ヒロインは覚醒未満
食事中くらい、マナーを指摘されるわずらわしさから開放されたい。
だから学園での昼食は、いつも中庭で摂るのが、男爵令嬢クロエ・ダントンの習慣である。その場所は毎回意識して変えていた。極力人目に触れないところ、奥まったところ、でも万が一の時の為に、袋小路ではないところだ。
貴族子息御用達の王立学園の敷地は広大で、そんな風に過ごしていても、場所に困ることなどない。ただ、広いとそれなりに移動時間がかかるわけで――その日も、午後からの講義のため、クロエは食後の休憩もそこそこに教室へ向かっていた。走っているのが見つかると、これまた淑女らしからぬと注意を受けてしまうため、歩く。できる限り素早く。
だからかもしれない。優雅な足さばきに見えるようにと、ただそれだけを気にしていたから、気づくのが遅れたのだ。ざあっという水音に気付いて頭上を見上げた時には、もう遅かった。2階からぶちまけられたであろう、汚水が見事にクリーンヒット。
迫りくる水の塊の影に見えたのは、傾けられた花びんと、それを支える幾本もの細くて白い腕。水の後を追うようにこぼれ落ちてきたのは、上品な忍び笑いだ。
「……くっさ」
雑巾臭い水がくせのない黒髪を伝わり、ぽたぽたと足元に染みを作る。ハッと息をついたのは、ため息じゃなくて気合い。黒の瞳に、闘志の火が灯る。これぐらいのことで落ち込んでいる暇も弱さも、クロエにはない。
雨にぬれたの犬のように、ぷるぷると水滴を飛ばす。肩掛けにしていたカバンから取り出した予備のハンカチで、残った水分をざっとぬぐい、へたった前髪をがっとかき上げると、勢いよく方向転換した。
目指すは、ついさっきまでいた中庭。そこには、小さな噴水があった。雑巾をすすいだ水より、噴水の水の方が断然ましだと、クロエは考えたのだ。
――それに、これが下水なんかじゃなくて良かった。一張羅のドレスに染みを作らずに済むから。今が初夏ってのもラッキーよね。風邪をひく心配だって、しなくて済むもの。
何よりも、急げばまだ講義に間に合うのがありがたかった。学費援助を受けているクロエにとって、講義をすっぽかすことだけは、あってはならないのだ。
先程よりいっそう気合を入れた早歩きで、クロエは来た道を戻っていった。
***
そんな波瀾に満ちた学園生活も、とうとう本日で卒業である。
さまざまなことがあったけれど、精一杯やり切ったとクロエは思っている。
夕刻からの卒業パーティでは、とある計画を立てていた。抜かりはない。クロエは勝利を確信しつつ、きらびやかな会場へと乗り込んだ――。
「ヴァネッサ・レオミュール。貴女の卑劣な行いを、私が知らぬと思うのか。貴女に我が妃はつとまらぬ。今ここで、貴女との婚約は破棄だ!」
そこで始まったのは、断罪だった。開会宣言をするはずの卒業生代表、第二王子の口から、驚きの言葉が発せられたのだ。人目の集まる場所での、王族からの誹り。これはもはや公開処刑にも等しい。
和やかだった会場は一転して凍り付き、異様な空気に包まれていく。
事情を知らない学生たちは、取り合えず王子の逆鱗に触れぬよう、そっと壁際へと身を寄せ始めた。
やがてその引き潮の中、ひとりの令嬢が取り残された。
天使の光と賞される艶やかなゴールドブロンドと、紺碧の意志ある瞳。並みいる貴族子息の中でも、取り分け豪奢なドレスを品よく着こなし、佇まいだけで人目をひく存在。ただそこに在るだけで、高位の貴族であることがひと目でわかるその人こそ、先程王子が名指しした、ヴァネッサ・レオミュール公爵令嬢だった。
かばうように寄り添おうとする友人たちを、わずかな笑みと目線で制した彼女は、自身で一歩、前へ出る。流れるようなカーテシーで恭順の姿勢を見せると、彼女はつつしんで第二王子の次なる言葉を待った。
一方、舞台上の者たちの表情は硬い。辛うじて理性は手放していないながらも、怒気をまとわせている者、あからさまに顔をしかめている者、さまざまである。王子を中心とした派閥を形成する彼ら――すなわち、中央政権を担う重要人物を身内に持つ者たちである。だからこそ、これが冗談事ではないと、会場じゅう、固唾を飲んで見守っていた。
「……ふん。何もかもを認めるか。ならば話は終わりだ。追って沙汰を言い渡す故、自領で謹慎いたせ」
