彼方に見えるものは星
昔、むかし。
美しいラクリマに、大いなる竜が現れて言いました。
『我らの子を大いに繁栄させよう』
長き首を持つウィー・アムと、美しきひれのナー・デイアは、様々な命を作り、ラクリマを満たしました。
ゆらめく植物、おだやかに伸びるもの、やわらかい体で這うもの、甲羅のかたいもの、ひれを持つもの、ゆるやかに泳ぐもの、飛ぶように泳ぐもの、
最後に大いなる竜は、己の姿にかたどって、人間を作りました。
『産めよ、増えよ、海に満ちよ。輝く泡のように、数えきれぬほどに増えてこの海を満たせ』
そうして大いなる竜は、人間にラクリマの命を守り、導く使命を与えられたのです。
最初に生まれた人間は、尻尾もヒレもない、不格好な二本の足を持っていました。
彼らは泳ぐ事ができず、魂も持たない存在でした。
大いなる竜は最初に作ったこの人間に、たくさんの知識と力を与えました。けれども魂を入れるのを忘れてしまったのです。
やがてこの二本足の人間は、海の命を惑わし、殺してしまいました。そうして、大いなる悪が広がったのです。
ウィー・アムは怒り、ナー・デイアは悲しみの涙を流されました。
『おまえたちには魂がない。知識は山のように与えたのに、魂がないので知恵を得る事ができないのだ』
そう言うとウィー・アムは、二本足の人間を滅ぼそうとしました。けれども優しきナー・デイアが己が子どもの命乞いをしたので、思いなおし、彼らを海から追放するに留めました。
彼らは乾いた空気と土の上に生きるものとなり、二度と海に入る事が許されないものとなったのです。
それからウィー・アムとナー・デイアは、もう一度人間を作りました。今度は尻尾とヒレのある、正しい形の人間でした。この人間には魂を忘れる事なく込めたので、彼らは海の中で増え、栄えました。
しかし海から追放された二本足は、海の美しさをあきらめる事ができませんでした。彼らは今でも大気の中で、海を眺め、海を欲しがっています。
《ラクリマの創世神話》
二本足の人間は、尻尾とヒレを欲しがっている。
それがあれば海を手に入れる事ができるから。
子らよ、二本足を警戒せよ。
彼らの姿は美しく、言葉はなめらかで蜜草のようだが、
ひとたび耳を傾ければ、それは黒き淀みとなってそなたを蝕むだろう。
誘惑の道を避けよ。心正しく過ごせ。
魂を奪われ、道を誤れば、二度と海には戻れない。
《賢者の書、誘惑の道についての戒め》
* * *
東海王の七番目の息子、疾き蒼のワルンカは、やわやわとゆらめく草の間を抜け、伸びる珊瑚の枝々をくぐり抜けて、海面に向かって泳いでいた。
『パル』
『パル』
ツノウオたちが、声をかける。子どものような知能しか持たないが、それでも立派に海の民であり、東の海の安定に一役買っている。
『どこへゆくの』
『あそぼうよ』
「海の上へ行くのさ。ツノウオたち」
子どもの頃からの遊び仲間に、ワルンカは機嫌良く答えた。
「それより、俺の名は『ワルンカ』だ。もう『パル』じゃない。成人の儀を済ませたからな」
『ワルンカ』
『ワルンカ』
ツノウオたちが名前を言い直した。
「そうだ。もう成人した。ワルンカが新たな名だ」
『ワルンカ』
『うみのうえは、あぶないよ』
『あぶないよ』
ひれをひらひらさせ、数匹のツノウオが集まってくる。彼らは口々に危険を述べて、ワルンカを引き止めようとした。
『りゅうのめぐみ、うみのなかだけ』
『くうきは、いたいよ』
『しっぽをいたくするよ』
『ひれがかわくよ』
『おまえをよわらせるよ』
『いっちゃだめ』
「大丈夫だ、ツノウオたち」
ワルンカは安心させるように言った。
「俺はもう十六。立派な大人だ。どこへでも自由に行けるし、それだけの力もある。だから少し、海の上をのぞいて見たいのさ」
『でもワルンカ』
『あぶないよ』
『にほんあしがいるよ』
「二本足?」
ワルンカは、青い尻尾をひらひらさせて笑った。
「魂を持たない者など、竜の守りを受けた俺に近づけるものか。もし近づいてくるならば、この杖で打ち据えてやろう」
腰帯に指した杖を示し、東海の王の息子は言った。
「王宮の魔術師トノイから譲り受けた、聖なる石の杖だ。魔物など、ひとひねりだ。それにツノウオよ。あれは伝説だ。二本足など、今の世にいるはずがない」
『だめだよ』
『いるよ』
『いるよ、ワルンカ』
ツノウオの言葉をしかし、若い王子は軽くいなした。
「もしいるのなら、捕まえて城へ連れて行こう。珍しい見せ物になるだろうよ。ではな!」
そう言うと、海面を目指して泳ぎ去る。
残されたツノウオたちは、心配そうに顔を見合わせた。
『……いるよ、ワルンカ』
一匹がぽつりと言い、それからツノウオは、揺れる流れに身を任せて王宮の周囲をまた巡り始めた。
海の王子は海面を目指して泳いだ。泳いでいる内に息が苦しくなり、乾いた空気の感触が近づくと、それは少しばかり、王子に怖気を奮わせた。
それでも上へ、上へと泳いでいると、不意に、ぽかりと水の膜が割れた。
「……!」
空気が一斉に押し寄せてきて、ワルンカは悲鳴を上げそうになった。水がない。なんと恵み薄い世界。
肌が乾く。目も。鼻も。乾いて痛い。ひりひりする。
そして息が。
「がはっ!」
乾いた空気をまともに吸い込んでしまい、ワルンカは咳き込んだ。苦しい。
光が厳しい。肌を刺す酷薄な大気の世界。見上げる青い天井は薄く、壊れそうな色をしていた。腰から下に広がる海は深く青く、命をたたえて広がる。だと言うのに大気の世界はあまりにも、きつく、激しく、殺伐としているように見えた。
こんな所で生きてゆけるものなど、いはしない。二本足の物語など、やはり伝説だ。
そう思って海の中に潜ろうとしたワルンカは、妙なものに気づいた。
(なんだ?)
少し離れた所に大きな山がそびえている。その上部は海から出て、大気の世界に突き出していた。乾いた土や岩の色は、ひどく無粋に見えた。その山の上。
白と金をまとう、人影。
(『二本足』!?)
愕然とした。言い伝えは本当だったのか?
