いつか必ず変わらぬ言葉を
氷龍アルストンは苦悶の唸りを上げた。
嘗て龍斬と呼ばれた大剣は、使わなくなって二十余年の歳月が過ぎてなおその切れ味を誇っていた。
大剣の持ち主、リューグ・リスリルは片膝を突く。自力で立っていられる力はもう残っていなかった。
アキラ達は無事に魔王の元に辿り着いただろうか。
ここは預かる、後から追い付くと言ったが、流石に追い付けそうになかった。
新入りどもが魔王を倒すなんて言った時は眉唾もんだったし、それにこんな酒場の親父を引っ張りだすって言い張った時はもっと嘲笑ったもんだが、ちったあ役に立っただろう。
この大仕事が終わったら、王宮からたんまりと報奨金が出る。
何に使おうか。
諸国から珍しい香辛料を取り寄せて、ユキヒロの言ってたカレエライスとやらを研究してみようか。
カズトの言っていたラア麺というものに挑戦してもいいだろうが、こちらはどういった物なのかイマイチ解らない。パピルスを取り寄せてユキヒロに描いてもらったほうがいいかもしれない。
今度こそ、あいつらが満足するような、酒場の空気でなく、旨いと思える飯を用意しなけりゃ、酒場の店主としての名が廃る。
ああ、ここんとこご無沙汰だったが、名物料理もまた仕込まないといけない。うちの荒くれもんどもはツケばかりの癖にいつも手のかかるあれを食いたがる。
――――ああ、分かっている。
これが走馬灯だということくらい、分かっている。
翼のはためく音がする。
氷龍に穿かれた腹から止めどなく流れる生暖かい液体が、足元に水たまりを作っている。
仕留め損ねたが、致命傷は与えたはずだ。
龍は賢い。しばらくは傷が癒えるのを待つだろう。あいつらが魔王を討伐する間くらいは、この近くを離れていてくれるはずだ。
帰らねば、ならない。
どれほど辛くとも。
どれほど苦しくとも。
どれほど絶望的だろうとも。
そうして、送り出したあいつらを、いつもの様に出迎えなければならない。
それが
それが、冒険者酒場の店主としての・・・・・・――――
* * *
柔らかい布に包まれる。
春の丘のような温かさの中で、覚醒しては微睡み、微睡んでは覚醒する。
動きたい欲求と、眠りたい欲求が同時に体を駆け抜けて、よくわからなくなって泣き、疲れ果てて眠った。
俺は、死ななかったのだろうか。
しかし声もろくに発せず、感情も制御出来ずにすぐに泣くこの状態は、まともに生きているとは思えなかった。
誰かが話しかけている。
この声を聞くといつも安心して、変な笑い声を上げてしまう。
自分はどうなったのだろうか。
少しでも長く考えようとするとすぐに疲れて、その感情が表面に発露してぎゃんぎゃんと自分にも騒がしい声を上げてしまう。
疲れてまた微睡む。
柔らかく温かな布がまた体を包んだ。
* * *
五年の歳月が過ぎた。
驚いたことに、俺は赤子に生まれ変わっていた。
まずこのことに気がつくのに一年の歳月を要した。
てっきり死にかけたショックで気が触れて赤子のような言動しかできぬ狂人に成り果てたのだとばかり思っていたが、れっきとした誰から見ても赤子になっていた。
そして更に驚くべきことに、ここは俺のいたグリンブル大陸ではなかった。
というか、おそらくだが、俺のいた世界ではなかった。
まず、これも推定だが、魔法というものが存在しない。
父に「魔法ってどうやって使うの?」と聞いた時、「うーん、お父さんは使えないからなぁ」と言われた。
あの返し方には覚えがある。
前世の子供の頃に親におとぎ話の龍騎兵になるにはどうしたらいいかと聞いた時、「まずは体を鍛えることだろうけど、お父さんは見たことがないからかなぁ」とやんわりぼんやり返されたあの返しだ。
子供に存在しないという現実をつきつけるべきか悩み、とりあえず当り障りのない嘘にならない程度の言葉を返しておこうという、あの反応だ。
三歳の頃に日中は幼稚舎に預けられるようになりそこで色々と観察をしたが、魔法、少なくとも俺の知る魔法を使う人間は一人もいなかった。
魔物も魔獣も存在せず、魔力を強く秘めるエルフのような亜人もいないようだった。
代わりにカガクなるものが発展していた。
電気というエネルギーで様々なからくりを動かし、それにより生活を成り立たせていた。
超長距離通信を時間差なしで可能にする通信技術。
文字ではなく映像や音声を記録し、それを更に世界中に発信する情報伝達設備。
衛生的な水を無限に生成する浄水設備と、その水をボタンひとつで好きなだけ汲み上げることのできる水道装置。