「恐れながら」
凛と響くヴァネッサの玉の声に、王子は翠玉の瞳を細めて殺気を膨れ上がらせたが、どうにかそれを抑え込むと、尊大に顎を上げて先を促す。令嬢は少しもひるむ様子なく、言葉を紡いだ。
「わたくしは、王子のおっしゃるわたくしの卑劣な行いというものを、認めてはおりませんわ。認めたことで話が終わるとおっしゃられるなら、このお話はまだ終わっていないかと存じます」
「何をいまさら……! 貴女は先程、罪を認めたではないか」
「いいえ。ない罪を、認めることなどできませんわ」
「よくもそのような世迷言を。私の言葉に膝を折ったろう」
「わたくしが膝を折ったのは、陛下のお言葉と、それをお伝え下さった殿下の労に対してですわ」
「……陛下のお言葉?」
「婚約の破棄をと。ああ、大変申し訳ございません、婚約の宣誓書が無効となった旨、まだ存じ上げなかったのです。元老院の決議は本来、公爵家にも速やかに伝え届けられるはずなのですが」
「……違う」
「もしや早馬に何かあったものと……はい? 申し訳ございません、今、何かおっしゃいまして?」
終始ぴんと背筋を通し、淡々と受け答えするヴァネッサとは対照的に、先ほどの勢いはどこへやら、急に声が小さくなる第二王子。だが問い返されて腹をくくったか、苦虫を噛みつぶしたような顔で開き直った。
「だから違う。動議提出はこれからだ」
「……と、申しますと?」
「陛下は存じ上げぬ……今はまだ。だが状況を説明すれば、必ずや理解を示してくれるはずだ」
「まあ……。つまり、これは陛下の了解を得ぬ、殿下の独断であると?」
「ど、独断ではない! ここにいる私の友人たちは、皆理解してくれている」
「……そう、でしたか。よくわかりましたわ」
ヴァネッサは美しく口角を上げ、ゆっくりとうなずいた。ほんの一瞬、舞台の上の王子のご学友陣に凍てつく視線を投げかける。ひぃ、と誰かの口から悲鳴に似た喘ぎが漏れた。
「では、その状況というものを、わたくしにもお聞かせくださいませ」
「なんだと?」
「殿下のおっしゃる、わたくしの卑劣な行い。それがわたくしたちの婚約解消に値すると殿下は考えていらっしゃる。しかもそれは、陛下もご納得されるほどのもの。ならばわたくしは、わたくしの矜持を持って、それを正しく把握したいと考えます」
「そのようなこと! 言えばどうせ権力をかさに、証拠を握りつぶすに決まっている」
「何のためにでございましょう?」
「しらばっくれるか。貴女はなんとしても、我が妃の座にしがみつきたいはずだろう」
「ならばそれは放棄します」
「やはりな! え? ほうき?」
「殿下が、わたくしの求めるものを、殿下との婚姻とお考えなら。わたくしはそれを求めないと、今ここで誓います。セラ!」
「はっ」
その途端、背景と化していたヴァネッサの護衛がさっと出てきてひざまずく。女性ながら、公爵家の至宝たるヴァネッサ付きの騎士であるなら、能力の高さが伺えるというものだ。
「聞いていましたね? 急ぎ書面の用意を」
「はっ」
「いや、ちょっ」
「ご心配なく。殿下もご存じのように、セラは公証人としても有能ですわ。それに何より、今ここにいる全ての方々が証人です」
「む……」
「これで殿下の憂いは取り払われました。では改めまして、状況をお聞かせ願います」
「……しばし待て」
他には何かなかったかと、取り巻きたちに確認する王子を、ヴァネッサはそっと見守っている。そのような画策は、本来人目をはばかるべきであり、これまで通りにヴァネッサが彼の婚約者であるならば、それは後ほどそっとご助言すべき事項として心に留め置くのだが。
――わたくしたちが婚姻に至らぬというのであれば、それはもはや差し出口というもの。
ヴァネッサは見守り続けた。しかし長い。それだけの面子が揃っていながら、まだ結論が出せないというのだろうか。彼らに注がれるヴァネッサの視線が、徐々に生ぬるくなっていく。
ついにヴァネッサは痺れを切らした。はしたないこととは思いつつ、先を促さずにいられない。
「恐れながら、まだ何か……?」
「いや……いや、今はそれでいい」
「では、お聞かせくださいませ。わたくしの行い、わたくしの罪とは」
「いいだろう――クロエ・ダントン! 前へ!」