慌てて海に潜り、そっと近づいてゆく。波間からうかがうと、それはこちらには気づかぬ風で立っていた。
白い衣装。尻尾のない事を隠す為なのか、裾は長い。それでも足が二本ある事はわかった。
胸の隆起がわかる所から、女のようだ。
色の白いその『二本足』の女は、醜い足でしっかりと立っていた。金色に輝く髪が揺れる。それはどんな海草よりも柔らかく、細いように見えた。
その『二本足』は、何かの呪術らしき事を行っていた。これほど苦しい大気の中で、まるで平気な様子だ。
高く、低く、口から、喉から音が生まれる。何の呪術だろう、とワルンカは思った。海がうねる時の音。いや、泡が弾ける時の音に似ている。
それは『二本足』の中から生まれ、広がって、響いていた。悲しみを、ちりちりとちりばめて。
しばらく聞いていたが、やがて我慢ができなくなった。海面に顔を出す。途端にやってきた空気に苦しくなったが、『二本足』の呪文はもっと、はっきりと聞こえるようになった。
揺れる草木。
魚たちの起こす小さな波。
柔らかな海のうねり。
そんなものに似た音が、心を動かす悲しみを内にうねらせながら、『二本足』から生まれている。それがワルンカに触れた。大気と共に、肌に。髪に。
魂に。
(魔物だ)
その音に、その響きに、圧倒されてワルンカは思った。
(『二本足』は、やはり魔物だ。こんな音を出すなんて)
心を奪われる。この悲しみはどこから来るのか。
思わず聞き入ってしまい、呼吸が止まりかけた。苦しくなって海の中に潜る。海に生きるどんな生き物も、あのような音を生む事はなかった。鯨やイルカの歌声に似ていたが、それとも違う。
やがて音が途切れた。ワルンカはそれで、呪縛を解かれて逃げ出した。音が聞こえないように、深く潜る。けれど疑問は残った。
(何をしていたんだ、あの『二本足』は。海を呪っていたのか)
『二本足』を目撃した事で、どこか高揚した気分もあった。同時にあの音に心を乱され、ひどく落ち着きない思いを抱いた。
馴染み深い海の底、人間の住処に向かいながら、ワルンカは恵み薄い世界を思った。大気が肺を焼く世界。光が肌を刺す世界を。
『二本足』の事を思った。そのものの出していた不思議な音を。
それはワルンカの心を捕らえ、騒がせた。もはや聞こえないはずであるのに、彼の中で響いていた。
耳の奥底に残り、いつまでも。
* * *
ローズ・〈金糸雀〉・グリーンヒルは、人気のない岬の崖の上に立ち、青く広がる海を眺めながら、歌を歌っていた。
「彼方に見えるものは星
わが魂の焦がれる先にあるものは」
誰が作ったのかわからない、古い歌。かつて人類が宇宙に進出し始めたころ、二度と故郷に戻れないだろう旅に出た者たちの間で、様々な歌が作られ、伝えられた。その中の一つ。失われた故郷とのつながりを示す、小さなかけら。
「あなたは今も あの家にいて
古い歌を歌っているだろうか
緑は優しく腕を広げ
あなたを取り巻いているのだろうか」
数日前、仲間が一人死んだ。これで自分たちの数はまた少なくなった。この惑星に落ちてから、どれほどの時が過ぎたのか。世代を経るにつれて科学技術は衰退し、稼働しているコンピューターは少なくなってゆく。
自分たちは滅びへの道をたどり続けている。いつかはここで、跡形もなく消えてしまうだろう。それが自分たちの未来。わかっている。生まれたときからわかっていた。とは言え、親しい者の死が悲しくないはずがない。
ピーター・〈雲雀〉・スターポートは、ローズにとって父とも等しい存在だった。歌を愛し、様々な歌をローズに伝え、教え込んだ。敬虔な『聖なる小羊』教徒で、全てを受け入れる深みと強さを持った、尊敬すべき人物だった。ローズが歌の練習をしていると、いつも楽しげに聞いてくれた。さすがは〈金糸雀〉の名を持つ娘だと褒めてくれた。
きっと、今も。喜んで聞いてくれている。そう思いたい。
「花の香り 優しい雨
丘の上で見上げた星
小鳥のさえずりがいつも聞こえた
私たちが幸せだった あの場所では
耳に残る あの歌声……」
ピーター。
私を置いて行かないで。
歌いながらローズは思った。私は一人になってしまう。共同体の人々は、古い歌になど関心を持たない。そんなことよりもっと役に立つことを学べと、歌の練習をするたびに言われてきた。
あなたとの時間だけが、私にとっては自由の翼だった。
そこでふと、何かを見た気がした。波の合間に黒い頭がちらりと見えた。
(『海の人』?)
ローズはそちらを凝視しそうになったが、自制した。素知らぬふうを装って歌い続ける。波間に見えた黒い頭は海に潜り、こちらに近づいた。歌を聞いているのだろうか。
「静かに流れよ わが涙……」
(珍しい。『海の人』が私たちの歌に興味を持つなんて)
まだ若い『海の人』だろうか。資料によれば、耳や喉の機能が自分たちとは違う彼らの音楽は、根本から全く違うものだ。声を出すという事も、彼らはほとんどしない。
(ラクリマ鯨や、イルカ海蛇がたまに歌うけれど。それも歌と言うよりは吠え声に近いようなもの……)
自分たちの『歌』は彼らには、聞くに耐えない雑音として聞こえるのでは。研究者の誰もがそう言っていた。それなのに。
『海の人』は自分の声を聞いているようだ……。
「彼方に見えるものは星
わが魂の焦がれる先にあるものは
彼方に見えるものは星
わが魂の焦がれる先にあるものは」
歌が終わる。どうしようかと思ったが、最後の部分を繰り返した。そこで不意に強い風が吹いて、ローズは目を閉じた。声を止める。
次に目を開けた時、『海の人』の姿はなかった。潜って戻って行ったのだろう。彼らの世界に。
ふと、寂しさを感じた。
自分たちはこの世界では、余計な者。いずれは消え去るさだめの者。それでも『海の人』がこちらに何らかの感情を寄せてくれたなら。少しは受け入れられたのだという思いも抱ける。
けれど。『海の人』は決して、こちらに近づこうとはしなかった。ローズたち『陸の人』の掟により、こちらからは彼らに影響を出す事が許されない。ただ細々と生き、滅びるのを待つだけの生き方しか、自分たちには許されないのだ。
『ローズ。金色の声の〈金糸雀〉さん。
この広いラクリマで、われらの生きる世界は小さ過ぎる。閉ざされたコミューンの中、付き合う者も隣人ばかり。まるで代わり映えがしない。
いつか、我々みんなが『海の人』と友情が結べたなら良いね……』
生前、ピーターはそう言っていた。彼は若い頃に、『海の人』の一人と親しくなったらしい。ローズは子どもの頃、その話をわくわくしながら聞いた。彼とその『海の人』は、何年か親しくすごし、そうしてある日、唐突に友情は終わりを告げた。『海の人』が姿を現さなくなったのだ。
以来、ピーターは二度と、親しくしていたその友人と出会う事がなかった。
何が起きたのかはわからない。けれど『海の人』の間では、自分たちは迷信と相まって、不吉な存在とされているらしい。その関係から、何かが彼の身に起こったのではと。ピーターは死ぬまで心配していた。
『無事だと良いが。彼が無事でいてくれたなら良いのだが……』
『セア』という名を持つ『海の人』。ローズはピーターに約束した。いつか、自分が『海の人』と親しくなることがあれば。『セア』の消息を尋ね、ピーターからの伝言を伝える、と。
『伝えてくれ、ローズ。君との出会いは、君と過ごす時間は、私にとって何にも勝る宝だった。君の魂に、その行く末に幸ある事を願っていると』
必ず伝える、と自分は約束した。
「でもピーター。案外何でもないのかもしれないわよ。『陸の人』に飽きて、ごく普通の暮らしをしたくなって。海底で、楽しく暮らしているのかもね」
ピーターと出会った事は、若いころの過ちとして、思い出の一つになっているのかもしれない。
「誰かと家庭を持って。子どもに私たちの事をおとぎ話のように話しているのかも」
それならそれで良いのだが。
ローズはため息をつくと、青い海を見渡した。風が強くなってきた。
帰ろう。そう思い、彼女は岬を後にした。
* * *
ワルンカはそれから、たびたび海の上に向かうようになった。あの『二本足』がまた現れないかと期待して。
大気は肺を焼き、ひどく苦しい思いをした。けれどどうしても、あの『二本足』を見たかった。あの不思議な音をもう一度聞きたかった。
