2、二人で泣いたら距離が縮まりました
食事を終えたアシュレイと部屋に戻る途中、窓から見える庭に、彼の目が向いていることに気づいた。
庭はお母様のために私とお父様が管理をしている。病床にふせるお母様の部屋の窓からも、庭はよく見えるから、少しでも彼女の心を癒せばいいと思って。
「気になる?」
「……」
ゆっくりと私に視線を向けたアシュレイは、首をかしげてみせた。
「花、好きなのかと思って」
「……嫌い、では、ないです」
そういえば、ヒロインがアシュレイと出会うシーンは学園の庭園だった。そのときもアシュレイはぼんやりと花を眺めていたっけ。
「強制ではないけれど、よければ貴方も、手入れを手伝ってくれる?」
「命令ですか?なら……」
「じゃなくて、提案。決めるのは貴方の意思」
アシュレイはわずかに沈黙をおいてから、首を縦に振った。
「そう。お母様もきっと喜ぶわ」
庭の手入れは母のためだと言うと、アシュレイは、奥様は花が好きなんですか?と訊いてきた。
「女性は大抵そうじゃないかしら?貴方のお母様だってそうだったんじゃない?」
「はあ……、まあ……」
アシュレイの歯切れの悪さに我に返る。そうだ。アシュレイはご両親を亡くしたばかり……。さっと血の気が引いていく。
「あ……、ごめんなさ……」
「いえ、別に」
どうしてこう気が回らないのか。この子はまだ六歳なのに。
「ごめんなさい……! 本当に……っ」
「いえ、本当に気にしないで……あの……泣いて……?」
ぼろぼろ泣く私にアシュレイはぎょっとしている。あ、初めてこんなにはっきり感情の見える顔を見たかもしれない。私の顔はおそらくぐちゃぐちゃでそうとう汚らしい。
「ふ……、うぅ……っ」
「あの、本当に、泣くほどじゃ……」
「ごめんなさぁぁあ……っ」
アシュレイは戸惑って、誰かに助けを求めようと辺りをキョロキョロしている。 ああもう私! 前世と合わせればトータル二十四歳のくせに! 思考能力は基本的に年相応の七歳だから、涙腺は簡単に緩んでしまう。
六歳の男の子を困らせるんじゃない! ひっこめ涙!
「なんでお嬢様が泣くんですか……?」
「だって……貴方は辛い思いをしたのに……っ」
「……僕はもう泣いたから、いいのに」
どうしよう、とウロウロするアシュレイは、慣れない手つきで私の涙をさっと拭った。それから困ったように眉を下げて、背伸びをして私の頭を撫でた。
「うわあああああんっ!!」
「ええ!?」
「なんで貴方に慰めさせてるのお!? ごめんねぇぇぇっ……!」
「うわ……!?」
もう耐え切れなくなって抱きしめて大声をあげて泣くと、いよいよ声を聞きつけた使用人や部屋で仕事をしていたお父様が何事かと駆けつけてきた。
アシュレイは自分がなにかしたのかとすっかり目を回していて、申し訳ない気持ちもあるけれど今の私は情緒不安定だ。
「僕は本当に大丈夫だから!」
とうとうアシュレイが大きな声を出す。それに驚いて、涙が一度引っ込んだ。
アシュレイの顔をそっと覗くと、だけどアシュレイも泣きそうな顔をしていた。
「だか……ら、う……うあ、うああああああんっ!」
アシュレイまで泣き出して、それにつられて私もまた泣いて、大人たちは何が何だかわからず、ただただうろたえていた。
***
二人で食堂へ戻り水を飲んで一息つくと、お父様は安心したように仕事へ戻っていった。使用人たちも各持ち場に戻っていき、私たちは食堂に二人きりになった。
「お嬢様は……」
「はい……」
「ふふ……」
「!?」
笑った……!
アシュレイが笑った……! スチルでもなかなか笑顔がなかったあのアシュレイが、小さく声を漏らして笑った……! 天使さながらの笑顔に私は思わずくらりと来てしまう。
「優しい人ですね」
微笑んで、泣いたせいで赤くなった目元を綻ばせている。さっきまで真顔しか見せてくれなかった子とは思えない、ごく自然で綺麗な笑み。
私は無神経にも彼の傷口に触れ、挙句勝手に泣いただけなのに。
「そんなこと……」
「あるよ」
自分の服をきゅうっと握って、アシュレイはもじもじと照れくさそうに微笑んで視線を落とした。
「貴女は僕のために泣いてくれたから、優しい人です。貴女は僕を泣かせてくれたから、優しい人です。父さんと母さんが死んでも、一緒に泣いてくれる人がいなかったから、僕は今日とても……救われました」
アシュレイのお父様は、結婚のためにオールディントンの使用人を辞して、奥様の実家である農家を継いだという。けれどアシュレイのお母様の実家には莫大な借金があり、近隣に住む人々はアシュレイたち一家との関係を持つことを嫌がった。
だからアシュレイには一緒に泣いてくれる友達もおらず、おじいさまとおばあさまは泣くこともせず、アシュレイのご両親が亡くなったその晩、アシュレイをおいて夜逃げをしてしまった。収穫した作物を納めに行く途中、土砂災害にあった両親の無残な遺体を見て、一人で、失った悲しみを抱え泣いていたのだとアシュレイは語った。
「ひ……っ、う……っ、うぅ……っ」
また嗚咽をもらして涙をぼたぼた流す私に、アシュレイは苦笑して涙を拭ってくれた。
「そうやって、僕のために泣いてくれる貴女はとても心の綺麗な人だと思います」
それからアシュレイは私の手を取って、手の甲に軽くくちづけを落としてきた。子供のしていることなのに、それはひどく絵になって、私は思わず見とれてしまった。