第二王子が口にしたのは、この学園唯一の男爵令嬢の名だ。由緒正しき貴族子弟しか入学できないこの学園へ、平民階級からダントン男爵に養子縁組を受けたのち、入学を許された奇跡のひと。
その頭脳から生み出された数々の発明は、ハサミや鉛筆などの身近な道具から、水車に水路、避雷針、鋼など、生活を大きく変える物まで多岐にわたる。
人垣が割れ、壁際からやや緊張した面持ちのクロエ・ダントンが進み出た。
王国に珍しいくせのない黒髪は、今は高い位置で結われ、可憐な彼女の顔立ちを神秘的に見せている。着こなすドレスは決して高価なものではないが、シンプルゆえにクロエの魅力をより引き立てていた。
「ヴァネッサ・レオミュール。貴女の罪は、彼女への冒涜。高位貴族の権威をかさに、取り巻きたちとはかりごとを巡らせて彼女を貶めた、その淑女らしからぬ振舞いだ」
尊大に告げる王子に臆することもなく、ヴァネッサ・レオミュールは小さく首を傾げた。
「恐れながら、身に覚えが」
「ないとは言わせぬ。いちいち罪状を読み上げねば認めぬか? よかろう、その一、一昨年の春。通りがかりのクロエ・ダントンを突然厳しく叱咤した」
ヴァネッサは二度瞬きをして、小さく息を付くと、ゆっくり唇の端に笑みを乗せた。
「……風紀委員として、彼女の淑女らしからぬ行いを正したことならございましたが」
「学園を、その崇高なる規律を、隠れ蓑にした隠逸な虐めという訳か」
「いいえ――淑女たるもの、急ぎであろうと走るなどもってのほかですわ。わたくしはそれを正したまで」
「しかし必要以上に鋭い叱責だったと聞いている」
「片手に靴を、もう片手にたくし上げたドレスの裾を持ち、ふくらはぎを晒していたのですよ。急ぎ叱咤しなければ殿方の目に触れるため、良かれと思って行ったのですが」
「む……ではその二。これも一昨年の春。取り巻き共々、男爵位を愚弄していたとか」
「愚弄ではなく、自覚なさいと言ったのです」
「同じことではないか」
「違います。あの頃のクロエは、庶民出の自分には窮屈だと、貴族の立ち振る舞いを身に着けることを厭っておりました。しかしながら、才女たる彼女なら、先々王都に召し上げられる可能性もなきにしもあらず。となれば、それ相応の礼儀作法を身につけなければ、後々困るのは彼女なのです。それに仮にも、ダントン男爵家にその知性を買われ、養子縁組をされてこの学園に通う身ならば、彼女の恥はダントン家の恥。だからこそわたくしは彼女に、男爵位に恥じぬ淑女たれと、そう伝えたのです」
「む……その三! 一昨年の夏の初め。頭上から汚水をぶちまけた」
「それはわたくしのせいかもしれませんね。派閥争いの矛先が、彼女に向いてしまったのです。わたくしが何かと彼女を気に掛けていたことが、裏目に出てしまった出来事でした。彼女と男爵家には丁重に詫びを入れ、ドレスは公爵家が責任を持って購入し直しています」
「その四! ドレスをビリビリに破いた」
「汚されたドレスを弁償する際、傷ものを下げ渡す形に致しましたの。そうでもしないと、高価すぎると受け取ってもらえなかったものですから。とはいえ、生地そのものを破くのではなく、縫い目に沿って丁寧にほどき、修理には十分な量の糸を添え、腕に覚えのあるお針子を貸し出しておきましたので、修復は容易だったかと」
「その五! 弁当の中にカエルが」
「クロエの元いた村では、カエルは大事なたんぱく源だったそうですよ」
それに関しては、『不作の年の食糧難を解決する糸口になる可能性としての食用ガエル、その栄養価と養殖方法について』という論文をご参照ください、とヴァネッサは述べた。2年次にクロエとヴァネッサの連名で行った研究で、現在は国が研究を引き継ぎ、実用化に取り組んでいる。
その後も王子は次々と罪状を読み上げたが、ヴァネッサはことごとく論破し続けた。
そしてついに、最後のひとつが読み上げられる。
「その七十三! 数々の嫌がらせに恐れをなして、気の毒なクロエは教室や学友を信頼することができず、重たい教科書の全てを持ち歩かねばならなかったそうではないか」
「……その通りですわ」
急に声を低めたヴァネッサ。笑みの形を取ってはいるが、目が笑っていない。怖い。