馬よりも速い小型の車に、同じ速度で動ける超大人数用車両。
どれ一つとっても、グリンブル大陸に在れば国家を揺るがす大魔術設備が、たかが小売店の勤め人である小市民程度の家庭にもほぼ必ずあり、あるいは非常に低価格で利用できた。
おそらくここは、
アキラ、ユキヒロ、カズト。
巷で勇者と呼ばれていた、あの新米冒険者達のいた世界なのだろう。
ある日母が今日の夕飯はカレーよと言った日の驚きは、今も鮮明に覚えている。
大量の香辛料がふんだんに使われたルウという塊を鍋に溶かすだけで、それは完成した。
匂いから相当な辛さを覚悟していた俺は、その甘さに目を見開いた。
香辛料の突き抜けるような香りが白米と共に体に流れ込んでくる。本来は辛いのであろう味は、果実とおそらく蜂蜜がすべてを丸め取り、驚くほどのコクと深みを出していた。
白米を海の外の言葉でライスと呼ぶと知り、疑念は確信に変わった。
いつも思慮深く我慢強いユキヒロがどうしても、どうしても食べたいと言った味は、これだったのだ。
* * *
さらに十年の月日が流れた。
この国では貴族でなくとも六つになると学校に行き、最低でも九年間読み書きと算術、歴史に科学の基礎を習う。
というか、貴族という制度がなかった。
テレビで見る政治家は、血筋のあるものもいるが、大半は一般市民らしかった。
料理も裁縫も絵も音楽でさえもひとしきり習い、武術とは異なるスポーツという人工競技を知った。
俺はというと、どっぷりと料理の世界に嵌った。
純度の高い砂糖や塩、見たことのない香辛料、計算されつくされた比率で調合された調味料、料理ごとに合わせて調整栽培された食材、苦味を中和する方法、エグみを消す手段、臭みを抜く技法。
全てが中学生の手に届く値段で手に入った。
こと食に関するもので、この国で手に入らないものは無いと言ってよかった。
この頃になってようやく知ったが、母は料理があまり上手くない。
はっきり言って食えればいい派だった。
それまで母は料理がとても上手だとばかり思っていただけに、この事に気づいた時は衝撃的だった。
そんな母が大雑把に切ってレシピ通りに調味料を垂らしただけで、二十年培った酒場店主としての腕を軽く超えてしまうのが、この世界の料理事情だった。
そりゃあ、アキラもいつも不味そうに飯をつついていたわけだ。
あいつらが旨そうに食っているところなど、見たことがなかった。
* * *
更に五年が経った。
公立高校を卒業した俺は、四年制大学ではなく調理師学校に進学した。
今までは同年のクラスメイトしかいなかったが、この学校には三十を超えた人間も複数いた。
レストランで働いてから独立のための資格を取りに学校に通うというのは、比較的よくある話のようだ。
俺はラーメンに凝っていた。
巷では超こってり超大盛りラーメンが流行っていたが、俺はひたすらあっさりした飲み口の塩を極めていた。
じっくりとった出汁を塩で整え、慎重に数粒化学調味料を混ぜる。
圧力鍋で豚肉のブロックを煮込み、味付き卵は丁度黄身がとろりとする時間を見極める。
カズトががっつきたいと騒いでいた味に、少しずつ近づいているような気がしていた。
* * *
八年の時間が過ぎた。
もう三十も間際という頃、世話になっていた食堂を辞して独立した。
様々な幸運と多くの人の助けを得て、首都のやや郊外、仕事場というよりは乗り継ぎ駅として有名な駅から徒歩三分という比較的好立地に店を構えることができた。
料理一筋できた体は精悍というには遠く、鏡で見る自分はかつての荒くれどもをまとめた強面親父とはさっぱり一致しなかった。
しかし、歯を出してにかっと笑う時、ああきっと自分はあの頃のような顔をしているな、とふと思う。
店の装飾は、西部劇風の内装にした。
俺のいる場所はここだと、そう信じきれる造りになった。
店名を告げると多くの人が頭にハテナを浮かべたような顔になったが、何も問題はない。俺の店の名はこれしかない。
知人のツテでホームページを開設し、大手飲食店レビューサイトにもページを作る。
どちらにも、紹介文の最後に、正気とは思えない一文をきっちり載せ、店は回り始めた。
* * * * * * *
山口幸宏の背中には、いつついたのか親にもわからない傷跡がある。
初めて出会った幻獣にざっくりと切り取られたこの背中の大傷がなければ、あの日々はゲーム好きだった頃の幻想だと片付けてしまっただろう。