残念ながら、『二本足』はあれからあの場所には現れなかった。ワルンカは気落ちして、同時にいぶかしんだ。自分はなぜ、これほどにあの魔物に執着しているのか。
そうしてワルンカは、海の賢者の元を訪ねた。
「賢きヒレのランサ。助言を願う」
賢者の住む洞窟は、珊瑚の森を抜けた所にあった。
「これは王子。このような所へよくおいで下さった」
年老いたランサは、白くまだらになった灰色の尻尾を揺らして挨拶をした。
「パルさまには、成人の儀にて新たな名を得られましたな」
「ワルンカだ」
誇らしげに言う若い王子に、ランサは笑みを浮かべた。
「ワルンカさま。疾き蒼の君。今日は、どのような用向きで来られましたか」
「『二本足』の事で、知恵を借りにきた」
ワルンカの言葉に、ランサは動きを止めた。
「『二本足』……ですと」
「そうだ。俺はずっと、あれは言い伝えだと思っていた。老人が、子どもを怖がらせる為の物語に過ぎないのだと。だが……あれは本当にいるのだな」
「どこでご覧になりましたか」
厳しい声でいうランサに、ワルンカは身をすくませた。
「禁止海域だ……すまない」
王によって禁じられた、行ってはならない海域。後で気がついたのだが、ワルンカはそこに入り込んでいた。そうして山の上に、『二本足』を目撃したのだ。
「王子自ら、王の定めた掟を破られるとは」
「すまない」
ワルンカはうなだれた。
「わざとではない。海流に流されて、入り込んでいた。海の上を目指すあまり、周囲に気を配っていなかったのだ。俺は海の上の世界を見てみたかったし……」
「その事自体は責めません。しかし……『二本足』をご覧になった」
ため息をついて、ランサは言った。
「姿を見られたりはしなかったでしょうね」
「大丈夫だ。隠れていたから」
そう言うと、ランサはほっとしたような顔になった。
「それはようございました。決して彼らに近づいてはなりませぬ。あれは魂を持たない者にございます」
「それは知っているが……」
ワルンカは首をかしげた。
「ランサ。あの辺りが禁止海域となったのは、『二本足』がいるからか?」
「そうです。王は『二本足』の影響が出る事を恐れて、近づいてならぬ海域と定められました」
あっさりとランサは答えた。
「ではなぜ父上は……いや。『二本足』の呪術は、それほどに恐ろしいのか」
「いいえ、王子。あれらの恐ろしさは実の所、術にあるのではございません。
あれらは多くの知識を持っている。知恵を求める者、魔術に興味を持つ者が、一度は心を奪われるほどの知識の宝庫にございます。
それでいてあれらは、無害に見える。ただ醜い足を持つだけで。
けれど、王子。あれらには実がない。魂がないのです。
あれらが真に求めているのは、われらの魂。われらを虜にし、魂を奪おうと企んでいるのです。そこがあれらのあれらたる所以、そして真実恐ろしい所にございます。
たとえどれほど魅力的に見えようと、決して近づいてはならぬもの。それが『二本足』です」
ワルンカはまばたいた。
「ランサ。おまえも『二本足』を見た事があるのか」
「ごく若い頃の事にございます」
小さく息をついて賢者は答えた。
「愚かにもわたくしは、あれらに近づいた。その結果、今も己の愚かしさを悔やむ日々を過ごしています。あれは罪の子ら。心許してはならぬ者たちです」
王子はしばらく黙っていた。だがやがて、おずおずとした風に尋ねた。
「それほどに……罪深い存在なのか。あれらは」
「彼らが言うには、彼らは昔、空から落ちてきたのだそうですよ。そうして戻れなくなった。海にも拒絶され、あのような場所で暮らすようになった」
「空?」
「海の上に出た時に、壊れそうな天井を見ませんでしたか」
「ああ。あれが空か?」
「海の天井が水をはらむように、あの天井も大気をはらんでいるのですよ。そうしてラクリマを包んでいます。真珠が幾重にも、層を巻き付けて育つように。
水と大気はわれらを包んでいるのです。けれどわれらは海に生まれ、海に死ぬもの。大気の世界は、我々の領域ではございません」
賢者の言葉に、ワルンカはうなずいた。
「海の中が我々の世界。そうして大気の中は『二本足』の世界か」
「哀れな者たちです。幸薄く、命の見いだせないあのような所で暮らすしか術がない」
ワルンカはしばらく考えていたが、やがて尋ねた。
「おまえは何度も海上に出たと言うことか? 俺は一度、水の膜を破って上に上がったが。呼吸ができずに苦しい思いをした。おまえには、そのような事はなかったのか?」
「大気は、われらには苦しいもの。わたくしも、たやすく馴染めたわけではございません」
ランサは答えた。
「しかし魔術師には魔術師なりの、やりようというものがございます。われらは大気の中でも過ごせるように、訓練をするのですよ。
王子はいけません。あなたは海の者。『二本足』などに関わってはならぬ存在です」
教えてくれと頼む前に、先を越されて断られ、ワルンカはむっとした顔になった。
「だが俺は、もう少し大気の世界をのぞいてみたい」
「なぜでございますか。あなた様は海の王の息子。海の世界で満足なさっておいでなさい」
「ランサ」
言い切る賢者にワルンカは、いらいらとした風に尻尾を振った。
「俺は知りたい。ただそれだけだ! 海の上には大気の世界がある。それは誰でも知っているが、はっきりと見ようとする者はおらぬ。俺たちには関係のない世界だと言ってな。
なぜだ。なぜ皆は、見ようとせぬ。
それに『二本足』。誰もが伝説だと思っていた存在が実在した。魔術師は『二本足』が実在すると知っている。王である父上も知っている。そうだな?」
「そうです」
「では、なぜだ。なぜ父上は、俺を阿呆扱いにした! 宮殿に戻って父上に話をしたら、夢を見たのだろうと一蹴されたぞ。おかげで俺の言う事は、誰もまともに聞こうとはせぬ」
王子は鬱屈した風に言った。ランサは軽く腕を動かした。
「そうでございましたか」
「なぜだ、ランサ。なぜ父上は、俺の言う事を戯言と決めつけた。『二本足』をなぜ、ああまで伝説の生き物にしておきたいのだ。
それに、他の皆も。なぜああまで頑なに、あれらを認めようとはしないのだ!」
尻尾を水に鋭く打ちつけると、細かな泡が沸き立った。苛立ちを示すかのように。ワルンカは賢者を見つめた。ランサはあきらめたかのように、小さくヒレを振った。
「王子には確か、魔術師トノイが杖をお譲りいたしましたな」
「おお。俺には魔術の才があるとな。兄上たちはそのような真似をせずとも、王子として生きれば良いと仰せだが」
「わたくしも、王子には魔術師としての才があるとお見受けいたします。人間は普通、海の中で生きる事に満足し、大気の世界の事など考えぬもの。けれど魔術師は、その範囲を少々逸脱してしまう生き物」
ランサは言った。
「あなたの好奇心は、人間のものと言うよりも、魔術師のものに近い」
「そうなのか?」
「そうお見受けいたします。しかし……、」
ためらってからランサは、ワルンカの杖を見やった。腰帯にくくりつけてあるそれを眺め、逡巡した後に、「とにかく少し、落ち着かれませ。飲み物でも出しましょう」と言った。
ワルンカはランサの洞窟で、白花海草の茶をふるまわれた。城で出されるものと違い、素朴な味わいがした。
「先ほど王子は、他の者は海の上の世界の事を考えもしないと言われていましたが。考えないのではなく、考える事ができないのですよ」
ランサは言った。ワルンカは眉を上げた。
「どういう事だ」
「人間の『縛り』です」
ランサは答えた。
「なぜかはわかりません。ですが人間は、海の上の世界の事を考えられないようにできているのです。
知ってはいますが、考えられない。『二歩足』についても同じです。伝説やおとぎ話として語る分には問題ありませんが、まともに考える事ができない。……そうなっております」
ワルンカは、愕然とした表情でランサを見た。長く沈黙していたが、やがて「なぜ」と尋ねた。
「わかりません。魔術師の中には、これも『二本足』の呪いであると言う者もいます。わたくしも若い頃に出会った『二本足』に尋ねてみましたが……はかばかしい答は得られませんでした」
ランサは茶をすすった。
