新しい恋人
秋葉はテーブル越しに修平と向き合い次の言葉を探している。今日仕事帰りに待ち合わせたのは彼と別れるためである。そして二人がいるのはいつものレストランではなく駅構内のカフェだ。
すでに修平は意気消沈した表情でさっきからグラスの水を何度も口へ運んでいる。
「きっと別れた方がお互いのためよ」
「でも……」
口ごもって修平は黙ってしまった。いつもそうなのだ。
紅茶を飲んでこほんと咳払いをしてから、修平をまっすぐに見る。
「ね。別れよう」
「秋ちゃん、それはさ……」
そこでまた修平は黙ってしまう。
「だから。修平だって、文句ばかり言ってる私なんてイヤでしょう? 会っていたって面白くないでしょう?」
「い。いや……。僕は、秋ちゃんと一緒にいられるだけで……。その、直すよ。秋ちゃんが嫌だっていうところは」
「直るの? 直らないでしょ」
「そんなことは……。僕にどうしてほしいのか、い、言ってくれれば」
「もう言ったでしょ。いつも言ってるでしょ。どうして何も言ってくれないのって」
「い。いやあ」
「何も言ってくれないじゃない。修平、何を考えているのかさっぱりわかんないんだもん。でももういいの。もう別れるんだから」
ずさっと席を立って秋葉はテーブルに両手をついた。
「もう帰る」
「秋ちゃん……」
何か言いたげな真剣な表情だ。
「今後一切、メールも電話もだめ。してこないで」
「え」
秋葉を見上げて修平が固まっている。
「ああもう。いい? 絶対に連絡してこないで。さよならっ」
秋葉は店を出ていった。
修平と別れた後、電車に揺られて秋葉は窓を眺めている。
思えば修平と付き合うようになったのは、あの無口なところに惹かれたからだった。朴訥として控えめで穏やかで。いつだってひたすら優しい修平――。
思い出しながら秋葉の胸には切ないような苦しい気持ちがこみあげてくる。
それまで付き合っていたのがおしゃべりな男だったからだろうか。その反動だったのか。
言葉を投げかければ即座に反応して返してくる、ドライブ中も食事中も一晩中でもピンポンのように互いの会話の途切れることがない、そんな男とずっと付き合ってきた。
しかしその男はお喋りを上回って軽薄な性分だった。交際中は刺激には充ち満ちた日々であったが、秋葉の心は疲れ切ってしまっていた。
男なんてもう懲り懲りだとすっかり恋愛断ちしていた時期に出会ったのが修平である。
いつもひっそりと傍にいて相槌を打つだけの修平が、当時、秋葉の目にはとてつもなく新鮮に映った。修平は秋葉を否定することも揶揄してくることもなかった。
前の男との違いがあまりにも鮮明でこんなにも何も言わない男がこの世に存在するのかと驚いた。
修平から交際を申し込まれたときには一晩悩んだものの、こんなに良い人なのだからと承諾した。
だがそれは誠実とは違ってそう見えただけで、単に人見知りで内気な性格だったということなのだろう。
彼の内側にはたくさんの言葉が詰まっていて渦巻いているのに、それを決して出してこようとはしない。だから無口なのだともいえる。
なにゆえ出さないのか。そこのところが秋葉には分からない。
一緒にいれば落ちつくし安心できるがひたすら退屈で刺激がない。そういう修平に秋葉が飽きてしまうのは時間の問題だったのかもしれない。
つらつらと考えているうちに電車は最寄りの駅に着いた。
駅舎を出た秋葉はしばらく歩いて自宅近くの交差点に差し掛かった。
赤信号だった。
横断歩道の手前で立ち止まる。
青信号を待つ間と思い、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。着信ランプが緑色に光っている。親しい同僚からのメールだ。簡単な返信を片手で打って送る。
