23、前進する決意をしました
先生に手伝いを頼みたいと呼ばれたアシュレイは、私に少し抜けると言ってしばらく戻ってこなかった。
ダンスのための曲がかかるまでは時間があるし、私ものんびりと待つことにした。途中オズウェルが話しかけてきたり、レイラが接近してきたりするのをあしらったりして時間は簡単に潰せた。
オズウェルはなにがあったか知らないけれど元気を取り戻したみたいだった。
レイラはどの男子にもことごとくペアを断られたそうで、結局それなりに親しい友人が引き受けてくれたらしい。ルフレではない。友達、いたのねという他に感想もない。
そろそろアシュレイも戻ってくる頃だろうか。
足元に目をやりぼんやりしていると声がかかった。
「オールディントン先輩」
血の気が引いていく。
ゆっくり顔をあげると、無邪気な、子供みたいな笑みを浮かべるローナ・ランドルフが立っていた。
「今日は一段とお綺麗ですね。ドレスがとても似合っていて。あ、僕のことはご存じですか?」
目の奥が笑っていないのくらい、私にもわかる。
私自身はといえば、目どころか笑顔をつくることなんて到底かなわなかった。折れそうになる脚を支えるのが精いっぱいだ。
「ええ……。貴方には、私の従者がお世話になっているから」
強張っている顔をどうにかしたくても、頬の筋肉に力が入らない。
「アシュレイはとてもいい人ですよね」
友人について語るローナはどこか自慢げだ。だけど急に、冷たい表情になった。
「だからこそ、彼は貴女のような人間に仕えるべきではないと思いませんか?」
ぞっとするほど低い声。ローナの手が、私の右手を持ち上げた。
「貴女は害悪だ。アシュレイにも、レイラにも」
握られた手に力が込められていく。
その目から、明らかな殺意が読み取れる。なにをするつもりなのだろう。こんな人の多い場所で、私を直接傷つける魔法を使うのだろうか。それほどまでの恨みを、ローナに抱かれているの?
「貴女がいなくなれば、すべてうまくいくんです」
だから私に、いなくなれって?
「みーんなが幸せになるには仕方ないんです。貴女は邪魔な存在だ。早く消すに越したことはない」
「貴方……やっぱり……テストの日私を」
ふふっと、男の子にしては高い笑い声がした。
「あの時は、失敗してしまいましたね」
「……っ、何をしようと言うの? こんなに大勢の人が集まる場所で」
この予行舞踏会はいわば生徒たちの息抜きパーティーのようなものである。曲が始まるまでは皆他愛ないお喋りや食事を楽しみ、和やかな雰囲気が流れ続ける。こんなところで騒ぎは起こせないだろう。
「方法ならいくらでもありますよ。気づかれたとしても問題ない。子爵令嬢がどれだけ騒ぎ立てても、養子とはいえ僕は公爵家の人間だ」
激しく後悔する。
まさか舞踏会の間に接触してくるとは思っていなかった。隠しキャラがこれから頻繁にレイラに、ひいては私に関わることは明らかなのに油断していた。
「手を……放して……」
「どうしたんですか? 先輩。心配しなくても僕は先輩ほど無慈悲な人間ではありませんよ? 貴女のような人間にも同情し、せめてもの思いやりで、痛くないように終わらせます。一瞬で」
まずい。
声が出ない。出そうとしても口が動くだけ。
どうなっているのか。この子は、まだ若いこの子は、いったいどれだけ高度な魔法を使えるのだろう。きっと声が出ないのもローナのせいだろう。魔法を使うときに放つ光を隠せるのは、魔力を操ることに長けている一流の人間だけだ。グレイ先輩にだって難しいはず。
それを、私より年下のこの子がいとも簡単にやってのけている。
「どうやって……しとめてほしいですか?」
周りに聞こえないように、私の手を引いたローナは私の耳元でそっと囁いた。はたから見ればいちゃついている風に思われるのだろうか。そんな甘いものだったらどれだけよかったか。
どうやってもなにも、そもそもしとめないでいただきたい。
「何をしているんです?」
ローナがくわっと目を見開いた。
私も半ば泣きそうになった状態で顔をそちらへ向ける。
「僕の主人に、何をしているんです? ローナ」
怖いほど無表情のアシュレイはつかつかと私とローナの方へ来ると、私の手を掴んでいたローナの手を払い落とした。代わりにアシュレイが掴まれていた私の手を握った。
「何って、なにかな? お話をしてただけだよ。やだなー、怖い声出さないでよ」
ローナが焦っているのは、話す早さで明らかだった。ローナの集中が途切れたせいかもしれない。
「あ……」
声が出た。
さすがにこの状況でアシュレイの人間関係を気遣えるほど私もできた人間ではなかった。だいたい疑いが確信に変わった今、これ以上アシュレイとローナを仲良しにさせておくわけにはいかない。この子に危険な目に合ってほしくはない。もう十分に悲劇を味わっているのだから。
出せるようになった声をふりしぼって、アシュレイに説明しようとする。
「アシュ……」
「うるさい」
じとっと睨まれた。
アシュレイに。
今までで一番、怖い顔。静かだけど、今にも噛みついて来んばかりの迫力の怖い顔。
「アシュレイ……?」
「もう貴女の声なんて聞きたくない」
ローナに掴まれて感覚が薄くなっていた手に、また力がかかってきた。感覚は完全に消えている。
憎々しげに私を睨むアシュレイは、ゆっくり口元を歪ませた。
「もう……たくさんだ」
乾いた笑い声が耳に届く。嘲笑するようなアシュレイの声。
「貴女が大嫌いだ。セシル・オールディントン」
