おいぼれウェントゥス
とある街の教会の屋根の上に、ウェントゥスと言う名の古ぼけた風見鶏がありました。
錆が浮き、新品だった頃のように滑らかにくるくると回ることはできません。キィキィいいながらぎこちなく回り、その上ちゃんと風上を見ていないことだってあるのです。
だから街の人々は「おいぼれウェントゥス」と呼んで笑いましたし、神父もそろそろ新しい風見鶏を調達しなくてはいけないと考えていました。
でもウェントゥスは気にしませんでした。老いてはいても、誰より高い屋根の上から威風堂々街を見守っていることは彼の誇りだったのですから。
「調子はどうだい、ウェントゥス」
ウェントゥス自慢の尾羽根を押してくるりと方向を変えさせたのは、コルという名の少年です。
みんなはウェントゥスがキィキィ軋みながら回ると顔をしかめるか笑うのですが、コルだけは鳴き声のようだと言って話しかけてくれるのでした。
だから今もキィと軋んだ音が返事に聞こえたのでしょう、コルは目を細めてウェントゥスの足下に油を差しました。
「これで少しは回りやすくなっただろう?」
ちょうど穏やかな風が吹いて、ウェントゥスはくるりと風上に向き直りました。
油を差してもらったおかげで動きはいくぶん滑らかになり、軋む音も小さくなっています。コルはそれに目を細めて、ウェントゥスと同じように風上を見つめました。
毎日屋根まで登ってきては、油を差したり拭き上げたりして、それからウェントゥスと一緒に屋根の上から街を見守るのがコルの日課なのです。
なぜそんなことをするのかって?
実はウェントゥスは壊れているから風上を見ないわけではないのです。向かい風のほかに探してしまうものがあるのです。
転んで泣いているこども、大きな荷物を運ぶ老人や妊婦。なくしたものを探す人――。
向かい風を探す仕事がとても大事なことはもちろん知っていましたし、若い頃はその仕事に勤勉に打ち込んできました。けれど、老いていくにつれ、だんだんそういった人から目を離すことができなくなっていったのです。
ウェントゥスは見ていることしかできませんが、それでも誰かがその方向を向いてくれたらと願って見つめ続けました。
そんなある日、ウェントゥスの手入れをしにきたコルが、泣いている子供に気づいて慰めに行きました。老人にも妊婦にも気づいて手伝いに行き、さがしものを手伝いました。そんなことが続いて、コルは気づいたのです。ウェントゥスは向かい風ではなく困っている人を見つめているのだと。
街の人々は信じてくれませんでしたが、コルは心優しいウェントゥスがますます好きになりました。見つめることしかできなかったウェントゥスも、コルが手を貸してくれることが嬉しくてたまりませんでした。
だから少年と風見鶏は来る日も来る日も屋根の上から街を見守っているのです。
けれどどうやら今日は誰も困ってはいないようで、穏やかな時間が流れて日が暮れようとしていました。
「……お前は知ってるんだろう? ボクの母さんを」
夕焼けを見つめながら、コルは呟きました。
コルは赤子の頃にこの教会の前に捨てられていたのです。その頃ウェントゥスはもうこの屋根の上にいましたから、ちゃんと見ていました。何度も何度も「ごめんね」「かならず迎えにくるから」と呟きながら赤子を置いていった母親の啜り泣きは、忘れられるものではありませんでした。
「どこにいるのかなぁ」
そう言って街を眺めるコルは、ウェントゥスに寄り添いました。ウェントゥスはただ寄り添われるままじっとしていることしかできません。
キィと軋みながらウェントゥスは向きを変え、教会の前の通りを見つめました。そこには見慣れない女の人がきょろきょろとあたりを見回しながら歩いていました。
コルはすぐに屋根を降りて女性に声をかけました。
「なにかさがしものですか?」
女の人はコルを見るとさっと口元を覆い、そして「大丈夫です」と答えると走って行ってしまいました。コルは首を傾げながら屋根の上に戻ってきましたが、ウェントゥスはずっと、走り去った女の人の後ろ姿を見つめていました。
「あの人、このへんでなにかなくしたのかな。教えてくれれば一緒に探すの手伝うんだけどなぁ」
一緒にその背中を見つけたコルが呟いても、ウェントゥスはキィと音を鳴らすことしかできません。その寂しげな音色は、心が悲鳴を上げているようでした。
次の日もまた、その女の人は教会の前の通りにやってきました。
コルがもう一度話しかけましたが、女の人は緩く首を振るだけでまた立ち去ろうとします。
その時、風が吹きました。
そんなに強い風ではありませんでしたが、ウェントゥスはくるくるっと勢いよく回りました。全身全霊を込めて、くるくるくるくると力強く回り続け――ついにはパキッと音を立てて折れてしまったのです。
ウェントゥスは空を舞いました。
鉄の羽根で、精一杯に。
「わっ!」
「コル!」
そして、コルの腕にぶつかりました。
すると立ち去ろうとしていた女の人が走って戻ってきました。
「コル、コル! ケガはない!?」
ウェントゥスはちょっとぶつかっただけですから、コルにケガはありませんでした。ただ、ぽかんとして女の人を見上げました。
「……どうして、ボクの名前を知ってるの?」
女の人はぱっと口を覆いましたがコルと目が合うと、わっと泣き崩れました。
「ごめんね、ごめんね――」
赤子だったコルにかけていたのと同じ声、同じ言葉を、ウェントゥスは地べたに転がって聞いたのでした。
* * *
くるくる くるくる
教会の屋根の上では新しい風見鶏が意気揚々と向かい風を探して回っています。
ウェントゥスはどうなったのかって?
それはね、、、
「ウェントゥス、今日はすっごく大変だったんだよ。迷子を家に送り届けて、いなくなった猫を探して、それからそれから……」
「コル、ウェントゥスには夕飯を食べてからゆっくりお話してあげて」
暖炉の上に飾られて、仲の良い親子を見守りながら余生を過ごしているのですって。
《fin.》