信号が青に変わったのでスマートフォンを仕舞おうとしたとき、胃の辺りにきしきしと鋭い痛みあった。
一瞬体がふらつきそうになる。
秋葉はみぞおちを押さえてじっと動かないでいた。だが痛みは治まるどころか増してくる。
堪えきれず秋葉は道路にうずくまった。
真っ白い天井。
病室のさっぱりと白い天井を見つめながら秋葉は小学校の保健室を思い出している。小学三年生ごろだっただろうか。熱でぼうっとしていたせいか天井の茶色い染みがだんだんと何か別のものに見えてきたものだった。
雲。船。人。あれはなんだろうと天井の模様を思いながら彼女の心は保健室から遠く離れてどこかの砂浜にいる。寄せる波のざぱあんざぱあんという音が背中の向こうからBGMのように繰り返し聞こえてくる。ゆるい風が吹いてきて彼女を撫でていく。
見上げればあっちを見てもこっちを見ても青い空しかない。息を吸い込んで潮の香りを味わう。やたらと懐かしい気持ちが込み上げてくる。
やがて夢から醒めたとき――。この薄暗い保健室のほうが嘘で、たった独りで立っていたあのまばゆい海のほうこそが本物だという気がしてくるのだった。
病室のドアをスライドする音がした。
首をそっと動かす。年輩の看護師がベッドに近づいてくるのが見えた。
「どうですか。もう痛みはないですか」
「はい」
点滴の輸液量を調節しはじめた看護師を秋葉は見上げる。
「あのう……」
「なんでしょう?」
「……今日サインした書類にまずは入院一週間って書かれていたんですけど」
救急車で運ばれたあと胃カメラ等の検査を受けた。それからストレッチャーで病室のベッドへやってきた。
このとき家族の付き添いがないため秋葉は自分で治療同意書などの書類に署名した。その書類の治療期間の欄に『まずは七日間』と書かれていて驚いてしまった。
二、三日で退院できると思っていたからだ。
「ええ。患者さんの状態によるんですよ。一週間で退院できる方もいらっしゃいますしどうしても色々と検査なんかで延びて結局二週間入院してたという方もおられますし」
「延びてしまう場合もあるんですか」
がっくりと肩を落とした秋葉に看護師は作業していた手を止めている。
「そうですね。佐野さんは患部の場所がちょっとめずらしいので……まずは一週間というところでしょうね」
「そうですか……」
「それから最初の三日間は絶食ですから」
「あ。今晩だけじゃないんだ」
「ええ。これも三日といってもねえ。さらに延びて五日間という方もおられますしね。患者さんによっていろいろです」
すぐさま最悪のパターンを想定して秋葉は憂鬱になってきた。
「先生から説明は受けられました?」
「夕方に。胃潰瘍ってことと即入院ですからって。あと検査結果のこととかですね……」
「そう。他になにか訊きたいことはありますか」
「いえ」
「じゃあ何かあったらナースコール押してくださいね」
看護師が出ていったあと、秋葉は枕元に置いていたスマートフォンを握った。
緑色の着信ランプがついている。
確認すると友人からのメールだった。返信で入院したことを伝える。ついでに明朝すぐに送れるよう会社の同僚宛てのメールを今のうちに作成して下書き保存しておいた。
急にぐったりと疲れを感じて携帯を置き、目を閉じる。
うつらうつらしていると消灯の時間ですと看護師がやってきて電気を消していった。そのまま秋葉は眠りに引きこまれていった。
痛みで目が覚めた。
手で胃のあたりを押さえ呼吸を整える。しばらく経っても治まらなくてナースコールを押し、痛みのあることを告げた。その間もじりじりと痛みが増してくる。
ほどなく病室のドアの音が聞こえた。
「お薬、持ってきました」
毛布からそっと顔を上げる。
看護師がそばへ来て錠剤シートと水の入ったグラスを差し出していた。