「それで皆は、俺の言う事をまともに取り合わぬのか。いや、待て。ではなぜ、俺は考える事ができる?」
「王子に魔術師としての才があるからですよ」
ランサは答えた。
「『人間』には考える事ができない。しかし『魔術師』はちがいます。
われらは『人間』の範疇を、いささか外れる者。ゆえに『人間の縛り』からもわずかなりと、逃れる事ができるのです。
ただこれも、人によって程度はあります。魔術師であっても、『二本足』にさほど興味を抱かない者もおります」
ランサは言うと、王子を見つめた。
「かと思えば、魔術師としての修行もしておらぬのに、大気の世界に焦がれる者もいる」
「焦がれているわけでは」
「そうですか?」
老賢者は小さく笑った。
「わたくしは焦がれましたよ。今も焦がれている。けれどわたくしは、大気の世界では生きられない。それを知っているからこそ、……絶望が身を焼いた」
「ランサ?」
「これが『二本足』の呪縛。恐るべき呪いです。王子。わたくしは今も、死した後に海に還るのではなく、大気の世界の土になれればと思う事があるのですよ。これほどの歳月が過ぎた後で、まだ」
低く頭を垂れると、ランサは悲しげにヒレを動かした。
「王子には、魔術師としての修行を始められませ。己が衝動を抑えるには、それしかありますまい。しかし忠告しておきます。『二本足』に近づいてはなりませぬ。魂を奪われてからでは遅いのです」
「おまえは、……魂を持っているだろう」
「ええ。大半は」
老賢者はうつむいた。
「しかし、わずかなかけらを『二本足』に奪われました。わたくしは知識が欲しかった。それゆえに……これぐらいならば大丈夫だろうと思ったのです。
浅はかでした。奪われた魂のかけらは今も、『二本足』の元にある。それがわたくしを責め苛む。こちらに来いと。全てを寄こせと。そのような呪縛が大気の世界からわたくしを呼ぶのがわかるのです。
王子。決して、決して、『二本足』に近づいてはなりませぬ」
ワルンカは、ランサの苦しげな顔を見て、目を伏せた。遅かったかもしれない、と思いながら。
山の上に立つ『二本足』。
あれ以来ワルンカの心には、あの音が住み着いていて消えない。
「ランサ。『二本足』の呪術とは……音の事もあるのか」
「音?」
「俺が近づいた時、『二本足』は何かの呪いをしていた。妙な音を立てていた」
老賢者は王子を見つめた。ワルンカは続けた。
「どうにも不思議な音だった。鯨の声にも似ていたが、まるで違っていた。空気の中を流れているが、どこか海草が揺れる様子にも似ていた。
あの不思議な音に、できるならばもう一度触れてみたいものだ。
ランサ。これは『二本足』の呪術か? 俺は、魔法にかけられたのか?」
老賢者は、しばし沈黙した。
「それは、『歌』にございましょう」
「歌? あれが?」
「はい。『二本足』の歌にございます。わたくしも触れた事はある。なんともおかしな、それでいて不思議な音の連なりでした」
ランサは腕を動かし、ヒレを動かし、泡を優雅に周囲に立ちのぼらせた。見ているとすぐにわかった。昔から良く歌われている童謡の一節だ。
「わたくしたちの歌はこのように、動きと泡の形によって紡がれます。『音』などという低俗なもので形作られる事はない。しかし『二本足』は、音を産み出す事によって歌うのです」
「奇妙だな」
「そうですね。そうして最も不思議な事は、彼らが自分たちを『人間』と呼んでいる事ですよ」
ワルンカは、呆れた顔になった。
「魔物が、自分たちを人間だと?」
「魂を持たないとは言え、彼らも大いなる竜に作られたもの。己を人間と考えたいのでしょう」
静かに答えてから、ランサは続けた。
「哀れな者たちです」
そうだろうか。
ワルンカは思った。あれは、哀れな者なのだろうか。
海の上に焦がれながら、海底にとどまり続けるランサ。海の上の事を考えられない上の兄たちや、仲間たち。知っていながら考える事を禁止する父親。
哀れなのは、自分たちの方ではないのか……。
あの『二本足』の姿を思い出す。なぜだろう。あれはとても、堂々としているように見えた。大気の中、誇り高くすっくと立って、海に、空に、歌っていた。あれを歌と呼ぶのなら。
そうして彼は、半ば確信めいて思った。自分は今後、あの音を決して忘れられはしないだろう、と。
賢者の元を辞したワルンカが泳いでいると、向こうから誰かがやって来るのが見えた。
「王子! 疾き蒼の君」
礼儀正しく腕を組み、ヒレを動かし、尻尾を沈めたのは、近衛兵のザーラク。ワルンカの幼なじみの兵士だった。西の海の民の血が混じっており、筋骨たくましく、赤みがかった肌や尻尾の色をしている。
「猛き槍のザーラク」
答えてワルンカも腕を組み、ヒレを動かした。
「聞きましたよ。『二本足』を見たのだそうですね?」
「おまえも、俺を笑いに来たのか」
宮殿の者たちの対応を思い出し、うんざりした風に言うと、ザーラクは素早くヒレを動かした。
「とんでもない。疾き蒼の君は勇敢な男。『二本足』と戦う事になっても、臆したりはしないでしょう」
「戦う?」
「そのおつもりだったのでは? 西の海には『二本足』と戦い、これを打ち滅ぼした言い伝えがあります。王子には、槍を磨いて倒しに行くのかと思いましたが」
「大気の世界は俺たちには毒だ。呼吸するだけで肺が焼ける。まともに動けるかどうかも怪しい。第一、なぜ殺さねばならない。あれらは我々とは関わりなきもの」
「『二本足』は魔物です。魔物を殺すのは当然の事でしょう」
不思議そうにザーラクは言い、ワルンカはその言葉になぜか、不快感を覚えた。人間なら当たり前の感覚、血気盛んな若い男なら誰でも言うだろう言葉だ。かつての自分も何度となく口にしたと言うのに。
「あそこは人間の生きる世界ではない。あれらの事は放っておけ、ザーラク」
不快を覚えた理由は自分でも良くわからなかったが、ワルンカはそう言った。
「ですが魔物を前にして殺さないのは」
「愚かな勇気を持つよりは、臆病な知恵を持つ方が良い」
賢者の言葉を引用すると、ザーラクは参ったという風に笑った。
「さすがは魔術師より杖を譲られた方だ。やれやれ。魔物退治などという楽しい事があるのなら、お供しようと思ったのですがね」
でも、平和なのは良い事ですね、とザーラクは言った。西の海は昔、西海王が圧政を敷いたおかげで、民がひどい暮らしをしていたと聞く。彼の母親はその頃に、東の海に逃げてきたのだ。
「東海王は慈悲深く、賢明な御方です。東の海は美しい。民も安らかだ。ここで暮らせる事が、どれほど幸せな事か。その平和を揺るがすものがあるのなら、私は許しません」
「王は、魔物には手を出して欲しくないのだろう。何があるかわからないからな。今、賢者と話をしてきたが、『二本足』には近づかぬが賢明と言われた。俺もこの話をこれ以上、言う気はない。おまえも忘れろ」
「そうですか。ちょっと残念ですね。魂を奪われるほど美しいという、『二本足』の娘を見てみたかったのですが」
ワルンカはどきりとした。
「さあ。どうだったか。けれど、娘なら人間の娘の方が良い」
「それはそうだ。いくら綺麗でも、足があるのではねえ」
ザーラクは大笑いをした。
ワルンカはそれから、魔術師トノイに弟子入りした。精神を鍛え、古き知識を学び、大いなる海のうねりを、その生命のつながりを、魂で感じ取るよう修行を積んだ。
その間も、『二本足』の女とその歌が、頭から離れなかった。
一年が過ぎ、二年が過ぎた。三年目に差しかかったある日、ワルンカは我慢しきれなくなった。そうして大気の世界に向かった。師匠であるトノイが留守をした隙に、彼の薬草をこっそりと持ち出して。
薬草で海水を固め、顔の周囲に固定する。簡単な術だが、これで大気が肺を焼く事はない。
準備を整えてからワルンカは、禁止海域を目指した。その時、嵐が近づいている事に気がついた。
(うねりが激しい。体が揺れる……)
大気の世界では、嵐はどうなっているのだろう。そう思いつつ、うねりに逆らって泳ぐ。
やがて海の天井が近づいてきた。どうどうと揺れ動く波のうねりは、天井に近づくほど激しく、ひどくなった。どうしようかと思ったが、ワルンカはそのまま進んだ。天井を割って、大気の世界に入る。その途端……、
(……!)