「なんでも、机の物入れの中に汚泥が塗りこめてあったとか。そのような机、使えませんわよねえ。ですが殿下、お言葉ですがそのやり口、わたくしにはあまりピンときません。手もドレスも汚れますし、まるで女性らしからぬというか――そう、幼い殿方のなさる悪戯に、似ていますわねぇ……」
「……何が言いたい?」
「単刀直入に申し上げますわ。セラ!」
「はっ」
有能なる護衛騎士が差し出す報告書を、ヴァネッサは読み上げる。
「殿下はご存じなかったかもしれませんが、セラは地質学にも精通しております。その泥は分析の結果、大陸の赤土と雨水から成ることが判明いたしました。赤土の採取できる地域は限られております。かつ、事件の日から遡って一週間、雨の降っていたその場所は――」
「場所は?」
「――その前に。そもそもそ殿下が御手になされたリストは、どこのどなたが作成されたものです? お言葉ですが、とても精度の低い情報ばかり。むしろ、敢えてそうしてあるようにお見受けします。しかもそこに含まれる悪意は、明確にわたくしを敵対視なさっているご様子。わたくし、争いごとは好みませんけど――」
ヴァネッサが笑みを深めた。
「売られた喧嘩は、買いましてよ」
怖い怖い!
王子が青ざめる。事あるごとに説教を授けてくる生意気な婚約者をがつんとへこませ、あわよくば、より扱いやすく大人しい令嬢に鞍替え出来れば尚よし、そう考えていた。簡単なことだと思っていたのに。一体どこでどう間違ったのか、今や完全なる劣勢である。しかし誰がと聞かれても、報告を受けていただけの彼にはわからない。
「誰がというわけではなく、皆がそう――」
「そうなのですか? 本当に? 裏は取りまして? わたくし、殿下と共にいらっしゃるあなた方にも、合わせてお伺いしていますのよ。そのリストに、あなた方の全てを賭ける価値がおありかと」
「え……」
「まさか、ご存じないなら許される、などという甘い夢は、おやすみの時だけになさって下さいますわよね? わたくし、秩序と礼節を乱す者には――」
ヴァネッサ、にっこり。
「臀部の御毛一本、残しませんわよ」
痛い痛い!
「い、いや……」
そこにスイッと取り巻きの一人が進み出た。
「も、申し訳ありません、ヴァネッサ嬢。リストを鵜呑みにして誤解していたようだ」
「私も」
「私も」
「私もだ」
「お前たち!?」
沈みゆく船を見捨て、あっさり裏切る取り巻き一同。慌てふためく王子の後ろ、苦い顔で半歩後ずさった者を、ヴァネッサは見逃さなかった。
「セラ!」
「はっ」
影が飛び出し、瞬く間に舞台に駆け上がる。逃げる背中へ取りつき、その首筋に手刀の一撃。一瞬のちには全てが終わっていた。ヴァネッサからの説明はなかったが、きっとセラは体術にも秀でているのだろう。
崩れ落ちた男は、代をさかのぼれば亡国、今は属領となる子爵家の次男。分析結果の示す汚泥を手に入れられた、唯一の生徒でもある。
「語らずとも落ちましたわね……殿下、此度の騒動は、全て彼の企てによるものですわ」
「まさか……!」
意識のないまま捕縛される友を、王子は心痛の面持ちで眺めている。王子から見た彼は、忠心の厚い優秀な男だったのだろう。取り巻きにしていたということは、いずれこの国を担う要職を任せても良いとまで思っていたのかもしれない。
「なぜ……なぜこのような……」
「属領足り得ていなかった、ということなのでしょう。彼の曾祖母は、かの亡国の王族を父に持つ落とし子だとか。なれば、今はまだ10歳の彼の妹を、わたくしの後に妃へと推し、我が王国の中枢に食い込むことで、再び権力へ近づこうと画策したとしてもおかしくはございません」
「そのような話は――」
「ご存じないのは当然ですわ。表に出ていない事項ですもの」
「なら、なぜ貴女は知っているのだ!?」
「わたくしには、セラがおりますので」
ふふっと微笑むヴァネッサの照れた笑みは大変愛らしいものだったが、居合わせた皆は絶句した。
何それもう暗部じゃん、と思った者も、いたとかいなかったとか。
*
さて、不届き者があぶり出され、なんとなくほっとした空気が流れた会場では――。
――グゥルルルルルルルル……。
突如、唸り声のごとき低音が鳴り響き、再び会場に緊張が走った。
「なっ!?」
「きゃあっ」
「何事?」
「これはっ! まさか公爵家の飼い獅子!?」
獅子!?
