第1話「一市民」
………それは、ほんの、二週間ほど前の出来事である。
………………
彼は、ピピピピという携帯の目覚まし時計で目を覚ました。
それが、いつもの彼の朝だ。
「………朝、か」
また、朝が来てしまった。
時刻は四時。
未だに顔を出さぬ太陽に恨みを向けつつ、まだ眠っていたい自分を抑制し、名残惜しそうに布団から這い出る。
ずっと繰り返してきた、彼の日常だ。
木葉竜也は平凡な男である。
年齢は23歳。
産まれてから今までを、産まれた街から外に出る事なく過ごしてきた。
今日も、竜也は勤め先の工場に向かう。
その為には、身だしなみを整えなくてはならない。
バシャバシャと洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
「………はあ」
竜也は、この瞬間が何よりも嫌いであった。
鏡に映る、自分の顔を見るのが。
見て、すぐに解るのは、精気の感じられない自分の顔。
23だというのに、疲れはてて老けているようにも見える。
久しく散髪に行っていない為に、黒い髪はボサボサで伸びている。
死んだ魚のような目が、鏡の向こうからこっちを見ていた。
「………はあ」
これが自分の顔であるという事に、竜也は心底嫌気がし、はあとため息をついた。
典型的な、負け組の顔だ、と。
しかし、これが自分の顔である事には変わらない。
向き合っていくしかない。
毎朝の事だが、竜也は「これが自分の顔なのだ」と諦める。
そして、顔に電動髭剃りを当てて、じょりじょりと髭を剃ってゆく。
そして髪を整え、準備は完了する。
醜い顔を、比較的見れるようにして、朝の準備は終わる。
竜也は、これから始まるいつもの地獄のような日常を予見しながら、陰鬱とした気持ちで洗面台を離れた。
………………
先に、竜也は平凡な男だと書いた。
多分多くの読者が、妻を持ち子を持ち、家族の為に働く男を想像しただろう。
だが、ここでいう平凡というのは、今の、令和の時代の平均だ。
決して、モーレツな昭和でも、希望の見えた平成初期でもない。
………竜也が生きているのは、絶望の時代なのだ。
竜也が勤めているのは、街の片隅にある工場だ。
ガラス製品を作る会社の、下請けの下請け。
彼の仕事は、重く危険なガラスを、数人で運ぶ事。
これを、一日中延々と繰り返すのだ。
当然ながら竜也は、正式な社員ではない。
派遣社員という形で働いている。
だから、正社員ですらないから、法も社会も彼を守ってはくれない。
「………ううっ」
腕が震え、足も痛む。
20を過ぎ、重労働の日々は、彼の身体を蝕んだ。
ありし日々のように、身体はもう動かない。
「ホラーッ!へばってんじゃない!気合い入れていけぇーーッ!」
「ウィーッス!」
「ウィーッス!」
リーダー社員の男がゲキを飛ばし、点呼のようにガラスを持つ社員達が返す。
その中に、竜也もいる。
おまけに、この体育会系のノリ。
これが、竜也にはたまらなく嫌だった。
けれども、自分にはここしかない。
ここが無理なら、他の場所でも無理なのだ。
父親に言われた言葉を脳内で繰り返し、心を無にして仕事を続ける。
元々、好きで入った仕事ではなかった。
高校卒業後に、進学を諦めて入った仕事だった。
職業紹介所で見せられた情報と、実際の労働環境も大きく違った。
「一日8時間労働、たまに残業」と記されていたが、実際は働きだしてから今までずっと12時間拘束の毎日だ。
繁忙期だからと言っているが、これでは紛らわしい。
さらには、週代わりで夜勤と早出が繰り返される。
生活バランスも何も、あったものではない。
給料だってそうだ。
紹介所で見せられた給料の額と比べると、実際に渡された給料は半分ほどしか無かった。
これでは詐欺だ。
何より辛かったのは、それを相談する相手が居ないという事だ。
竜也には友達も、親身になってくれる恋人もいない。
両親にも相談はした。
だが帰って来た答えは残酷な物だった。
「たしかに今は辛い、でもそれはこれからの努力でどうにかなってゆく」
「頑張れ!頑張るんだ!いまが頑張り時だ!」
正直、自分を産んでくれた親ではあるが、竜也は開いた口が塞がらなかった。