どうっ、と押し寄せてきた大気のうねりに、ワルンカは引きずられた。拳で殴られているかのようだ。顔に固定した海水の塊が、あっと言う間に吹き飛ばされる。
悲鳴を上げようとしたが、できなかった。そのまま引きずられるように押し流される。海に潜ろうとしたが、それもできなかった。大気は激しく叫び、うねり、ワルンカをどうどうと殴りつけて引きずった。
海は大気に怒りを叫ぶかのように、持ち上がってははじけ、うねった。そのうねりに飲み込まれ、運ばれる。もみくちゃにされながら。
がん、と何かに叩きつけられる。
海水が周囲に飛び散った。全身を強く打って、ワルンカは倒れた。
体が重い。動けない。
それでも肺を焼かれる苦痛から逃れようと、ワルンカはまだ少しあった薬草を手にした。震える手で周囲に飛び散った海水に薬草を浸す。苦しかったがしばらくすると、何とか固まった。それを顔に押しつける。
ごうごうと叫ぶ海と大気。
頭がくらりとした。そのままワルンカは意識を失った。
気がついた時、海は鎮まっていた。
けれど絶望もまた、そこにあった。
ワルンカは、海の上に突き出た山に横たわっていた。嵐のあったあの時に、空に向かって持ち上がった海が、ワルンカをつかんでここに放り出したのだ。
見下ろすと、海はかなり遠く見えた。大気の中、自分はかなり高い場所にいる。
体は重く、打ちつけた全身はずきずきと痛み、動く事ができない。大気はワルンカの肌を乾かし、太陽はじりじりと焼いた。ひどい痛みを覚えてワルンカはうめいた。
顔に固定した海水の塊は、次第に溶けてゆく。いずれ消えてしまうだろう。そうなれば、またあの肺が焼かれる苦痛を味わわねばならない。
熱い。苦しい。
ここで自分は苦しみながら、ゆっくりと死んでゆのだろうか。大気と太陽に焼かれて。
大いなる竜よ、とワルンカは胸の内で思った。救いを。どうか、救いを。
* * *
ローズは嵐が弱まったのを見て、外に出た。まだ風が強い。
「ローズ! 後で壁の修理を手伝ってくれないか」
通りかかったジョナサンが、声をかけてくる。大工道具を抱えていた。嵐の被害にあった所を、もう修理し始めているのだ。
「わかったわ。私は畑と、井戸を見てくるから」
強化プラスチック板を使った温室は、嵐の前に補強しておいた。たぶん大丈夫なはずだ。井戸も蓋をして塞いでおいたから、塵が混じったりはしていないだろうけれど……。
そう思いながら、畑に向かう。どちらも無事だった。ほっとする。
そこでふと、ピーターの『祈りの場』に目が行った。
狭い土地はできうる限り有効に利用できるよう、あちこち開拓されている。けれどあの崖には何もなかった。
かつて西で、『海の人』が同胞の住む島に押し寄せ、殺戮を行った事があった。西の島では、開拓できるぎりぎりの所まで人の手が入っていた。それで海から槍が投げつけられた時、大きな被害が出たのだ。
その事実が伝えられて以来、共同体の人々は、海に面した辺りには手をつけないよう、気をつけるようになった。槍が投げられても、施設がなければ被害を被る事もない。
『祈りの場』はそうした場所にあった。普段、人がほとんど近づかない場所。
なぜその時、そんな気になったのかわからない。
ただ、気になった。ピーターへの歌を捧げるあの場所が、嵐で荒れているのではないかと。
少しだけ、見にいってみよう。そう思ってローズは歩き出した。そうして傷ついて横たわる『海の人』を発見したのだ。
* * *
ワルンカが気づいた時、彼は狭い場所にいた。体は海水に包まれている。
どこだ、ここは。
意識を失う前の事が、思い出せない。ただ、苦しかった事は覚えていた。そこで彼は、自分が裸体になっている事に気がついた。身分を示す腰帯も、胸飾りも、杖も。全てが取り上げられている。
なぜ、こんな姿で閉じ込められているのか。
そう思った時、体が痛んだ。大気と太陽の光に焼かれた事を思い出し、ああ、と思った。肌に触れると、少しぬるついた。おやと思った。何かの油が塗ってある。
誰だかは知らないが、手当てをしてくれたようだ。しかしそれならばなぜ、自分を裸にしておくのだろう。
そう思っていると、何かの音がした。扉が開いて、誰かがこちらにやって来る。
白と金色の、足のある女。
ワルンカは目を見開いた。彼女だ。間違いない。
季節が二回巡る前に、音を立てて歌っていた、彼がなぜか忘れられなかった『二本足』。彼女が自分を捕らえたのか、とワルンカは思った。
ローズは扉を開いて、部屋の中に入った。傷ついた『海の人』の若者を運ぶのには苦労した。ぐったりとして重い彼を担ぎ上げ、必死の思いで共同体に連れ帰った。途中、出会ったマイケルとアズサに、海水を持ってきてくれと叫ぶと、彼らはすぐに確保してきてくれた。
陸に打ち上げられた魚のように、ぱくぱくと口を開けて苦しんでいた彼を見つけた時には、心臓が止まるかと思った。
とにかく呼吸を楽にしてやろうと、たらいに海水を溜めて顔をつけてやると、そのまま意識を失った。死んだのかと慌てたが、呼吸を確かめると彼は海水の中で、安らかに呼吸していた。それを確かめた時にはほっとした。
それから手当てをしたのだが、記録されている『海の人』の生態についての資料は古く、当てになるのかどうかわからなかった。人間に効果があるのなら、彼らにも危険はないだろうと判断して、軟膏を用意する。肌のひび割れと炎症があまりにもひどかったからだ。
軟膏は、魚から取った油に海草を練り込んだもので、共同体の人々も使っている。それからマイケルたちが探し出してきてくれた水槽に海水を入れて、彼をそこに入れたのだが……。
強化プラスチックの水槽は、本来は食用の藻を栽培する為のものだった。それを人の命には代えられないと、一つ空にした。決断したのは水耕栽培係のアンリだ。マイケルとアズサが、大きな桶がないかと尋ねに行った時に、事情を聞くや否や、水槽を持って行けと言った。しばらくは、日々の食事から藻のスープが消えるだろう。しかし、それにしても。
どれほど人々が物見高く、興味津々な事か!
