5、主人は現実の厳しさを知りました
十三歳の夏。お母様が亡くなった。
知らされていなかったけれど病はそれだけ重かったらしい。見つけたのは私とアシュレイだった。庭で摘んだ花で花束を作って持っていくと、いつも通りお母様はベッドで眠っていた。
私たちが近づいてもお母様は目をあけなかった。熟睡しているのだろうと思っていたら、アシュレイは私の目を覆って「外へ出ましょう」そう言って私を表へ誘導した。
それからアシュレイは通りすがった侍女に声をかけ、奥様が……と彼女に囁いた。
まだお花を渡していないわ、アシュレイ。お母様のために育てたお花じゃない。そう言いたかったけれど言えなかった。アシュレイは私を抱きしめて、苦しそうな顔をしたから。
葬儀はすぐにとりおこなわれた。本当に、すぐ。
きっとお父様は覚悟していた。いつお母様が亡くなってもおかしくないとわかっていたから、葬儀の準備もある程度進めていたのだろう。
それでも、いくら覚悟をしていても悲しみが和らぐことはない。柩の中で微笑むお母様の前で、お父様は私を抱きしめて声をあげて泣いた。子供みたいに。私は、今日この日くらいは父を泣かせてあげようと思った。お父様の前では泣かないように努めた。
「セシルお嬢様……」
子供はもう眠る時間になって、私とアシュレイは先に屋敷へ戻された。
部屋で休んでいる私に、アシュレイは遠慮がちに声をかけてきた。
「アシュレイ、どうしましょう。今日はお庭に水をまいていないわ」
「お嬢様……」
いたわるように私を抱きしめたアシュレイは、はらはらと涙を流した。綺麗な泣き顔。
「お母様のために泣いてくれるの?」
「奥様は素敵な方でした。お優しく、慈悲深く。お嬢様の人柄も奥様のおかげでしょう」
貴女にとって奥様はかけがえのない人だっただろうと、アシュレイは私を一層強く抱きしめた。
「だからどうか、無理をせずに泣いてください。貴女の泣く場所として僕は不十分かもしれません。それでも、辛いのなら一人で耐えないでください」
今までどれだけこの子の前で泣いただろう。私の方が年上なのに。
「ずるいわ、アシュレイ……。あまり私を甘やかさないで。もう十三よ?」
「いくつでも、悲しいときは泣くべきです」
本当はね、アシュレイ。私、知っていたの。お母様が死んでしまうこと。ゲームでアシュレイが言っていた。セシルの両親はアシュレイによくしてくれたけど、アシュレイが十二のとき母親は死んでしまって、それが彼の心をより蝕んだって。
だけど忘れようとしていたの。そうなるとは限らないと自分に言い聞かせていたの。私やアシュレイがシナリオに抗おうとしているように、お母様も別の運命をたどってくれるだろうと思い込もうとしていた。
でもやっぱり、簡単ではないのね。
「貴方の前では泣いてばかりね」
「お嬢様に頼ってもらえるなら、僕はそれが幸福です」
人の死を初めて間近に感じた。世界の残酷さを初めて目にした。自分だって一度死んでいる。きっと十七歳だった私の両親や友達も、こんな恐怖を体験したんだろう。どこか、前世の自分のことは他人事のように感じていた。もうひとりの誰かの記憶を、物語を読む感覚で見ていた。今の私はセシル・オールディントン。それ以外の何者でもない。だからセシルでない私の見てきた――例えば祖父母の――死はセシルである私にとって関係なんてほとんどないようなもので……。
だから、初めて知った。失う恐怖を。
アシュレイはこんな悲しみをたった六歳で抱え込んでいた。そう思うと胸が痛くなった。
「アシュレイ……貴方はどうか、いなくならないで……」
たとえ私の傍から離れていくことがあっても、二度と会えないところへは行かないで。
「はい……。僕は永遠に貴女の傍に……」
お母様のことを考えながら気づけば眠ってしまっていた。
次に目を開けたときには私は自室のベッドにいて、アシュレイはベッドの傍らに座って私の手を握っていた。朝日に晒されるアシュレイのブロンドの髪は輝いて見えて、お母様が自分にしてくれたように下ろされたアシュレイの髪を梳く。肩より少し長くなったアシュレイの髪。私の髪もようやくアシュレイと同じくらいの長さになった。
さらさらしたアシュレイの髪は私の手から簡単にすり抜けていく。
「もし、私が……」
私が死んでしまったら、アシュレイはお母様を思って泣いたように涙を流してくれるだろうか。この子を置いて死ぬ可能性はゼロじゃない。
もうアシュレイに殺されるかもしれないなんて疑いは消えていたけれど、最大の脅威は姿さえ表していない。隠しキャラがどう出てくるか……。期待したいのは、明るみになっている攻略キャラに『君が手に入らないなら僕は死ぬ』という自傷癖のあるタイプのヤンデレがいないことを踏まえて、そのタイプであってほしいところだ。それなら私に害はないし、アシュレイにも被害は及ばない。ヒロインと仲良くしてくださいとだけ言っておく。
考えたくないのは、世界を破滅に導くようなラスボスタイプのヤンデレである。『君が手に入らないなら、こんな世界はいらない』なんて危険思考と異常能力を持ち合わせているタイプが来たらなにかと厄介だ。私だけじゃない。多くの人が犠牲になる。
「私がいなくなっても、貴方ならきっと大丈夫よね……」
「……縁起でもないことを言わないでください」
「起きていたの?」
「気づいていたくせに」
頬をベッドに乗せたまま、私の方を向かずアシュレイは握る手に力をこめた。震えている。お母様が亡くなったばかりなのに、こんなことを言うのは無神経だったかもしれない。
