第二章:小雨
先生の説教は夕立のように、短く、激しいものであった。
下駄箱には、数人の居残り勉強組と補習組の靴しか残っていなかった。もっとも、いつも静かな春弥には、一緒に帰る人など居ないのだが。
靴に履き替え、昇降口をくぐる。
外は、まだ雨が降っていた。細かい、しかし霧のような物でもない。春弥は、手に持っていた折り畳み傘を開き、校舎から外に出る。
途端に傘は、ぱらぱらと小気味の良い音を奏でた。
雨に冷まされた夏の空気が、春弥の肌を冷やす。これもまた心地よかった。今日はテスト勉強なんかやめて、この空気に触れながら、静かな雨音を聞いてのんびりしたい、そんなうわ言が頭に浮かんだ。
ふと、視界に妙な物が映った。少し先にある電柱に何かがもたれかかっている。
「人?」
目を凝らして見ると、それは真っ白なワンピース姿の女の子であった。
同級生だろうか?写真部の撮影か何かだろうか?
この状況下には相応しくないからか、気づいた時には、立ち止まって見つめてしまっていた。
春弥は慌てて歩き始め、彼女の前を通り過ぎる。緊張しているのか、ぎこちない歩き方になっているのは本人もひしひしと感じていた。
そのワンピース姿は、春弥の視界の端でゆっくりとこちらを見つめ返し、そして微笑んだ。
視線を奪われた。
その瞳は実に美しかった、まるで雨粒のような輝きを放っている。髪も、霧雨の様に細く、流れるような美しい髪だった。
すぐさま目線をそらした。
なんだか恥ずかしい気持ちになり、春弥は早足でその場から立ち去った。
「誰だったのかな…」
春弥は彼女の顔を何度も思い出し、しかしその度に首を傾げた。
次の日。今日もあいにくの雨、そうテレビは表現していた。
雨好きな春弥にとっては、昨日の授業の事もありどっちつかずの気持ちであった。
「ねぇ~、ちょっと氷川君?」
昼休み。弁当も食べ終わり、雨の降る世界を眺めていた時、突然気怠い声が春弥を呼んだ。
「今暇どうせでしょ?うちらちょっと忙しいからさぁ~、数学のプリント職員室前から持って来てくれん?」
クラスの女子のいわゆる一群グループが、自分の係仕事を、相変わらずの生意気な態度で押し付けた。
あいつらは、おしゃべりで忙しいらしい。春弥は何も言わず席を立ち、職員室に向かった。
階段を降り、一階の渡りを通り過ぎようとした時、そこでも目に留まったものがあった。
あの白ワンピースの少女だった、しかし今は背中を向けてしまっている。
雨が降っているのに、いつまでも電柱にもたれかかっている。寒くないだろうか、風邪はひいてしまわないだろうか。
本来は、他にもっと疑うべき事があるはずだ。だが春弥は、それに違和感を全く感じなかった。まるで雨の様に、いつまでも眺めていたい、そんな安心感が心にこもっていた。
「おう!どうした春弥」
向かい側から担任の先生が授業の用意を持って歩いてきた。
先生は春弥の見つめる先を凝視したが、すぐにこちらを見て「春弥?」と再び問いてきた。
ふと我に返った春弥は、「あ、いえ、何でもないです」と、急いでプリントを取りに行った。
先生は、なぜ彼女に気付かなかったのだろうか。
午後からは、時に雨音に癒され、時にグループワークで緊張しつつも、無事に放課後を迎えた。もっとも、それが本来あるべき姿なのだが。
昇降口に出ても、やはりまだ雨は降っていた。連日の雨のせいか、今日は少し肌寒い気がする。
友達を待つ人ごみを上手く避けて自転車置き場に戻ろうとする。雨は少し強いだろうか、傘を叩く音が大きく聞こえた。テストも近い、春弥は足早に家へ向かおうとした。しかし、ここでも白い彼女が目に入ったのであった。
