹操時代の二枚看板だとしたら、【張遼・張郃・徐晃・朱霊】は魏の初代四天王という立場です。
つまり、五大将軍という括りそのものが間違っているって事になりますね。
まぁ、K○EIの三国志を参考に能力値だけで見れば、「奴は四天王の中でも最弱」って言われそうですけど。
そして次に④です。
なんで曹操の廟に祀られた中で朱霊さんだけ列伝が無いのか。
これは筆者の憶測に過ぎないのですが、朱霊さんの息子である【朱述】、もしくはその子が陳寿に何かやらかしたんでは無いかと思っています。
朱述や親類が罪を犯したのならその親族である朱霊さんも連座して曹操の廟から抹消されそうですし。
朱霊さんが廟に祀られたまま列伝が無いのは、陳寿の個人的な報復だったのでは無いかと。
流石に何も残さないわけにも行かなかったので徐晃伝の付属みたいになったのかなぁと。
まぁ、憶測に過ぎませんけどね。
最後に。
合肥に現れた朱横海とか言う謎の人物。これは朱霊さんの事だったと思います。
確証はないですけど、その可能性が非常に高いです。
あ、後、朱霊さんは直訳で曹操に常に恨まれて嫌われていたとあるのですが、常って『かつて』とも読むんですよねー。
後はご想像にお任せします。
無双武将に朱霊さん起用されないかなー……。