6、従者の追憶
ラストです。以降、番外編をあげていきます。おつきあいありがとうございました!
「いや~、君、よく無事で帰って来たねえ」
「君は助け舟を出すこともなく逃げていきましたね」
部屋に帰って顔を合わすなり、感心したように溜息をつかれた。ローナはベッドで教科書を読みながら気まずそうに顔を逸らす。
「あんな顔の先輩初めて見たね」
僕も初めて見ました。
「『命令よ』なんて言った時の声なんてもう…」
「ゾクゾクしましたね。いい意味でも悪い意味でも」
「僕はいい意味でゾクゾクするタイプの人種じゃないからなあ……」
アレが初めての命令であることは彼女にもわかっていたようだ。やはり彼女は意識的に命令をしないでいたらしい。
どうせなら初めての命令はもう少しロマンのあるものであれば嬉しかったが。どうして今になって命令を出したのかと尋ねれば、彼女は顔を赤らめてぼそぼそ言っていた。
『だって、もう少しくらい横暴に振舞っても、アシュレイはちょっとやそっとじゃ私から離れない確信があったもの。それに…卒業するまでに一度はしておかないと…その……夫婦に…なるわけだし…永遠にできなくなってしまうから』
叫びたかった。耐えた自分を褒めてやりたい。いっそあの場で押し倒してことに及んでしまいたくなるくらいには煽られた。
僕と彼女が一緒になるにあたり、旦那様はいくつかの条件を出した。どれもささやかなものだし、僕と彼女の幸せにつながるような条件だ。孫はいくつまでにほしいとか、別居、離婚は許可しないとか。その中に、僕が卒業したらすぐに一緒になることというものがあった。彼女は戸惑っていたが、僕は納得している。
つまりオールディントンの姓はそれだけ魅力的なものだ。早々に僕と一緒にならなければ、あの手この手で彼女を手に入れようとする家は出て来る。
それでいいのか、早すぎないか、と彼女は言うが、貴族の令嬢令息が公式な恋人を作るのはほぼ結婚を踏まえてのことだ。遅くても早くても。第一、どの道今までと変わらず同じ屋敷で暮らすのだから深く考えることもない。このままではどうせ……夫婦になってもしばらく禁欲をすることになるだろうし……。
「…まあ、あの人の『命令』も実際は『お願い』と大差ないんですがね」
***
両親を亡くした僕を引き取ったのは、オールディントン子爵。
僕の“所有者”になったのはセシル・オールディントンお嬢様。
行くあてもない僕は、子爵家に厄介になるほかなかった。たとえ、従僕としてみじめな生活を強いられることになっても。これまでの孤独とは違う、けれどきっと、虐げられる日々なのだろうと思い込んでいた。僕の村の領主の従者は、まるで奴隷のように扱われていたから。
けれど思っていたものと違った。主人となった人も、その家族も、他の使用人たちも。
恐怖しているのを悟られまいと頑なな僕に、主人が与えてくれたものは『自由』。必ずしも自分の言うことに従おうとせず、意思を持って生きることを求められた。命令も、お願いも、僕にはもともと拒否権を与えられていた。それでもいつの間にか、彼女が望むことなら極力は叶えたいと思うようになった。
セシル・オールディントンは初めからおかしな人物だった。けれど初めから優しい人でもあった。僕のために泣いてくれた彼女をもう泣かせたくないと思った。
七つになる頃には、これは忠誠心とはまた別のものだと気づいた。そうでなければ、彼女が親族の同い年くらいの少年たちといることにイラつくはずもない。彼女は何も悪くない。それでも自分の態度が悪くなるのをどうしようもできなかった。僕の主人に近寄るな。触れるな。笑いかけられるな。身分もわきまえず彼女の親戚の子供たちを内心で毒づいた。
態度を悪くしても、セシル・オールディントンは僕を見捨てない、という自信があったのも原因の一つだ。
しかしこれではいけない。と、意を決し、その年、
「好き、です」
彼女に言った。
あの時からだ。
「私もよ。大好き!」
彼女は微笑んで僕を抱きしめた。あの時からだ。
「貴方のような弟が、ずっと欲しかったんだもの!」