単調で変化の少ない共同体の生活の中、『傷ついた人魚』という物語は、歓迎されるものだったらしい。ローズは質問攻めにされた。彼の世話をするとの名目で逃げ回っているが、噂好きのメアリがうずうずしているのはわかっている。早晩つつき回されることだろう。
彼を見つけたローズは当然のように、彼の担当となっていた。『海の人』の言語形態について一番詳しいのがローズだったという理由もある。生態学や歴史学を担当する者もいるにはいるが、実際の言語については、かつて『海の人』と親交のあったピーターから学んだローズが一番詳しかったのだ。
ただ、何かあれば『海の人』からの報復があるだろう、との懸念もあった。それゆえに、『人魚に近づく者はできるだけ少なく、傷が癒えればすぐ海に帰す』という指示が長老から出された。人々はだから、彼をこっそりと遠目に眺め、手当てをしたローズや手伝った者たちを質問攻めにする事で満足するしかなかった。
しかしおおむね、怪我人を気づかう者ばかりで、悪意を抱いたものはなかった。人の数が限られ、空間も限られている共同体の人々は、互いに悪意を抱き合う事を無意識に禁じている。そうした感覚が『外』から来た『人魚』に対しても適応されたのだ。
傷に障らないよう、水槽はできるだけ静かな場所に置いた。海水は入れっぱなしだと濁るので、一日に一度は入れ換えなければならない。その為の装置をアンリが考案してくれている。今は手桶で汲み出したり汲み入れたりしているが、装置ができればもう少し、楽になるだろう。そう思いつつ部屋に入ったローズは、『海の人』の若者が意識を取り戻している事に気がついた。こちらを見ている。
暗く陰る瞳。黒。いや、青。
彼の目には海があった。青金石の藍色から、青玉の青までの色が全て。
なんて綺麗。
ローズは思わず彼の瞳を見つめた。
意識をなくしていた時には気がつかなかったが、彼は整った顔だちをしていた。引き締まった体つきはほっそりとしている。顎の辺りの輪郭も、若者と言うよりは少年めいていた。
海水の中で揺れる黒髪。白い肌。耳に当たる部分には透けるヒレがある。淡く青に染まるそれは上質のレースのようで、彼を彩る飾りに見える。腰にも美しいヒレがあり、金の模様の入る青いうろこに覆われた下半身は、仄かに輝いて見えた。
手当てをする為に体から外した帯や飾りも美しかったが、彼自身がまず美しいのだとローズは思った。こうしてこちらを見ている姿は、伝説か、物語の登場人物のようだ。
目が離せない。
すると彼が動いた。腕とヒレが揺れて、何かの仕種を形作る。我に返ったローズは、自分が立ち止まっていた事に気がついた。彼の方に歩み寄ると、『海の人』の若者はもう一度、同じ仕種をした。
そうだった、とローズは思った。『海の人』の言葉は全て、仕種と泡でできている。ピーターから彼らの言葉を教わっているので、意味はすぐにわかった。
『ここはどこだ。俺はなぜここにいる。おまえは何者か』
彼の仕種を理解したローズは、教わった事を思い出そうとしながら、ゆっくりと腕を動かした。自分にヒレはなく、泡を産み出す事もできないので、細かいニュアンスが表現できない。それでも指を動かしたり、首をかしげたりする動きを加える事で、それらしいものにする。
『ここは、『陸の人』の家。あなたは嵐の後、倒れていた。傷だらけで。私はローズ。ローズ・〈金糸雀〉。あなたを見つけて手当てをした』
『海の人』の若者は、困惑したようにローズを見つめた。通じなかったのだろうかと思った時、彼が動いた。
『ありがとう。あなたに感謝を捧げる。俺の名は、ワルンカ』
「ワ、ル、ン、カ」
彼の腕の動きを音声に変えて、ローズは小さく発音した。それから彼女は腕を動かした。
『具合はどうですか。痛む所はありますか。薬を塗ったのですが、あなたがたに良いものかどうか、わかりませんでした』
『痛みはあちこちにあるが、命はある。薬は、俺たちも良く使うものに似ている』
ワルンカと名乗った『海の人』は答えた。腕を動かすのがつらいのか、時折ぎくっと動きを止める。
『俺は囚われたのか』
『いいえ』
驚いてローズは、強く腕を動かした。
『あなたは、背中の骨を痛めました。体の傷もひどかった。
私たちは、あなたを手当てしようと思ったのです。ただ私たちの所には、『海の人』の部屋がない。それで、海の水を入れた……『桶』を用意したのです。
狭いとは思いますが、しばらくは我慢して下さい。傷が癒えれば、あなたを海へ帰します』
ワルンカは、ローズの腕の動きを注意深く見ていたが、するりとヒレを動かした。
『信じよう。感謝する、ローズ』
彼女の名を優雅に腕とヒレでつづる。それから、言いにくそうな感じで腕を動かした。
『俺が囚われ人ではないのなら……頼みたい。服を、もらえないか』
服?
『同じ種族ではないとは言え、女性の前で裸でいるのは、少しつらい』
ローズは目を丸くした。それから赤くなった。傷の手当てをする為に装飾品は全て外した。そのまま水槽に入れていたのだが、彼にとってそれは、衣服だったらしい。見知らぬ場所で、しかも裸で目覚めたとなれば、それは気まずいだろう。
少し待て、と腕を動かしてから、保管してある彼の装飾品を、ローズは取りに行った。いくつかは破れたり、壊れたりしていた。
『私が見つけた時には、この状態でした』
一つ一つを水槽の前で広げる。破れてしまった薄物の帯、少し厚手の腰帯。杖は頑丈だったが、半分に折れてしまっている。
ワルンカは、悲しげな顔で杖を見た。
ローズは途中で手に入れてきた、薄い布地を広げた。帯として使えるだろう。
『つくろいものの得意な者に、できるだけ戻すように頼んでみます。今は、これを使って下さい』
布地を海水につける。水を含んだ布は少し重くなり、ローズはワルンカの方へと押しやった。ワルンカが受け取ろうとして、腕を伸ばす。けれどすぐに、顔をしかめた。痛めた背骨に響いたのだ。
ためらったが、ローズはすぐに決意した。足置きの台を引きずってくると、上着と靴を脱ぎ、水槽の中に身を沈める。それから彼女は大きく息を吸うと、ワルンカのすぐ近くに沈んだ。布地をワルンカに手渡す。
ワルンカは驚いたのか、目を丸くした。けれど布地は受け取ってくれた。
そこで息が続かなくなったローズは、すぐに上に上がった。水槽の縁に上半身をかけて、少しあえぐ。口に入ってしまった海水にむせて、咳き込んだ。みっともない姿を見せてしまったと思いながら見下ろすと、ワルンカがじっとこちらを見ていた。恥ずかしくなって体を引き上げ、外に出る。
体が重い。ぼたぼたと海水を床に垂れる。ローズは重くなった髪を絞ると、息を整えた。
『感謝する』
水槽に目をやると、ワルンカが腕を動かしてそう言った。ローズの渡した布地を体に軽く巻いている。気づかわしげに自分を見ていた。その視線に何となく、ローズはどきりとした。
ワルンカは驚いた。『二本足』の娘が突然、彼のいる固い膜の中に入ってきたからだ。透明な壁で海水を閉じ込めたこの場所が、囚人を入れておく檻ではないと知って少し安心したが、『二本足』に対する警戒はまだあった。だが裸でいるのがいやで、衣服を頼むと、娘は布地を持ってきてくれた。
娘は不格好に水に沈み、慎みのかけらもないばたばたした動きをした。赤子でも、もっと優雅に泳ぐ。そう思っていると、布地をこちらに押しつけた。それから彼女は上に上がると、ぐったりとして咳き込んだ。
『二本足』には、海の水が毒になるのか。
その姿を見て、ワルンカは、はっとなった。自分が大気の世界で肺を焼かれ、苦しい思いをしたように、彼女も海の水の中では苦しいのではと。
それなのに、布地を渡すために来てくれた。ワルンカに嫌な思いをさせまいと、誠意を示してくれたのだ。
気の毒な事をしてしまった。そう思った。彼女はしばらくぐったりとしていたが、やがて体を外に出した。先ほどより動きが鈍い。苦しげだ。