王子の当て推量に、会場中がざわつく。現公爵家当主が戯れに、つがいの猛獣を飼っているのは、社交界でも有名な話だが、まさかこんなところに――けれど。
「恐れながら殿下、公爵家が飼っているのは豹ですわ」
「豹!?」
公爵令嬢ヴァネッサの訂正は、余計恐怖をあおった。王国での豹の認知度は低く、人々は豹と呼ばれる猛獣の存在は知っていても、その姿を明確に思い浮かべることができない。
その獣が一体どれほど獰猛なのかは、ただ想像に頼るしかなかったが、あのレオミュール公爵家が獅子を置いて選ぶのだからさぞかし……と恐怖は煽り煽られ、皆の脳裏を駆け抜けて――そんな獣が今ここにいるなんて……と、口元を抑える者、胸元を鷲掴みする者、中には膝から折れて気を失う者も出る始末。会場は騒然となった。
もちろん、実際は会場に豹などいるはずがなく、単なるうっかり王子の早とちりなだけである。そこをあえて訂正しないあたり、公爵令嬢も人が悪い。
その時。
それまで黙っていたクロエ・ダントンが口を開く。
「お……恐れながら、申し上げます、王子殿下」
クロエは微かに打ち震え、瞳いっぱいに涙をためて辛そうだ。
「ど、どうした!? クロエ嬢、どこか具合が――?」
「お待ち下さい、殿下」
「ええいヴァネッサ、邪魔だてするな! 衛兵! 今すぐ医務室に――」
「いえ、あの、殿下、も、申し上げても……――?」
「皆まで言うな、クロエ嬢。豹の恐怖は淑女には辛かろう――待て、医務室よりも王城専属医師の方が――」
「じゃなくて」
ぷつ、とクロエの堪忍袋の緒が切れる。だめだこりゃ。王子との会話でぶち切れるなどあるまじき不敬だが、まるで話を聞いてもらえないこの状況、幼いころから厳しくしつけられている公爵令嬢ヴァネッサならいざ知らず、なんちゃって成り上がり男爵令嬢に耐え忍べと言う方が無理である。
「開会宣言を、して頂きたいんです」
「開会宣言?」
「この卒業パーティを、どうか始めて頂きたく……!」
「や、そんなものより大事なのは、其方の身体ではないか。遠慮などすることはない、私が早急に――」
「早急に! 開会宣言を! して下さい!!」
クロエは怒っていた。何が獅子だ。乙女の腹の音を猛獣扱いするなんて。グルルグルルと、ああそうさ、うるさいさ。けれど、それもこれも皆、王子がここまで開会をひっぱるせいである。
空き過ぎた腹が痛い。誰よりも食べるつもりで、クロエは昨日の晩から何も食べていなかった。なぜなら、お貴族様の豪華な食事にありつけるのも、今日で最後になるだろうから。
ダントン男爵はよくしてくれるが、やはり自分には庶民の生活が合っている。卒パが無事に終わったら、クロエは育った村に帰る予定だ。ヴァネッサの口添えで、それが約束されている。
だから村に戻る前に、全メニューを制覇して、かつ気に入ったものだけを3周はしたいと、綿密な計画を立てていたのに……!