仲間三人と異世界へ飛んだ日々。
多くの人と出会い、冒険をし、レベルを上げ、事件に巻き込まれ、巻き込みながら。
人生で最も輝いていたと断言できる、眩い思い出たち。
助けられた生命があり、助けられなかった生命があった。
守れた約束があり、守れなかった約束があった。
特に仲の良かった、最後の最後に助力を頼んで、そのせいで命を落とした酒場の店主には、詫ても詫きれない。
神様とやらの力で現代に戻ってくると、向こうへ飛んだ時間から数分しか経っておらず、手に入れた力はすっかりなくなっており、新米冒険者を表す青いペンダントだけが俺たち三人の首にぶら下がっていた。
神様とやらの音信はその後まったくなく、向こうの様子を知るすべもないまま、俺達は大人になった。
スマホがメッセージの着信を鳴らす。
彰から、土曜の夜空いているかという確認だった。
「空いてるけど、どうしたんだ……っと」
『絶対に空けとけ。東京の飯屋に行くぞ。十六時にいつものところ集合な。リーダー命令だ』
リーダー命令とは、随分と懐かしい言葉を聞いた。
あちらでは彰がリーダーだったから、よく無茶振りをするときにこの言い回しをしていたんだっけ。
了解と一言送り、俺は土曜の休日出勤を是が非でも無くすために仕事に打ち込んだ。
* *
いつもの場所と言ったら出身中学の裏門だと決まっている。
十六時の五分前には三人ともしっかり揃っていた。
彰は戻ってきてからぐっと背が伸び、あの時は三人の中では一番チビだったのに今では百八十センチを超えて一番高い。
もともとの人好きのする顔立ちにほんの少し影が差し、大学ではサークルの姫ならぬ王子みたいになってしまっていると同じ大学に行っている知り合いから聞いた。
先月会った時は単位がやばいと言っていたが、どうなったのだろうか。
和人は戻ってきてから筋トレが趣味になり、更に剣道も始めた。
実戦仕込みの剣筋は癖が強く最初はかなり苦労していたようだが、先日何段だったかの昇段試験に受かったはずだ。
整った顔立ちと誠実な性格なのだが、実直で硬派すぎるせいか、女っ気のある話は聞いたことがない。
この三人で集まるときは、いつも三人とも首に青いペンダントを下げている。
二十歳を過ぎいい大人になった今でも、三人とも変わらずつけていた。
「で、何処に行くんだ?」
電車の中で和人が尋ねる。俺もまだ飯屋としか聞いていなかった。
彰は無言でスマホを差し出す。大手飲食店レビューサイトのアプリだった。
「えーと、当店の名物料理名をピタリと当てたお客様先着三名様、飲食費終身無料? なんだこ……れ……」
一瞬目が悪くなったのかと思った。飲食費無料の下りではない。その店名に対してである。
「おい彰、これ」
和人も言葉を失っている。
「ここだ、降りるぞ」
そっけなく言って電車を降りる彰を、二人で早足で追いかける。
何か言えよと思ったが、彰の顔も強張っているのが見て取れた。
駅の比較的すぐ近く、大通りから一本外れた場所にあるその店は、初見でもすぐ見つかった。
見紛うはずもない。全く同じ作りの木彫看板だったのだから。
黄金龍の鱗亭
外の張り紙にも、先ほど見たのと同じ文句が書かれていた。
時刻は十七時を五分ほど回ったところだろうか。十七時開店の店内はまだ客がいなかった。
「いらっしゃいませー。お好きなお席へどうぞ!」
大学生くらいの青年が威勢のいい声をかけてくる。
「悪いが店主を呼んでくれるか」
バイト風の彼は、はあと疑問形の返事をして、裏へ引っ込んだ。
代わりに出てきたのは三十代くらいの中肉中背、黒髪でいかにも日本人顔の男だった。
「何だい?」
「一角三ツ目ウサギのハバリアソース煮込みを頼む。付け合せはアルドリ雑穀のパンで」
彰が用意していたらしい言葉を一気に投げかける。
店主はニイと口元を釣り上げ、満足そうに頷いて、
「おいバイト! 看板下げてこい! 今日は店仕舞いだ!」
張り上げられた声に、裏に引いていたバイトが飛び出してくる。
顔にはえ、本当にいいんすか、と書いてある。気がする。
おどおどと動かないバイトを顎で急かし、店主はこちらに向き直った。
彼はいつものように白い歯をむいて、屈託なく笑う。
そしていつものように言ったのだ。
「遅かったじゃねえか新入りども。
冒険は、終わったかい?」
本当はなろう掲載だけだったはずなのに作品数が足りないという理由で会誌に引っ張りだされました。
おかげで一ヶ月も掲載が引き伸ばされました。ちくせう。