大丈夫だろうかと思っていると、彼女がこちらを見た。色の薄い髪の色は、太陽の光に似ていたが、今はみっともなく垂れている。珊瑚の花に似た赤みを帯びた瞳。尻尾ではない二本の足。
けれどもう、それを醜いとは思わなかった。
『感謝する』
そう腕を動かして、彼女のくれた布で身をつつむ。何か言わねばと思って焦った。けれど何を。何を言えば良いのだろう。
そこで思い出した事があって、尋ねた。
『いつか、あなたを見た事がある。あなただと思う。俺は海から山を見上げていた。あなたは山の上で、不思議な音を立てていた。あれはあなたがたの歌か?』
ローズはまばたいた。
『歌……というのはこれですか』
喉から声を出していくつかの音を響かせる。、ワルンカはヒレを激しく動かした。
『ああ。それだ。もう一度、触れたかった。その不思議な音。
あなたはかつて、海草のゆらぎのように、激しい泡のように、海のうねりのように音を立てた。それに触れた俺は、悲しみと憧れで胸が痛くなった。『にほんあし』はみな、そのように歌うのか』
『にほんあし』というのが彼らの、自分たちへの呼称であるとローズは知っていた。二本の足。
『あの時は、……親しくしていた私の大切な友が亡くなったのです。私は彼の魂の為に、』
祈る、という単語が思い出せない。ローズは胸を両手で抱き、それを天に差し伸べた。
『彼の為に。歌いました。私の胸が、悲しみでつぶれてしまいそうだったから』
ワルンカは真面目な顔でそれをみた。ローズの動きはどこか、感動的だった。胸の痛みと悲しみを、大いなる竜に捧げる心を表現していた。魂のある者なら誰でも、その意味がわかっただろう。
しばらくしてから彼は、腕を動かした。
『俺の胸も悲しみにあふれた。魔術かと思った。そうか。あなたが悲しみで歌っていたから、俺はそれを『聞いた』のだな』
それから『ローズ』、と彼女の名をつづった。
彼女が微笑んだ。『ワルンカ』、と自分の名を優しくつづる。それを見るとなぜか、ワルンカの心臓がはねた。
『聞きたいのなら、歌ってあげましょう。傷が癒えるまでの退屈しのぎにはなるでしょうから』
『二本足』には魂がないと、ワルンカは聞いていた。
彼女の誠意と親切は、海の民にも珍しいものだ。心遣いは風変わりだが、ていねいで。本当に気づかってくれているのがわかる。
どこが、魂のない存在なのだろう。
ワルンカはそれから、七日の間、そこで過ごした。ローズは様々な歌を歌ってくれた。『二本足』は自分たちの事を『人間』と呼んでおり、彼らの伝説も時折、ローズは教えてくれた。空から落ちて、ここへ来た、と。
治療と呼ばれる事は、水の外に出されて行われた。『医者』と呼ばれる男がやって来て、無遠慮にワルンカに触れ、妙な処置をした。その間、ローズはいつも側にいて、ワルンカの息が止まらないように、海水の入った小さな道具を顔に当ててくれていた。
ピーターの話も聞いた。ローズの友人。『海の人』と親しくしていた男。『セア』という名の『海の人』を、探してくれとローズは言った。ピーターの最後の言葉を伝えてほしいから、と。
ワルンカは約束した。そうして彼は、海に戻った。
* * *
「王子! 良くご無事で!」
賢者の洞窟を訪ねると、ランサは泣きださんばかりに顔をゆがめ、喜びを見せた。
「嵐の夜以来あなたを見かけないと、ツノウオたちも大騒ぎでした。どうしておられたのです?」
「大気の世界にいた。『二本足』に助けられた」
短く言うと、ランサは愕然とした顔になった。
「それは……」
「ランサ。あれらは本当に魂がないのか? 俺は死にかけていた所を救い出され、傷を癒された。『二本足』の娘は、己の命が危ないというのに、俺の為に海の水の中に入ってくれた。それに、これを見ろ」
折れていたはずの、魔術師の杖。それは見事に修復されていた。
「直してくれた。折れていたのに。取り上げる事もしなかった」
「王子には、……心を奪われましたか」
静かにランサが言う。ワルンカは否定の仕種をした。
「俺は東海王の息子。己の立場は弁えている。大気の世界の娘となど」
「わたくしは、魅了されましたよ。大気の世界の男に」
そう言ったランサに、ワルンカは目を見開いた。
「けれどわたくしたちは決して、彼らにはなれない。彼らもまたこちらには来れないのです。
だから離れた。だから警告したのです。彼らに出会えば、わたくしたちは、魅了されずにはいられない。魂が、……奪われてしまうから」
「知らなかった」
「昔の話です」
ランサは目を伏せた。
「では、ランサ。『セア』という同胞を知らないか。大気の娘に頼まれた。探してくれと」
「……なぜ」
「彼女の友人、ピーターという名の男が死んだのだ。その最後の言葉を伝えて欲しいと」
愕然とした顔になったランサに、ワルンカは驚いて言葉を止めた。
「ピーターが……死んだ?」
「おまえが、『セア』なのか?」
「いいえ。いいえ。私ではありません。けれど……ああ、ピーター!」
嘆きの声が上がった。ランサは大いなる竜に胸の苦しみを叫ぶと、「陛下!」と叫んで宮殿に泳ぎ去った。
* * *
ラクリマに落ちた地球人の共同体に、『海の人』からの訪問があったのは、それからしばらくしてからだった。魔術師の技によって大気に体を慣らしたというラクリマの人魚たちは、三人いた。
いずれも美しい装飾品を身につけ、杖を持った者だった。
一人はワルンカ。ローズに助けられた若者だ。一人は老いた姿の『海の人』で、それでも美しさを持っていた。彼はランサと名乗った。
最後の一人はワルンカに良く似た男で、堂々として美しく、それでいて悲しみを全身に漲らせていた。
ほら貝を鳴らして人々の注意を引いた『海の人』たちは、ローズが通訳に飛び出してくると、優雅な仕種でワルンカを助けてくれた礼を述べ、彼女に磨いた珊瑚玉をつづった額飾りを渡した。礼を言ったローズはその額飾りをつけた。
不思議な事に、その額飾りには、海にあるはずのない薔薇の花がついていた。珊瑚を刻んだものだが、それは確かに薔薇に見えた。ワルンカが微笑んだ。良く似合うと言いたげに。
『我が名は、『セア』。我が友ピーターの、最後の言葉を聞きにきた。ピーターの娘よ』
礼儀としての挨拶が終わると、堂々とした『海の人』が言った。
『ローズ・〈金糸雀〉・グリーンヒル。ピーター・〈雲雀〉・スターポートに育てられた者です。お会いできた事、うれしく思います』
彼を探してくれたワルンカに感謝の念を覚えつつ、ローズはゆるやかに腕を動かした。
『彼は最後まで、あなたを案じておりました』
『来れなかった事を、許せ』
『いいえ。彼の魂はきっと、海に向かったでしょう。海に憧れていましたから』
そう言うと、三人の『海の人』は目を閉じた。
『彼の言葉を伝えます。《君との出会いは、君と過ごす時間は、私にとって何にも勝る宝だった。君の魂に、その行く末に幸ある事を願っている》。
セア。彼はあなたに感謝していた。ついえるばかりの未来を私たちは知っている。その中で、あなたと出会えた事を彼は喜んでいました』
セアと名乗った『海の人』は悲しみに満ちた目でローズを見た。
『我には何もできぬ。何もしなかった』
『いいえ。あなたがいてくれたからこそ、ピーターの命は喜びに満ちたのです。自分の存在が決して、意味のないものではなかったと。そう思えた。あなたが彼に、消える事のない喜びをくれたのです』
けれどセアはうなだれた。その姿があまりに悲しみに満ちていて、ローズは何かしてやりたいと思った。
『歌ってもよろしいでしょうか』
『我にか』
『はい。聞きたい歌はございますか』
『ピーターが……良く歌っていた歌があった』
『歌いましょう』
ローズは静かに歌いだした。
「彼方に見えるものは星
わが魂の焦がれる先にあるものは
あなたは今も あの家にいて