どのあたりまでなら我慢が出来て、かつ後から来る豪華料理を心底楽しめるか。稀代の才女と呼ばれる頭脳でもって、考え抜いた計画は完璧だったはずだ――パーティが、時間通りに始まりさえすれば。そうすれば、最高にお腹を空かせた状態で、熱々の美味しい料理を最大限楽しむことができた。腹も鳴らず、注目を浴びることもなく、紛うことなき完食勝利への道を、突き進んで行けたはずなのに――一最短距離に見えたその道が、馬鹿王子の長ったらしい婚約破棄で邪魔されるなど、一体誰が予想し得ただろう。
大体王子は、なぜクロエを呼んだのだ。呼びつけておきながら、一向に話を振ってもらえないなど、とんだピエロだ。それでは誤解を解く機会もない――王子と公爵令嬢の会話に割り込むなんて。だからクロエは、ただひたすら、王子からの声掛けを待っていた。立ち昇る香ばしい香り、じゅっと音の立つ鉄皿の上のぶあつい肉が、最高に美味しい時を過ぎ、だんだんと冷めていく様を横目に、すきっ腹を抱えながら待っていたのだ。
ただ一声、声を掛けてくれさえすれば、ヴァネッサへの疑惑は解消できた。73カ条にも膨れ上がった突っ込みどころ満載の断罪リストを、 長々聞かずに済んだのだ。
クロエは王子の横暴を恨んだが、それ以上に自身の無力を嘆いた。気が付けば、メイン料理のみならず、デザート類にまでも衰退の波が押し寄せてきているではないか。キンと冷えていたはずの果物は、ぬるくなってしんなりとへたり、ピンと角が立っていたクリームも、心なしかぐんなり項垂れている。
しっとりさが命のスポンジは、悲しいくらいに乾いてパサつき、滑らかさが身上のチョコレートソースなど、色つや悪くぼそぼそとだまになり始めている始末。
それらが、真っ白なクロスの上、磨き込まれた銀器に美しく盛りつけられているのが、より一層深い悲しみを誘った。
――完敗だわ。
ヴァネッサの忠告を聞き入れるべきだった。淑女らしくないことはおやめなさいと、言われていたのに――なのに、クロエはその忠告を無視して、プチ断食を決行して腹を鳴らし、注目を浴びてしまったのだ。
この上医務室なんかに連れ去られてみろ、料理にあり付くことすらできず、王子お抱えの医師から「こりゃただの空腹ですな」とか言われるのがオチだ。そんなのありえない。
「早く何か食べさせてください――お腹空いて死にそうなんで!!」
最後の気力を振り絞って、言いたいことを言い切ったクロエは、その直後、めまいを感じて膝から崩れ落ちたが――。
「セラ!」
「はっ」
間一髪で椅子を差し出され、クロエは床に伏すことなく事なきを得たのだった。
***
馬車に揺られる帰り道。
いろんな思いに心を預けながら目を閉じていたヴァネッサは、ふと夜風にあたりたくなって小窓を開けた。と、上気した頬に、もの言いたげな視線を感じる。
「言いたいことがあるなら聞くわよ」
馬車の音にかき消され、単騎で並走するセラには届くはずもない小声だが、お互いに読唇術を嗜んでいるため問題はない。むしろ密談に最適な状況である。
結局、定刻から大幅に遅れつつも、卒業パーティは無事開催された。
クロエは医務室に運ばれそうになっていたが、ヴァネッサの機転で気付けに甘味を含まされ、搬送を回避。無事食事戦線に復帰することができたし、ヴァネッサに掛けられた容疑ももちろん晴れた。王子はまだ何やら言いたげにしていたが、会場の空腹な空気がそれを許さず、断罪はお開きとなった。
セラから心配されるようなことは、もう何もないはずだ。
ちなみに、クロエが散々嘆き悲しんでいた冷めた料理は、ヴァネッサの一言で回収され、追加用に待機させてあった新しい料理と取り替えられた。もちろん、それらは熱々ジューシー。クロエ他、会場じゅうが喜んだことは言うまでもない。
回収された料理はと言えば、舞台上にいた面子の集まるテーブルへと、さり気なく運ばれた。もはや威圧を隠そうともせず、給仕に扮して迫りくるセラに、文句を付けるのは王子でも難しかったようだ。
「婚約破棄の成立、おめでとうございます」
「ありがとう。向こうからなのだから、きっとお父様も許して下さるでしょう。これで権力の偏りを理由に、第一王子殿下の婚約者候補から外されていたことも、再検討することになるわね」
はめられたとは言え、第二王子自ら礼を失した選択をしたのだ。国内筆頭公爵家の怒りを鎮めるため、王家はあらゆる手を尽くして、ヴァネッサの機嫌を取りに来るだろう。
セラしか知らないことだが、実はヴァネッサの初恋は第一王子殿下である。
狙った獲物は必ず手に入れる、ヴァネッサは肉食系女子だった。
「クロエ嬢のことは、公爵家に迎え入れられるかと思っていたのですが」