薬を飲み終わると看護師は「何かあったら遠慮なく呼んでください」と去っていった。
暗い部屋のなかで天井を眺めながらじっとしていると、だんだんと痛みが和らいでくる。
すーふーすーふーと深呼吸をしてみる。
時刻を確認するとまだ8時30分だった。すでに深夜のような気分でいた。
しんとした空気が身にせまってくる。急にたった一人、無人島にでも追いやられたような気分になる。自分の住むマンションや毎日通う会社がとても遠い所にあるように感じる。
突然携帯の着信音が鳴った。
手にとって画面をみると修平からのメールというお知らせがあった。無意識にメールを開こうとしていてはたとその指を止める。
ここで読んでしまったら返事をしたくなるかもしれない。それにもう終わったのだから。
目を閉じて眠ろうとすると、またもやメールの着信を知らせる電子音が響いた。
携帯の電源を切って秋葉はベッドにもぐりこんだ。
翌朝、同僚へメールを送信して、会社にも連絡の電話をした。
この日は検査が多くてぐったりとしてしまい消灯後はすぐに眠った。
三日目にベッドでうとうとしていたときに携帯が鳴り、それは友人からの電話だった。ひとしきりお喋りをして通話を切ってから、ふと秋葉は、入院してからまだひとりの見舞客も来ていないのだと思った。
遠方の実家に住む家族はもちろん見舞いには来ない。そもそも秋葉が知らせていないのだから当然だ。大きな病気でもなくよけいな心配を掛けるだけなので連絡はしなかった。
入院四日目になってもまだ絶食中の秋葉は点滴の管に繋がったままベッドに横たわり、あいかわらず染みのない天井を見つめていた。
小学校の保健室を思いだし、つづいて実家で暮らしていたころの自分の部屋が見えてきて、そして大学に通いながら暮らした狭いアパートの畳の部屋はどんな天井だっただろうと考える。あのころはしみじみと天井を見ることなんてなかったんだなと思う。
いま秋葉が住んでいるのは九階建てのマンションで天井はクリーム色。救急車で運ばれて即入院だったから何もかもそのままだ。気が重くなってくる。真夏でなかったことは幸いだったといえるのかもしれない。
あれこれ考えていると入口のスライドドアの音がした。
もう夕方の体温を測る時間かと思って見ると、ドアの隙間から修平の顔が見えた。
あれっと思う。
胸の奥底から驚きと何か馴染みのない感情が一気に湧いた。
修平の顔が秋葉のほうを向いた。
かっちりと目が合う。
「……修平」
「やあ」
恥ずかしそうに微笑んで修平はまだ入ってこようとしない。
「どうしたの」
「……西田に聞いて」
その先は言わずに黙ってこっちを見ている。
――ほんとうにもう。あいかわらずな修平だよう。
秋葉はそう思いながらも不思議なことにきょうは苛々とした感情が湧いてこない。むしろその変わらない相変わらずな彼に安心していた。
西田というのは秋葉と同じ課内の社員で、彼の同級生が修平。修平と知り合ったのは西田経由だった。
秋葉を見て修平がまた微笑んだ。
微笑み返している自分を自覚して秋葉は戸惑う。
起きあがってベッドの上に座る。図らずも見つめあうという状況になっていて、秋葉はふいと視線を外した。
「……だからどうして修平が見舞いに来てるの。もう連絡もしてこないでって言ったじゃん……」
「心配で。どうしてるかなって」
「いいからはやく入ってきなさいよもうほんとに何やってんの。おかしいでしょそんなところで突っ立ってたら」
「え」
おそるおそるという感じで修平が部屋の中へ入ってきた。
ベッドのそばまできて秋葉を見下ろしている。
座ったまま秋葉は何を言えばいいのかわからない。修平と向き合うこともできず、ただ毛布のひざあたりで組んだ手をじっと見ている。
「大変だったな……」