某州の生まれである父親は、典型的な「州男児」であった。
故に、自分が熱血スポ根漫画のコーチにでもなった気分だったんだろう。
………………
12時間の拘束と重労働を終え、竜也はようやく解放される………………はずもなかった。
「さて皆さん今日も元気に、わっはっはー!」
「わっはっはー!」
「声が小さいぞ!わっはっはー!」
「わっはっはー!!」
派遣社員を集めて、まるで集会のような事をしている男が一人。
本社から来ているらしい、この工場の工場長。
彼は仕事が終わると、こうして派遣社員達を集めて集会を開く。
皆で「わっはっはー!」と笑い、明るく前向きになる、という物だ。
………バカじゃないか。
竜也を含む社員達全員が、そう思っていた。
そんな物で前向き所か、モチベーションすら上がらない。
実際、この集会で工場の稼働率も、会社の売上も上がるわけがない。
ぶっちゃけ、これに意味はない。
それ所か、重労働を強いられる社員達からすれば、心身ともに追い討ちをかけられるような物である。
それ所か、貴重な休眠時間を無駄に削る。
だが、誰も工場長に逆らう者はいない。
権力を盾にされ、実質ここは意識ばかり高い工場長による自己満足の為の場と化していた。
その日、工場長は「わっはっはー!」を三十分繰り返し、今日も社員達の貴重な睡眠時間を削った。
「………はあ」
重労働と無駄な儀式を終えた竜也は、ようやく帰路につく事ができた。
見れば、もう太陽はほとんど見えなくなり、空を紫に染めている。
今の時期は冬。太陽が沈むのも、登るのも遅い。
この仕事をしていて、日光に当たる時間はほぼ無いと言っていいだろう。
まるで、吸血鬼にでもなったような気分だ。
「………寒っ」
寒さに震えながら、竜也は自転車のハンドルを握る。
防寒の為の青いジャンパーを着ているが、寒いものは寒い。
ガラスの持ち上げ作業が原因の手首の痛みに耐えながら、自転車を漕いで帰路につく。
電車代なんて高価な物は、与えられていない。
父親から「お前は運動不足だから鍛えろ」と、自宅までの長い距離を自転車で通勤するように言われている。
自転車で、自宅を目指して街中を進んでゆく。
見れば、きらびやかなネオンや看板が、竜也の目に次々と飛び込んでくる。
レストランや、ゲームセンター。
映画館では、最近上映している特撮の「お面ライダーレイイチ」の劇場版を上映しているようだ。
「………あっ」
ふと、竜也の足が止まった。
見つめる先にあるのは、ビルにかけられた巨大な街頭モニター。
そこに映る、飲料水のCM。
モニターの中で飲料水を飲む、ブロンドの髪をした美しいの女性。
ただ、飲料水を飲んでいるだけなのに、その姿には一種の気品のような物すら感じる。
竜也は、彼女の事を知っていた。
携帯で見たネットのニュースサイトで、この所よくその顔と名前を目にする。
彼女は「エマニュエル・白鳥」。通称「エマ」。
日本人とフランス人のハーフで、今業界で活躍している、若きファッションモデルだ。
竜也は、モデルに興味がある訳ではない。
そもそも、テレビ自体をあまり見ない為、こういった有名人のような存在にはかなり疎い。
それでも、疲れ果てた仕事の帰りに、こんな美人を見れたという事で、
竜也は、少しだが嬉しくなった。
CMは15秒流れ、終わると同時に竜也は再び、自転車のペダルを漕いだ。
再び帰路につく竜也の後ろで、街頭モニターはCMを流し続けていた。
………………
通勤時に通った道を、逆に辿る。
工場を出てから15分。
住宅街に近づいた為か、辺りは静かになり、民間が目立つようになってきた。
そろそろ、家につく。
そう考えながら、竜也は自転車を走らせる。
すると。
「急いでる所、すみません」
聞き知らぬ一声が、竜也を呼び止めた。
自転車を止め、声のした方を見る。
そこには、一人の女性が立っていた。
普通の服を着た、どこにでも居る、しかし面識のない女性が、こちらを見て微笑んでいた。
不気味だ、とも思った。
思うのが普通だ。
しかし、反応して目が合ってしまった為に、竜也はその場から動けないで居る。