もちろんクロエも、獲物の一人だ。ヴァネッサの口元が、ふふっとゆるむ。
「それだと逃げられてしまうから……あの手のタイプは、恩だけ売って自由にさせるのが一番よ」
クロエを手元に留め置けるなら、その形がどうであろうと構わない。今回の騒動で、あの場にいた全員が、クロエの後ろ盾がヴァネッサであると理解したのなら、この先はずいぶんやりやすくなる。
「クロエ様に権力欲がないのは幸いでした」
欲深い娘なら、目の前に差し出された計略に乗ったことだろう。ヴァネッサを貶め、王子に取り入る道筋は、年ごろの娘には魅力的に映るはずだ。
「そうね……結局あの男は、何がしたかったのかしら」
クロエを被害者に仕立て上げ、第二王子を謀り、ヴァネッサを陥れようとした、あの男。
まさか本当に、あの頼りない第二王子に自分の妹姫を差し出そうとしていた訳ではあるまい。あれは、クロエに注目されたくなかったヴァネッサが、とっさに述べた偽りだ。彼が画策した婚約破棄で一番不利益を被るのは、実はヴァネッサを失う王子だったりするが、それも所詮、傀儡の使い手が変わるだけだ。
だとしたら――やはり彼も気づいていたのだ、クロエの価値に。
クロエの価値――それは稀代の才女たる知能の高さではなく、彼女が時々みる夢にあった。
公平な世の、便利な道具と行き届いた教育システム。
こことは違う、豊かな国の、進んだ暮らし。
ヴァネッサは、クロエが打ち明けてくれたその荒唐無稽な話を信じている。
実際、クロエの話は、出来上がりの姿は克明でも、作り方はあやふやな物も多々あった。それはつまり、彼女自身が原理を積み重ね、試行錯誤してたどり着いているわけではないということになる。
つまり彼女は、ゴールを知る者なのだ。
時にゴールしか見えていなくても、いつか誰かがたどり着くはずの、革新的な物や事象の完成図を知っている。それがどれほど強力なアドバンテージとなるか、わからないヴァネッサではない。
だからだろう。
あの男は、クロエを囲い込みつつあるヴァネッサの失脚を狙った。その上で切り離したクロエを、自分のために使おうとしたに違いない。
「王子に打ち明けていない時点で、後ろ暗い計画があったとしか思えません」
「そうよね。おおかた、クロエを手土産にして周辺諸国の要職へ、といったところでしょう。保守派が台頭するこの国で、今は亡き隣国出身の家が、今以上に出世することは難しいもの。となると、もしこちらが隙を見せていたなら、その時は彼女を脅威に変えて、攻め入ろうとまで考えていたかもしれないわ」
「まさか、国家反逆……!?」
「ええ。でもきっと、口は割らない。つまり今回のことは、第二王子への不敬罪で収まりそうね。償うべきは、本人とその保護者」
それで良いかと、きっと打診がくるだろう。今回の一番の被害者は、一応ヴァネッサということになっているのだから。
「残された妹君はどうなさいます」
「わたくしが保護するわ。それで手を打つことにする。誠意を込めて、良縁を結んで差し上げなくてはね」
家督は彼女が継ぐことになる。それを維持できるか、食われるかは彼女次第だ。
同時に、ヴァネッサもまた、見極めなければならない。禍根を残す種となるなら、監視のできる夫を据えなければならないだろう。
思案に沈む主を前に、セラは微かに眉根を寄せた。
国家反逆を企てた家の者として連座されるか、残された唯一の血縁として領を預けられるか、その差は大きい。だが、それを本人が知らぬままでは、恨みを買うのはヴァネッサなのだ。
夜風を受けて目を細めるヴァネッサの美しい顔には、いつも笑顔しか乗らない。だがその奥には、常に戦い続ける者の孤独があることを、長く侍るセラは知っている。
「真実を知らさねば、お嬢様が恨まれます」
「そうね……でも人は、自分の信じたい物だけを信じるものよ。傷ついた時には特にね。わたくしの言葉は耳に入らないどころか、きっと彼女を余計頑なにしてしまう。恨まれるのは覚悟の上よ。でもそれも、あなたが守ってくれるでしょう?」
「御意に」
しばらく無言で進んだ馬車は、やがて公爵領に入った。
整地された地面、等間隔に配されたランタン、そのほのかな明かりに照らされる、豊かな水をたたえた水路。それらを彩る青々と茂る緑は、遠く王都まで道を伸ばしつつある。
クロエの知識がいかされた美しい土地は、人々の暮らしを大きく変えた。
「もしも妹君が、真実を見つけたら……そしてもし……」
「恩義を感じた彼女が、わたくしを訪ねてきたら――出会った頃の、あなたのように?」
そう問われて、普段は無表情なセラが、微かにはにかみの表情を見せる。
「はい」
「そうね、その時は貴女に預けましょう」
あなたならきっと、優秀な人材に育ててくれるでしょう?