「え……」
何を言われたのかわからなくて、同時に抱え上げられたこともすぐに理解できなかった。
「失礼します、ランドルフ公子息殿。それから今後、主人に手は出されませんように」
ローナが一歩引くほどに、アシュレイの語気は強い。
「さすがに、公爵家を潰すためには相当な時間がかかってしまうでしょうから。極力敵には回したくない」
暗に、その気になれば公爵家を潰すことも可能だと言っているように聞こえる。聞こえるんじゃない。言っているのか。それも、口の端を釣り上げて。
こんな顔を知らない。こんな声も。こんなことを言う彼を知らない。
呆然としながら、ただ、アシュレイに抱えられ会場を後にした。
***
放るようにベッドに落とされて、我に返った。
周囲を確認すると、女子寮の私の部屋だった。生徒も教師も舞踏会で出払っているから、アシュレイも容易にここまでついたのだろう。
「アシュレイ……、アシュレイ、どうしたの?」
私を無表情で見下ろしていたアシュレイは、また、乾いた笑い声をあげた。
「言ったじゃないですか」
ベッドの脇にとんと腰をかけたアシュレイの手の甲が、私の頭から頬、顎に触れて、親指で唇をなでられる。
「僕が貴女のものであるかぎり、貴女も僕のものでいてくれると」
軽い力でとんと押されると、簡単に体が後ろに倒れた。そのままアシュレイが覆いかぶさってきても、もう冷静に考えることもできない。
感じるべきではない。アシュレイを相手に恐怖なんて感じたらいけない。私はアシュレイの主人なのだから。従者の理解者となるべきなのだから。
「なぜ僕を見ないんですか? なぜ」
腰に手をあてられ、私は悲鳴をあげ小さく身をすくめた。アシュレイを、相手にして。
「腰に腕を回されていた。こんなに顔を寄せられていたではないですか」
ローナがしていたような距離で、アシュレイがヒソヒソ囁く。
「貴女は僕のものなのに」
耳にあてられた唇が頬を伝って、額にキスをして、瞼にキスをして、最後には唇に深く口づけられた。だけどどうも、キスをされているという感覚ではなくて。息を止められそうになっている。殺されそうになっていると感じた。
「セシル・オールディントン。貴女を愛している。それ故に誰より貴女が憎い」
貴女が大嫌いだ。
会場での言葉をまた繰り返された。
「気づいているはずだ。僕が貴女を何よりも欲していることくらい。わかります。貴女は時々ひどくはっきりと……顔に出るから」
また唇に、呼吸を止められそうなくらい深いキスをされる。きっと苦しいのと困惑とで、酷い顔になっているだろう。
「アシュレイ……」
「その声ももう聞きたくない。黙って」
離れたばかりの唇がまた塞がれる。
今の状況が理解できない。それに加えてこの状況を打破する方法が一つも浮かばない。胸の中がぐるぐるして、涙が出て来た。
「僕でない男の……人間の名前を呼ばないでください。その声は色々なものを惑わす。何より僕をおかしくなるまで惑わせたではありませんか」
ベッドの上で抱きしめられて、頭のてっぺんにキスをされる。
そのままの体勢で、アシュレイはやっと動きを止めた。
「今日……言うつもりでいたんです」
髪をくるくると指に絡ませ遊ばれる。
「遠まわしな言い方ではなくて、貴女を愛していると。決めていました。貴女が今日に僕を相手と認めてくれた日から。拒絶される場面を思い浮かべては、それでも今の苦しみから解放されるならと」
アシュレイの涙が落ちて来た。
泣かないでなんて、私に言う資格はないかもしれない。
「なのに、やっと決意をかためたというのに、貴女の傍にはいつも他の誰かがいますね」
グレイ・ランドルフ。オズウェル・アークライト。レイラ・モートン。そして、ローナ・ランドルフ。アシュレイは心当たりのある名前をあげていく。
「住む世界が違いますか? ただの従僕の僕と、オールディントンの姓を持つ貴女とでは」
違う。むしろ、相応しくないのは私の方で。
「僕にはお嬢様しかいないんです。貴女は僕のすべてだ。貴女が僕から離れていくと言うなら……」
首にそっと手をかけられる。ほんの少しだけれど、力を加えられた。
「僕の手にかけられてください。他の誰でもなく。すぐに、後を追いますから……」
「……」
無理だ。
「言い残すことはありますか? 親愛なるセシルお嬢様」
「貴方にできるの……?」
そんなにぼろぼろ泣いて、手を震わせるアシュレイ・カーライルに、私が殺せるの?
「どれくらい貴方と時間を共にしたかしら、私のかわいい従者。貴方のことは私が誰よりも知っているわ」
ほら、私が触れれば貴方の手は簡単に緩んでしまう。
「……できます……よ……。貴女を手に入れるためなら、どんなことも……」
「貴方は私を守る従者様でしょう? できないわ。貴方は優しくて、いい子だもの」
誰よりも知っている。
優しい私の従者のことなら、きっと本人以上に。
本当は気づいていたふしもあった。私のかわいい従者の気持ち。私が向き合おうとしなかったためにここまで追いつめてしまったのもわかる。
大切だと言いながら残酷なことをした。ひとえに、この子を手放したくないために。主従であり続けていれば、関係が歪むこともないだろうと。
自由を与えると言いながら、しばりつけていた。
「よく、聞いて、アシュレイ」
そろそろ逃げることができなくなってきたのかもしれない。向き合って、この子に今度こそ本当の意味で自由を与えなくては。
「私は──……」