あの時から、この女、一筋縄ではいかない、ということに気が付いた。
「勉強も運動も僕より劣る貴方が年長者ぶるのはおかしくありませんか?」
むきになって悪態をついてしまったので喧嘩に発展し、人生で初めての愛の告白は失敗に終わった。
ある程度成長していけば彼女と自分の身分の差は気になっていく。しかし僕には今更のことだった。すべて計算済みだ。旦那様は爵位にあまり執着がない。ましてあの人も恋愛結婚。反対される可能性は低く思われた。そこに養子の話も来て、確信した。彼女さえ自分に好意を持ってくれればうまくいく。
彼女の学園入学後は多少の不安があったが、耐えられるだろうと思っていた。そう、初めの頃は。
二日以上彼女と離れたことのない僕には五日が限界だった。六日目に手紙が来ていなければ学園まで様子を見に行っていたかもしれない。なんとか手紙で活力を得た。
もっとも、二月は無理だったので結局気づかれないよう様子見に出た。同じくどんなに仕事が忙しくとも三日以上彼女と離れたことがなく、耐えきれなくなった旦那様と共に。
よくない虫がわいていた。いくらかは旦那様と駆除をした。一部手の届かない有権者の息子もいたが。あとはつい最近発覚した、道理で駆除に手間取る王族関係者などもいた。
そんな苦難の日々を超え、入学したらなんてざまだろう。
僕の主人には随分と親しい異性の友人ができていたようだ。
ああ、身の程知らずも甚だしい。僕はたかが従者で、拾われた身にすぎないというのに。
嫉妬する僕をあの人は許してくれるだろうか。あの人を傷つけてしまいそうなほど深く愛することを、あの人は許してくれるだろうか。きっと許してくれる。僕の主人は優しいから。
時々、自分の異常さが恐ろしくなった。けれどそれを気にしなくなるような精神の異常をきたしていた。
あの人が欲しい。
あの人を奪われたくない。
あの人が恋しい。
あの人が愛しい。
あの人を愛している。
僕のものにならないのなら、いっそ…
殺してしまおうか。
出会わなければよかったとさえ思うこともあった。もう自分を抑えられそうになかった。出会わなければ、傷つけてしまうかもしれない自分の弱さに恐怖することもなかったのに。
触るな。
触らせるな。
僕のだ。
その人は僕の主人だ。
僕のものだ。
僕の唯一だ。
どうか奪わないでくれ。
奪わないでくれとは、誰に言った言葉だったのか。
彼女に近づく男にか。あるいは僕自身にか。
愛しい僕のお嬢様。
貴女は知らないだろう。
僕の中の獣は死んでいないこと。
これだけ愛されているのに、まだどこかで不安がっている。愛し合っているのに、誰よりも傍にいるのに、いつ、嫉妬にかられて罪をおかすかわからない。僕はいつ主人に手をあげるともわからない欠陥だらけの従者だ。
それでも、貴女の慈愛に満ちた瞳に見つめられ、『お願い』されれば、『命令』されれば、理性を取り戻そう。それさえ誓えなければきっと、僕は貴女に見捨てられてしまうから。
***
花なんて、本当は特別好きでもなかった。ただ、母の好きだった花があったからなんとなく眺めていただけ。それでも、彼女と育てるうちに愛着がわくようになって、趣味まで共有するようになった。
初めて彼女と育てたのは、奥様の好きだった向日葵だった。花が咲くと、彼女は嬉しそうに笑って、落ちた花びらを一枚、日にすかして見ていた。
「日にかざすと、同じ色ね」
僕の髪を反対の手で梳きながら、子供にはふさわしくない笑みを浮かべていた。
「向日葵はアシュレイの色ね」
計算していたのなら大したものだ。あの人にそんなことができるはずがない。僕でさえこの頃知ったのだから。
『あなただけを想う』
「お嬢……セシルが卒業する頃には花を贈りますね」
「卒業する前に言ってしまうの?」
寮への帰路、彼女は可笑しそうに僕を見上げる。
「それまでに花言葉でも調べておいてはどうですか?」
「あら、花言葉にかけて贈ってくれるの?それなら、もらってから調べる方が楽しいかもね」
卒業式は初夏。なんとか咲いてくれるだろう。
親愛なるセシル・オールディントン。
僕は生涯、『あなただけを想う』