少し強まった雨の中、数時間前と同じ場所で、彼女も独りで、立っている。濡れる事のない髪を、僅かな風に揺らせながら、ただ上を眺めていた。
春弥がしばらく見つめていると、彼女はゆっくりこちらに顔を向けた。
目が合う前に視線をそらし、春弥はこの日も、その場から早足で立ち去ってしまった。
真っ白な彼女はいったい何者なのか。頭の中を駆け巡る、ありとあらゆる想像。しかしそれらは現実世界ではありえない物ばかりだ。考えれば考えるほど分からなくなり、頭がおかしくなる。ただ、あのまぶしい笑顔や、雨に濡れない髪を見る限り、この世の者ではないように思える。
しかし、春弥の中では、その奇妙さが何故か引っかからなかった。安心感だけでなく、好意すら覚えた。
春弥は自分で、その感覚の答えを導いた。
「そうか、彼女は雨に似ている…」
翌朝、春弥は目を覚ますとすぐベッドから飛び起き、窓の外を確認した。雨音が聞こえなかったのだ。雨は止んでしまっていた。
素早くスマホで今日の今後の天気を調べる。
「よかったぁ…」
午後からまた雨が降るようだ。春弥は安堵の息を付いた。
春弥は、雨のような彼女にすっかり心を奪われてしまったのだ。
学校が終わり、いつも通り荷物をまとめ、帰ろうとした。
「いや、もう少し待とう…」
春弥は席に座り、おもむろに筆記用具と数学のプリントを取り出した。
今日は風が無い。小粒の雨は、窓の外すぐにある三日分の水たまりに、きれいな円を描きながら消えていく。
昇降口の人混みが消えるのを待ち、頃合を見た春弥は荷物をまとめ、教室をあとにした。
春弥は二つの傘を握りしめ、深呼吸をして外に出る。
自分の折り畳み傘を開き、辺りを見回す。やはりあの白い彼女以外、誰もいなかった、もう皆帰ったようだ。
春弥は再び彼女を見つめる。風は無く、髪はなびかない。
あちらも春弥に気付き、ゆっくりと振り返る。春弥は逃げずに、勇気を振り絞って彼女のへ近づいて行った。そして、手の震えを抑え、もう一つの傘を彼女に差し出した。
彼女は、透き通るような眼を見開き驚いた様子を見せたが、すぐにほほ笑んだ。
「なぁんだ、やっぱり見えてたんだ」
彼女が喋った。今度は春弥が驚いた。
彼女の声は、その容姿にそぐう透き通った美しい声だった。春弥は、女子と面と向かって会話するなんて事はここ数か月なかった。二人きりというこの状況ではなおさら緊張した。
「そんな、緊張する事無いでしょ?」
笑いながら、半ば呆れたような口調で彼女は淡々と話していた。
「う、うん…」
春弥はうつむきながら話していた。彼女の目を見れないのだ、彼の中の何かがそうさせているらしい。
「ほら、ちゃんと目を見て。会話の基本よ?」
「でも…」と更にうつむいてしまう春弥に、彼女は優しく言った。
「ほら、ちゃんと自信をもって。キミには勇気があるじゃない。見ず知らずの…ちょっと不気味な私なんかに、傘を渡してくれたんだもん。まあ、ホントはわたしには傘は必要なかったんだけどね」
白い彼女は、えへへ、と目を細めて笑った。
「まあとにかく!嬉しかったわ。ありがとう」
春弥は、突然の会話やら言葉やらで、なんだか訳が分からなくなり、両手で顔を覆ってしまった。自慢のポーカーフェイスは、彼女の前では無力であった。
すぐに僅かな風を感じ、春弥はとっさに顔を上げた。
しかし、そこにはもう彼女は居なかった。
もう会えないのだろうか、そんな謎の不安が彼の中を駆け巡った。