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牡羊譚  作者: 毛野智人
9/13

(九)

 空は残酷なほど青く晴れ渡っている。

 雲は東へ流れ去り、天と地の間にからの祭壇が建つばかり。

 兄妹に逃げることは一切許さぬと宣するかの如き光景であった。

 王宮に仕える者達を始め、国中の民衆が祭壇を囲んでいる。

 群衆と彼らに囲まれた祭壇を見上げられる位置に玉座がしつらえられ、王アタマスと王妃イノが見守っている。

 王が合図をすると、兵士の列が行進を始めた。

 兵列は群衆を裂き、祭壇へ至る道を固めていく。

 頑強な人の壁に囲われた道へ、王子と王女が入場する。

 両脇から兵士達の視線を浴びながら、兵士の影に遮られて直接は見えぬ民衆の視線さえ感じながら、死の覚悟と共に一歩を踏んだ。

 女達は祈りの歌を唱える。哀しい旋律を口ずさむ。

 若い王子は妹である王女の手を引き、祭壇を上る。

 ――まだお若いのに何とお可哀想なこと。

 ——人生の盛りの時さえご覧にならぬまま。

 ――母君に捨てられたばかりに。

 ――王の才覚がお足りにならなかったか。

 王子プリクソスの評判は民も知るところであったので、殆どの者が王子の犠牲を憐れんだ。同時に、スミレの花のように可憐な王女が散ることを嘆いた。他方で、二人の父母についての懸念が囁かれた。

 人々の乱れ交う感懐に反して、怨み声の一つも漏らさず、ただ静かに王子と王女は儀式の進行に身を任せる。

 二人は祭壇に身を横たえた。視界に映るものは空しかない。

「なんと、青い」

 プリクソスは感嘆した。これが自分の見る最期の景色だ。この手をいくら伸ばしても届きそうにない、遠く深い色が目一杯に広がっている。

「兄上。わたし達はゼウスの許に行けるのですよね」

 同じ景色を見ているヘレが押し殺した不安を覗かせながら、兄に確認した。

「ああ。この空の向こうにきっと行ける」

「良かった」

 兄の言葉にヘレは安堵し、目を閉じた。

 生け贄として捧げるためには、生きたままにえの喉を掻き切らねばならない。その役に任じられたのは、プリクソスの教育係である将軍であった。

「殿下」

「辛い役目を負わせてすまない」

「いいえ。神と国のために働けるのですから、これに勝る名誉はございません」

 将軍は沈痛な面持ちで、祭壇の前に跪いている。

「苦しんでこの世に留まらずに済むよう、遠慮なくやってくれ」

「御意」

 将軍の返答を聞き、王子はそっと瞼を閉じた。

 将軍は赤い血の脈打つ喉を切り裂くため、清められた刃を手に取る。

 兵士が、民衆が、王が、王妃が、固唾を飲んで祭壇を見守っている。

 愈々いよいよ将軍が王子の喉に刃を突き立てんと剣を振り上げた。


 そのとき。


 悲鳴とも怒声ともつかぬ困惑の声が祭壇を見つめていた群衆の間に広がる。

 今まで彼らの視線が集中していた祭壇が、一瞬のうちに見えなくなってしまったのだ。祭壇は突如として、雲と霧に覆い隠されてしまった。

 雲一つなかった空のどこから雲が湧き出たのか、その場の誰もが不思議に思った。ここにきて更なる凶兆でも表れたのではないかと不安になる者も少なくなかった。王自身もその一人である。

「どうした? 一体何が起こったのだ?」

 アタマスは立ち上がり、一心不乱に雲間を覗こうとするが、薄灰色の雲は厚く、その内部で何が起きているのかは窺い知れない。

 やがて、雲が晴れた。

 群衆がどよめく。

「王子と王女が消えた!」

 祭壇にはプリクソスとヘレの姿は全く見えず、将軍だけが残されていた。この状況が何を意味するのか。儀式は成功したのか、否か。皆の関心はそこにある。兄妹に次いで群衆の視線を浴びることとなった将軍は剣を掲げ、首を横に振った。剣は一滴の血も着けぬまま、白い光を放っている。

 今度は一斉に儀式の失敗を畏れる雰囲気が満ちた。

 そこへ一人の兵士が駆けつけた。

「陛下!」

「今度は何だ」

「国中が儀式に参加する最中、国外へ逃げようとしていた者がおりましたので、連れて参りました」

「逃げるだと? この国の大事にか。なんと不届きな。連れて参れ」

 もしかしたらこの失敗の原因かもしれない。そう思ったアタマスは、直ぐさま兵士にその者の連行を命じた。

 兵士に引っ張られて王の目の前に投げ出されたのは、つい先日、王が自ら神殿への使者に任じた男であった。

「お前は…! 何故、このようなことを」

 王が信じ難いという表情をすると、男は震えながら王に尋ねた。

「王よ。どうか私の告げる真実を疑わず、信じて下さいましょうか」

「おお。今、私は何より真実を欲している。怖じずに話すが良い」

「では、お聞き下さい。私がかつてお報せした神託は、あるお方により仕組まれた虚偽の託宣にございます」

「虚偽だと? では、我が子二人を生け贄に捧げよと命じたは、神ではないと申すのか」

「左様でございます。神どころか人の奸計。醜い女のはかりごとに過ぎません」

「誰だ。そのような恥を知らぬ愚行を犯したのは」

「それは…」

 アタマスが問いつめると、使者であった男は言い淀む。

 誰だ、誰だ、と民衆さえも騒がしい。

「王よ。どうか、これから先私が申し上げることを努々ゆめゆめお疑い召されますな。私は真実しか、述べないのですから」

「無論だ。解っている。解っているから、さあ、話せ」

 男の再度の懇願がもどかしく、アタマスは必死に先を急かした。

 男は怯える眼差しを王から外した。そして震える指先をゆっくりと持ち上げ、王の側近くを指す。

「そちらに御座おわす王妃に相違ございません」

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