「奥様のあとを追おうとしているんですか?」
「まさか。貴方を置いて自ら命を絶ったりしないわ」
自らはしない。だけどもしかしたらこの命は奪われてしまうかもしれない。そうならないように頑張るわけだけど。
「いなくなったら、探して追いかけます……」
「泣かないで、アシュレイ」
「……」
この子もよく、お母様の相手をしてくれた。お母様もアシュレイのことはお気に入りだった。アシュレイだって辛いのに、追い打ちをかけてしまったことを反省する。
「アシュレイが泣いていると私もお母様も悲しいわ」
「もう変なことを言わないでください。僕は命ある限り貴女にお仕えします。貴女がいなくなることなんて許さない」
ありがとう、言いながら頭を撫でると安心したのかアシュレイの手に込められた力が弱められた。
「お母様は幸せだったかしら?」
「幸せだったでしょう。お嬢様のような娘を持てたんです」
「それにお父様がいて、貴方だっていたものね」
母方の祖父母とは会ったことがない。仕えて長い侍女から、結婚を反対する祖父母から、父が母を連れ去るようなかたちで結婚したと聞いたことがある。お母様は無理やり結婚させられたの? 母に尋ねたことがある。母は綺麗に微笑んで、お父様も貴女も愛していると答えた。自分自身で選んだ道なのだと言った。
「私も、死ぬときは幸せだったと言い切れる終わりかたがいいわ」
精一杯生きて、安らかに眠りたい。
「やめてください、そんな話」
顔をあげたアシュレイの目元には隈ができていた。
疲れていたのに一睡もできなかったと言う。
「お嬢様の寝顔を見ていたら……不安になりました」
「そう……」
「お嬢様が呼吸をしている様子を見ていないとおかしくなりそうでした。僕が目をつむっている間にお嬢様の心臓が止まっていたらと、よくない妄想までふくらみました」
まだこんなに不安定なアシュレイに、私は甘えてばかりだ。
「私はここにいるわ」
今は、まだ。
「はい……」
行かないで。
声に出さず、だけどそう言うように、アシュレイは私の額に自分の額をあてて、ゆっくり目を閉じた。それから私の両肩に手を置いて静かに深呼吸をする。
「お嬢様に降りかかる災厄があるなら、命にかえてもお守りします。それが僕の役目で、僕が喜びを得るための道です」
「命にかえてもなんて言わないで。もし貴方の命と私の命、どちらかを選ばなければいけなくなったら、自分のことだけを考えて」
「僕は貴女の従者です」
「それでもよ。お願い、アシュレイ」
「お願いなら、拒否権はありますね」
本当に、揚げ足をとるのがうまい……。
「お嬢様、もっと自分を大切にしてください」
「そっくりそのままおかえしするわ、アシュレイ・カーライル。貴方がいなくなるなんて嫌よ」
額を離して、アシュレイのおでこに軽くキスをした。お母様がよくしてくれたように。
「貴方は私の大切な人よ、アシュレイ」
「……」
「アシュレイ?」
「……っ」
どさりとアシュレイが後ろに倒れて、頭をうつ大きな音が聞こえた。これはただごとではない。すごい音だった。
「どうしたのアシュレイ!?」
おでこを片手で押さえるアシュレイは口をぱくぱくさせながら私の顔をまじまじと見てくる。
「大切……?」
「え? ええ。ずっと一緒だもの。貴方は従者で、私の弟のような大切な存在よ」
「……」
それよりも打った頭は大丈夫なのだろうか。
「アシュレイ、頭は大丈夫?」
「どういう意味ですか」
「え?だから頭は……」
「僕は勘違いのすぎる頭の変な人間だとでも?」
「そ!? そんなこと言っていないわ!」
どうして急に機嫌が悪くなってしまったのか……。
冷え冷えとした目のアシュレイはすくっと立ち上がって私の額を指ではじいた。
「その無自覚で身を滅ぼすのだけは勘弁してくださいよ」
服を整えて、アシュレイは壁に立てかけられた時計を見やる。
「まだ早いですね。もう少し眠って大丈夫ですよ。後で起こしに来ます」
「アシュレイは?」
「庭が気がかりだったんでしょう?水をまいてきますよ」
アシュレイはちゃんと眠っていないのに?
「それなら私が行くわ。アシュレイは」
「今から寝たら起きられなくなります。気にせず、お嬢様は」
「じゃあ二人で」
「貴女がそう希望するなら」
お母様のために整えていた庭。もうお母様が見ることはないけれど、自分が死んですぐ庭が荒んでしまえばお母様も嘆かれるだろう。これまで育ててきた花々も、私たちが植えたのだから最後まで責任をもって世話をしないと。もしかしたら雲の上からお母様も見てくれるかも知れない。
「あと二年で、私もこの家を出るのね」
廊下を進みながら、なんとなく思い出した。
学園は世界中に複数あり、それぞれ家の階級でいく学園が決まる。オールディントンは子爵家だから、私は必然的に上流階級の学校へ行く。上流階級に仕える従者や世話係の子供も、仕える家の子供と年が近い場合は同じ学校へ入って自分の役目をまっとうするのが通常だ。お父様もアシュレイを私と同じ学園へ進ませるつもりらしい。寮生活になるのだから、アシュレイがいたほうが安心だろうと。
まあ、そうでなければあの学園に主要人物は集まらないものね。
「私が学園へ入学したら庭は貴方に任せないと」
思えば私たちが一番長い時間を過ごしたのはあの庭かもしれない。
「僕もお嬢様が出たあとすぐに出ますけどね」
「その後はお父様に引き継ぎね」
「家中の人が、お嬢様の大切な庭園を守ってくれますよ。みんな、お嬢様のことが大好きですから」
「そうかしら?」
人柄ですね、と言うアシュレイはめずらしく柔らかく微笑んだ。