「貴女の従者になれて嬉しい。貴女が僕に自由を与えてくれたのなら、僕は自ら貴女の手となり足となることを、精神の自由をもって選択します。貴女を命に変えて守ることを、身体の自由をもって尽くします」
そう言ってくれている彼は、果たして本当に私を守ってくれるのだろうか。目の前のアシュレイ・カーライルは、きっと自分の意思で私に誓ってくれている。そんな彼を、私は疑っていいのだろうか?こんな真摯な目をし、忠誠を捧げてくれる彼が私を殺すだなんてこと、疑っていいのだろうか。
私はゲームの中にいたセシル・オールディントンになるつもりはない。私は私。あのセシルとは違うセシル。この子だってそうなのかもしれない。この子にだって心はある。今、私のいるこの世界においてはおそらく、シナリオに沿った行動しか起こさない人物の方が稀かもしれない。
シナリオはあくまで可能性。この世界は作られたものではなくて、今の私にとっては、そしてこの世界で生きる人々には、紛れもない現実なのだ。
だったら、まっすぐな瞳をしたこの子の人格を無視してシナリオだけを頼りにするなんてそんな失礼な話はない。
「貴方が従者になってくれて嬉しい。貴方のように純粋な人の主人として恥じないよう、私は自分を磨きます。ね? アシュレイ」
「僕は今のままでも、セシルお嬢様はとても魅力的な主人だと思います。それに僕は純粋なんかじゃありません」
照れくさそうに俯いて、アシュレイは首を横にふるふる振った。
いいえ、少なくとも私よりは純粋だと思う。私はアシュレイが自分を殺すのではないかと疑っていたわけだし、なによりこの子はご両親の死にとても心を痛めていた。そのせいで無感情な雰囲気を崩せていなかったのだから。
「謙遜しなくていいの。けどそうね、謙虚なところもアシュレイの魅力だとしておきましょう」
「お嬢様は口がうまいですね」
アシュレイの頬が少し赤くなる。
ああかわいい。超かわいい。
「だ……」
「だ?」
「抱きしめてもいいかしら?」
「え」
さっきはそれどころでなかったけれど、今改めてこの愛らしい少年を抱きしめて癒しを堪能したい。
じりじり詰め寄る私に、アシュレイはじりじり後退していく。そんなに怯えなくても、傷つけたりはしないのに。
「どうしてですか?」
「人間としての本能というか……」
女としての本能というか……。かわいいものは抱きしめたくなるのが普通だと思うの。
「い……嫌です…」
「なぜ?」
「目が……こわい……です……」
まあ……。
「私はアシュレイの言葉でとても傷ついてしまったわ……」
「責めるように見ても嫌です……」
「どうしても?」
「僕には精神の自由があるので、お断りしてもいいですか?」
それを言われたらたまらない。
「また別の機会にいいかしら?」
「気が向いたらですが」
微苦笑を浮かべたアシュレイはまた一歩下がった。そんなに怖がらなくても……。
窓から夕日が差して、アシュレイの顔を赤く染めた。それで思い出した。
「大変! まだ庭にお水をまいていないの。アシュレイ、付き合ってくれる?」
「はい。喜んで」
紳士的にエスコートしてくれる年下の男の子は、しなやかで綺麗な手をしていた。けれどそれはぱっと見だけで、手のひらを合わせればごつごつしている。畑仕事をすればこうなるのも必然だろう。この子は一生懸命に、両親と幸せを確立していたのだろう。
「アシュレイ、これは約束ではなくてお願いよ」
庭へ向かいながら、私は床を見て彼に言う。
「だけどどうか、叶えて欲しいの」
返答するように、私の手をとっていたアシュレイの手に力が込められた。
「自らが幸せになるために、欲を持って。誰にでも、幸せになる権利はあるのだから」
こんなことを言っても、この子は自分のために人を殺したりしないだろう。だってこんなにいい子なのだから。もし、それでもどうしても疑ってしまう心が私の中に巣食うのならば、そうならないように、彼の心に悲しみや苦しみを植え付けないように守ってあげよう。
「わかりました」
「そう。いい子」
私が頭を撫でると、一瞬体を硬直させたアシュレイは、静かにまぶたを閉じた。
猫みたい……。
「やっぱり抱きしめたらダメかしら?」
「お断りします」
「なぜ?」
「今は庭に急がないと、あっという間に暗くなってしまいます」
それもそうね。
「今日のお夕食はなにかしら? アシュレイは何が好き?」
「僕は……シチュー、でしょうか」
家族以外の人と家で食事をとるのは、貴族としては珍しいかもしれない。けれどこの際気にするものか。お父様だって私が頼めばなにも言うまい。こんなに小さな子なんですもの。一人で食事をとらせるなんてかわいそう。
もう料理人たちは別のメニューで作り出していることだろう。
「それなら明日はシチューにしてもらいましょう。あとは?何が食べたい?」
「お嬢様は、なにがお好きですか?」
「私? 私はそうね……ローストビ……いえ、うーんと…」
ローストビーフとか……っ。もっと女の子らしいものは出ないのか私。
「じゃあローストビーフが食べたいです」
ああ…っ!聞かれてた…っ!
それにしても私が食べたいものを食べたいなんて、
「アシュレイは素敵な紳士なのね」
「……」
耳まで赤くして、アシュレイははにかみながら俯いた。