古い歌を歌っているだろうか
緑は優しく腕を広げ
あなたを取り巻いているのだろうか
花の香り 優しい雨
丘の上で見上げた星
小鳥のさえずりがいつも聞こえた
私たちが幸せだった あの場所では
耳に残る あの歌声……
あなたは今も いるのだろう
あなたの愛した あの世界で
緑に優しく取り巻かれ
微笑んでいるのだろう
花の香り かぐわしい風
歌声は静かに流れて
小鳥もさえずっているだろう
私たちが幸せだった あの美しい場所で
静かに流れよ わが涙……
彼方に見えるものは星
わが魂の焦がれる先にあるものは
彼方に見えるものは星
わが魂の焦がれる先にあるものは」
歌い終わると静寂があった。三人の『海の民』は、ローズの声の響きを肌で、心で感じ取っているようだった。
この歌の『あなた』は歌い手によって相手が変わる。ある者には母親、ある者には恋人。友人である者もいるだろう。遠くにいる、決して触れる事のできない者。それでも忘れる事のできない、愛しいもの。それがこの歌で歌われる『あなた』だ。
だからこそ、旅立つ者の間で歌い継がれた。だからこそ、ピーターは歌い続けた。
〈雲雀〉の名を持つピーター。彼は、この人に歌いたかったのだ……。
だから歌った。〈金糸雀〉として、彼の為に。愛情と、憧れと、悲しみを込めて。自分自身の心も添えて。それを彼らも聞き取ったのだ。
セアの目から、涙がこぼれた。『感謝する』と腕を動かす。
それから彼らは、静かに海に戻って行った。
「彼らの行く末に、幸いがあると良いね」
ジョナサンが言った。〈猫〉の名を持つ彼は、柔軟な考え方をする青年で、歴史を学ぶ者でもあった。
「彼らもまた、私たちの子孫であるから?」
「許されない事だが、ぼくらの祖先はそれをやったんだよ」
海を見つめ、彼は続けた。
「このラクリマに落ちた時、救援は来なかった。元々移民船だったらしいけれど。
生き残った人々は、何とかして環境に適応しようとして……遺伝子の操作を行ったんだ。海の中でも生きてゆけるように。
最も、自分たちの子孫がここまで広がるとは思わなかっただろうね。この海の生態系は、ぼくたちに壊されたと言っても良い。本来なら『人類』に相当する進化を遂げるはずだった存在が、おかげで追いやられた」
「ツノウオね」
「立派な連邦法違反だよ。ただ、彼らは知らない」
「知らせなくても良い事よ」
ローズは言った。
「彼らも今では共存している。海はそれを認めた。彼らはもう、この星の子よ。きっとうまくやってゆくでしょう。後は私たちが知識と共に滅びれば、何も問題はないわ」
「そうだね。ぼくらのようなのは最初、子どもたちを見守るつもりだったらしいけど。どうしても海に適応できない遺伝子の持ち主たち。それならそれなりに役目があるってね」
自分たちの持つ〈地球名〉は、海に入れない生き物の名が選ばれる。それは戒めだ。これ以上、ラクリマに改変を行わないようにとの。
〈金糸雀〉も〈雲雀〉も、地上でさえずる定めの小鳥。海の中では生きてゆけない。
「大いなる科学者二人も、今ではどんな伝説になっているのやら」
ウィリアム・スミスとナディア・タキ。遺伝子改変を行った科学者たち。
「言い忘れていたけど、その額飾り似合ってるよ」
「ありがとう」
ローズは手を上げ、額の薔薇にそっと触れた。
「不思議だね。なぜ彼らは、この花を知っていたのだろう。なにか伝承のようなものが残っているのだろうか」
薔薇は陸で咲く。海にこの花はないはずだ。
「古い紋章なのだそうよ。感謝や友愛の印に刻むのですって」
「だから君に贈ったの?」
「そうみたい。結婚の贈り物にも刻むって。実物は忘れ去られても、何かの形で残るのね」
薔薇はコミューンでは、ノイバラをのぞき、絶滅した。だからローズたちが知る薔薇は、記録映像の中のみのものだ。
それでもその花は、歌に、絵画に、古い言い回しに残っている。優美さと愛の象徴として。
「海の中でも、残った……か」
感慨深げに言い、ジョナサンは微笑んだ。
「そうして海に咲いた薔薇は、陸に上がり。乙女の額に留まった」
「詩人ね、ジョナサン。でも陸に生まれたこの薔薇は、海に行くことはできないのよ。決して」
ローズの瞳に、涙があふれる。
「私も海に行けたら良いのに」
「ローズ」
「どうしてこんなに焦がれるのかしら。手に入らないから?」
ジョナサンは何も答えない。ローズは海を見つめた。
「ピーターの魂は海へ行ったわ。きっとセアの元にいる」
「君の魂は? いつかワルンカの所に行くのか?」
「わからないわ」
ローズはつぶやいた。
「わからない」
それでも彼女の顔を見たジョナサンは、それが真実であると悟った。
ワルンカは宮殿で、父王から若い頃の話を聞いた。彼がかつて『セア』という幼名を名乗っていた事。ランサと共に、『二本足』を見に行った事。
「そこでピーターと会った」
東海王は胸を両腕でそっと抱えると、天に向かって差し伸べた。大いなる竜に、深い悲しみを示す仕草。はからずも、あの時のローズと同じ動きだった。
「私は彼に心を奪われた。彼の音楽に。何度も会いに行った。彼と共に過ごした。彼と共にいたかった。けれどそれは許されなかった」
「父上が、王位を継がれたからですか」
「そうではない。私は真実を知っているのだ。王にのみ伝えられる物語がある」
東海王はワルンカをまっすぐに見た。ランサが頭を垂れた。彼も知っているのか。
「ワルンカ。われらは罪深きもの。大いなる竜ウィー・アムとナー・デイアは、実は竜ではない。それはわれらが生きてゆく上で、そう信じたまで。
彼らは天から落ちた『二本足』だった」
ワルンカは、愕然として父王を見た。
「どういう事ですか」
「そのままだ。われらは罪の子。『二本足』こそが本来、神々に祝福された存在だったのだ。けれど彼らは、その祝福をわれらに譲った。弱く幼かったわれらを救う為に」
「われらはこの海で、とても弱いものだったのです、王子。彼らはそれを見て、われらを助けてくれた。己の命を分け与え、今の姿にしてくれたのです」
ランサが続けた。
「そうして、自分たちは静かに滅びる時を待った。彼らの力は強大だったので、わたくしたちが弱い間は、どのような影響が出るかわからないからです。
だからこそ、わたくしたちは彼らを恐れた。焦がれながら。民が大気の世界を考えないのは、彼らに出会う事を本能で恐れているからです。出会えば、魂を奪われる。焦がれずにはいられない」
「おまえもあの娘に焦がれているだろう」
東海王の言葉に、ワルンカは目を伏せた。
「だが、ならぬ。ワルンカ。次の王はおまえが継ぐのだ」
「なぜ俺が?」
東海王はワルンカを見つめた。愛情をもった眼差しで。
「歴代の王は、彼らと関わって来てもいたのだよ。ワルンカ。彼らに出会い、焦がれ、真実を知った者だけが、王位を継げるのだ。いつの日か、対等な存在として並び立つ日も来よう。その日の為に。
その時まで、われらは別れを選び続ける。民を騒がせぬ為に。その責任を担う者こそが王。その悲しみを知る者こそが、王なのだ」
「いつの日か」
ワルンカはささやいた。
「その日の、何と遠い事か」
* * *
ラクリマは美しく、惑星には生命に満ちた海が広がる。そうして海の中と、陸の上では今日も、物語が静かに紡がれる。
それは分かたれた者たちの、恋の物語。
いつかは真実になるだろう、小さな伝え語り。
BGMは
バッハのカンタータ140、147
バーバラ・ボニー他「アヴェ・マリア〜聖なる調べ」
シャルロット・チャーチ「シャルロット・チャーチ」
このCDの「ジャスト・ウェーヴ・ハロー」が使いたかったですが、著作権の問題ありそうでダメでした。
バルカローレ(「ホフマンの舟歌」)も使いたくて訳していたのですが、シーンをばっさり切ったので入れられず。……ラブシーンをね。この曲で書きたかったんだよね……。