微笑むヴァネッサに、セラは護衛士の礼を取って答えた。
けれどヴァネッサは知っている。『もしも彼女が真実を見つけたら』と、セラはそう言ったが、きっと気づかれずしてそうなるように、彼女自身が仕向けるだろう。
「――いつもありがとう、セラ。貴女がいてくれるから、わたくしは進んで行ける」
「……勿体なき、お言葉」
腹心の部下の、うるみを含む鼻声には気づかないふりをして、ヴァネッサは小窓を閉じた。
両手を組み、一息つく。
波瀾含みの一日だったが、事は概ね思い通りに進んでいる。とはいえ、クロエの囲い込みには若干再考の余地があるだろう。他人の恋路は難しいけれど、あの手の情に厚い娘は婚姻で結びつきを強めるのが一番だ。そろそろこれぞと思う男性を見つくろい、彼女の近くに配すのにいい頃合いかもしれない。彼女の才能に嫉妬せず、支えることを生きがいに思うことができ、かつある分野では切磋琢磨もできる、頭のいい者。手先が器用で、料理ができるなら尚良い。彼女の胃袋を掴むのは、きっと効果的なはずだ。
もちろんヴァネッサとて、人の気持ちをどうこうできるとは思っていない。ただ、できるだけのことをして見守るだけだ。恋に落ちてくれれば重畳。そうならない時には、また別の手を打てばいい。
「厚い友情、美味しい食べ物、豊かな村に優しい男――わたくしが用意できるものは、なんだって揃えて差し上げます……だからクロエ、いつまでもわたくしの側に――」
世界各地の宗教思想にある、輪廻転生。
クロエはそれだと、ヴァネッサは確信していた。彼女の知恵はありがたいが、世の中が変わりすぎるのもまた都合が悪い。
彼女にはなるべく衝撃を与えず、深く考えさせることなくぬるま湯の中で過ごしてもらうのが一番なのだ。
大事な手駒が、不必要な正義感に覚醒することのないよう、ヴァネッサは次の一手を打ち続ける。
明日も、明後日も、ずっと――。
まつ毛の影が色濃く落ちる白い頬に、ほんのりと朱が差す。うっとりと艶やかな唇が弧を描き、ヴァネッサは可憐に微笑んだ。
END.
会場:
どーもー。
本日一番仕事した、王立学園のパーティー会場でーす。
いやあ、もう第二王子ったらいきなり始めちゃうもんだから、びっくりしちゃいましたー。。
せっかく最初はきらびやかだったのに、一転して凍り付いたり固唾を飲んで見守ったり、いろいろやらされちゃうしー。会場ってこんな忙しいっけ普通?って思いましたもんー。
せっかくほっとしたと思ったら、豹疑惑で再び緊張させられちゃうしー。
あー疲れたー。
ヴァネッサ:
申し訳申し訳ございません。
作者が初めての短編を書くにあたり、諸々の要素をそぎ落とせば短い物語になるんじゃないかと安易に考えたのが原因ですわ。
会場:
あーそれでー。
それで会場にいらっしゃる皆さんを代表してアタシがいろいろさせられちゃったんだー?
いやもうほんっと勘弁してよー。
第二王子:
俺なんか……俺なんか名前も出てないのに……。
元々はまともな王子として登場する予定だったのに、話進まないからって結局馬鹿っぽくされた挙句、名無しなんだからな……。あーあ、俺、名前なんだったんだろ……。
ヴァネッサ:
まあ、それは申し訳ございません。
トリスタン・リオ・アランブール第二王子殿下、ですわ。
第二王子:
なっ! 出てきてないのに、なぜ知ってる!?
ヴァネッサ:
うふふ、それはですね――セラ!
セラ:
はっ。
アランブール王国の第二王子、トリスタン・リオ・アランブール。御年16歳。
趣味は乗馬と公表しているが、実際は焼き魚の目玉から取り出した水晶体集め。
好きな物は剣の手入れをする時間と公表しているが、実際はお風呂で歌うこと。
悩み事は右臀部の蒙古斑(あんず大)がまだ取れないこと。まだありますが続けますか?
第二王子:
やめろぉぉぉおぉ!
おしまい♪