「あなたに、願いはありますか?」
「………はい?」
「何か、願いはありますか?」
案の定だ!竜也は心の中で自分に突っ込みをいれた。
確実にこれはやばい宗教のあれだと思いつつも、竜也は彼女の言った事を考える。
こっちは自転車があるからすぐに逃げられると、楽観していた事もある。
「願い………」
SNSで大喜利ネタをよくやる (そしてよくスベる) 竜也は、女性から聞かされた「願い」について、考える。
………思えば、自分の人生は失敗とも言えるのではないだろうか。
成人したにも関わらず、自分は親の言いなりで生きている。
自分の好きな事も、趣味も持つ事ができない。
ただ遅くまで働き、帰っては寝る。
その、繰り返し。
もっと、自分の為に生きてみたい。
その為に、必要な物。
それは。
それは………。
考えに考え抜いた竜也は、女性に対して、こう答えた。
「とりあえず………5000兆円欲しい!」
やはり、現実的に必要なのは金だ。
そう結論を出した竜也は、少し前にSNSで流行したこの言葉を、彼女に向かって少しばかりどや顔をして言ってみた。
女性は表情一つ変えない。
しまった、スベったか。
途端に恥ずかしくなった竜也は、逃げようとするように自転車のペダルに足をかけた。
「じゃ、じゃあ俺はこれで!」
そそくさと、その場を離れようとする竜也。
だが、その朱鷺だった。
パスッ!
軽い音が響き、右腕に僅かな痛みが走った。
見れば、竜也の右腕に、何かダーツと注射器を混ぜ合わせたような物が刺さっている。
女性は変わらぬ笑顔で、拳銃のような物を竜也に向けて構えていた。
竜也は、それが何なのか知っていた。
以前ネットで見た事がある。
女性が構えているのは麻酔銃。
今右腕に刺さっているのはその弾だ。
「ま、麻酔銃………?!」
竜也が口を開くと同時に、その意識がぐらりと歪む。
途端に、家で布団に入る時以上の眠気が襲ってきて、身体から力が抜けてゆく。
竜也が最後に見たのは、自転車ごと倒れる自分を見つめる女性と、夜空に上がる月だった。
どさり
意識を失った竜也が、その場に倒れた。
一緒に倒れた自転車の前輪が、カラカラと回っていた。
………………
しばらくして、竜也が最初に感じたのは、顔に照りつける照明の目映さと、後頭部に感じる床の冷たさだった。
「う………んっ?」
目を開き、ぼやける視界で辺りを見回しながら、ゆっくりと身体を起こす。
頭がぐわんぐわんと鳴っている。麻酔銃の副作用か何かだろうか?
「………何処だ?ここ」
目が慣れたのか、ようやく視界がクリアになった所で竜也が最初に発したのは、この一言だった。
竜也が居たのは、何処かの倉庫を思わせるような場所だった。
広さはかなりあった。中学の頃学校の行事で行った競技場と同じぐらい。
鉄の壁に、コンクリートの床。
窓や扉らしき物は見当たらず、天井についた照明が、部屋を照らしていた。
そして、そこに居たのは竜也だけではない。
「おい、どうなってるんだ?!」
「一体ここは何処なんだ!」
「くそっ!携帯は繋がらない!」
「おーい!外に誰かいないのかァーッ!」
確認できる限りでは、数百人………いや、数千人はいるだろうか?
竜也以外にも、この場所に連れて来られたであろう人々が、こにの無機質な空間の中に蠢いていた。
日本人だけでなく、よく見れば外国人と思われる人もちらほら見られる。
どうやら、目覚めたのは自分が最後らしく、その多くが突然の状況に戸惑いながら、外に助けを求めようとしていた。
そしてその全てが、右手に金の腕輪を巻いていて………。
「………えっ?」
ふと、竜也も自分の右手を見る。
そこには、他の人々と同じ金の腕輪が巻かれていた。
自分で巻いた記憶はない。
おそらく、自分をこの場に連れてきた「連中」が巻いたのだろう。
この場にいる人々と同じように。
「………何だ?これ」
機械的なその腕輪には、いくつかのボタンがついている。
ガチャガチャと弄くるが、どうも取り外せない。
竜也はしばらく、その腕輪と格闘していた。
すると。
『はーい!皆さん注目ーっ!』
突然、場違いなキンキンしたアニメ声が響いた。
そして………。