伸びてきた修平の手が視界に入ってきたと思ったらぴたと止まった。もう少しで秋葉の額にまで届きそうな位置だった。
「あ。ええと」
引っ込めた手で修平は後ろ髪を掻いている。
何か言いたいことはありそうなのに、どうしてこう何も言わないのだろうと秋葉は思う。
『もう会わないって決めたのだから帰って』と言おうと思い、息を吸う。
「――すわったら」
「え」
「えっ」
帰ってというつもりがなぜか全く違う言葉を言ってしまった。
「ち、ち」
ちがーうと言おうとして今さらそれも変かもしれないと思い直す。しかし何か言わねば――と焦りを覚えた。気が急くとますます何を言えばいいのかわからなくなってくる秋葉であった。
「そ。そんなところに突っ立ってたらこっちが落ち着かないから、だからほら」
「あ。ああ」
「いす、そこにあるから」
ぱたぱたと秋葉は手を振り、壁に寄せている椅子を指差す。
その丸椅子を持ってきて修平がベッドの横に座った。
「もう……なんでこうなるのよ……」
小さな声で秋葉がつぶやいた。
修平は黙っている。
午後のまどろんだ空気が室内を満たしていく。
「私、寝ようかな……」
ほんとうに眠くなってきて秋葉は組んだ指を緩めた。
手を解きながらそろりと横を見る。
「ああ、そうだ」
急に声を上げると彼は手に持っていた袋を掲げた。
「これ。退屈だろうと思って」
持参したその袋の中に手を入れている。
「昨日発売だったみたいで本屋に入ったらどーんと目に入って」
「うわあ……」
差し出された本を修平から受け取る。秋葉の大好きな作家の最新作だ。
本の表紙を撫でる。さざ波のように何かが寄せてくる。それが心に広がっていく。
既にこの本はネットで予約していたんだ、とは言えない。
もしかしてもう家にいったんは届いていて、でも不在票が挟まれているだろうから、結局秋葉がその本を手にするのは随分あとになるはずだった。
「なんかうれしいかも。あ。ちがうよ……。それとこれとは別なんだから」
何が別かといえば別れたこととこの本は別だと秋葉は言いたかったのだ。自分でも何か変なことをいっているという気がしてきたのだが、しかしそれ以外に言いようがなかった。
「ほんとうにこれとそれとは別だよ。私の気持ちは全然変わっていないから」
「うん。いいんだ」
まるで気にしていない様子で修平はにこやかに笑っている。
それから修平は毎日、仕事帰りに病室へやってくるようになった。
ある夕方、ベッド横の引出しを開けて中のものを取りだしていたときだった。後ろでドアのスライドする音がしたので、秋葉は「ねえねえ修平あのさ――」と言いながら入口の方をふり返った。
看護師が立っていた。
心臓が止まるかと思うほど驚いた。入ってきたのは看護師だったのだ。
「ごめんなさい……」
平謝りである。恥ずかしくてばつが悪かった。
看護師は「もう来るころじゃないですかね」と言ってにこにこと笑っていた。
その後、三十分ほどしてから修平がやってきた。
すうーっと開いたドアから入ってきて何も言わずにいつものようにベッドのそばまで来る。
丸い椅子を出してきて静かに腰をおろしている。
「どうだい」
「うん……」
なにかものすごく素直な気持ちになっていた秋葉は、修平を見つめながら急に温かいものが胸に溢れてきている。
言葉にしないのではなくて、修平は言葉にしなくてもいいのだと思った。言葉にしなくても、修平は自分の気持ちは変わらないと知ってるのだろう。
だからわざわざ言わないのだろう。
「毎日、ありがとう」
ぎこちなくそれだけを秋葉は言葉にして言った。
「いや……」
修平は戸惑った表情である。秋葉は顔を上げていられなくて下を向いた。
点滴には繋がっていない方の手を伸ばして、秋葉は修平の温かい手を握る。
手を繋いだまま二人は黙っていた。