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牡羊譚  作者: 毛野智人
8/13

(八)

 使者が帰還したとの報せを受けて、アタマス王は早速使者を呼び寄せた。

「神託は何と?」

 尋ねる王の身体はやや前のめりになり答えを待ち侘びている。答えが吉と出ようと凶と出ようと構わない。兎に角、現状を変える言葉が欲しいのだ。

 しかし、使者は押し黙ってなかなか口を開かない。

 早く言えと促しても使者がなかなか言わないので、アタマス王は内容を恐れて急かすこともできなくなった。王が押し黙り、この沈黙がいつまで続くかと思われたとき、やっと使者は口を開いた。

「王の子供のうち二人を生け贄に捧げよ、と」

 玉座を囲んで側近達が控えていた広間がざわめく。

 生け贄の要求はすなわち、王の悪政に対する警告と同じことだ。

「神々はお怒りか! この私の治世に!」

 王は嘆き叫んだ。その悲痛な叫びに側近達は口を噤み、広間には再び沈黙が訪れる。

 正直なところ、アタマス王の治世にこれといって悪い点はない筈である。毎年の収穫も順調で、戦火に見舞われることもなく、民衆は平静を享受し、後継者にも恵まれている。

 否、そうではないのか。

 現在後継として立っているのはプリクソスだ。しかしそれは前妻ネフェレとの間の子。ネフェレはアタマスに何も言わず王宮を、この国を去った女だ。それは国と子供達を捨てたも同然であり、王妃としてあるまじき行為である。対してイノは自分の実の子ではないプリクソスとヘレを育てることを厭わなかった。突然に母を失った幼子の母として十分な働きをしている。従って、アタマスの正妻はイノであり、もはやネフェレは王妃とは認められない。それは民衆の誰もが同意することだろう。そのイノが男児を産んだのだ。正式な王妃の息子を後継者としなくては、この国を治める者として正統ではないと言える。

 もしや神々は間違った後継者を選んでいることを怒っているのか。

 政治的に私欲を優先させることのなかったアタマスに思い当たることはそれくらいしかなかった。

 プリクソスはアタマスにとって最初の子であるから可愛いことに違いはないし、贔屓目を抜きにしてもなかなか優れた息子であると思う。近臣からの評価も悪くない。それ故、プリクソスが後継者となることはごく当たり前のことだと思っていた。だが、イノとの間に息子が誕生した今、改めて後継を選ぶべきだと言うのか。正統の後継者が必要だと神の意思が示されているのか。そうだとすれば、二人の子とは新しく生まれた男児を除いた、プリクソスとヘレの二人を指しているに違いない。前妻ネフェレとの子二人を手放せということだ。確かに、アタマスの死後の国のことを思えば、異母兄弟の間に争いの種が生じるであろうことは予想がつく。だから今のうちに殺しておけと言うのか。

 アタマス王は頭を抱えた。

 神の意思は厳しく、残酷だ。

 人の意思も感情も無視して運命だけを廻す。

 人は神の意思に感情を乱されてもがき苦しむ。 

 どうすれば良いか、などと悩むことは何の意味もないのだ。結局、選択肢は一つしかないのだから。神の言うことには従わねばならない。それが人の定められた道である。

 アタマスは顔を伏せたまま臣下に命じた。

「プリクソスとヘレをここへ」

 長い沈黙のために緊張し切っていた臣下達は王の言葉にすぐには反応することができなかったが、一拍置いて最初に動けるようになった者が急いで広間を飛び出して駆けて行った。

「陛下。本当に、プリクソス王子を生け贄になさるのですか?」

 驚愕し王の心を疑うような厳しい声で尋ねたのはプリクソスの教育係である将軍だった。

「さよう。神の意思に従うことが、王として、人間として私が為すべきことだ」

「王子を失えば、ボイオティアの行く末が案じられましょうぞ…!」

「あれが優れているのは解っておる。私よりも王たる資質を備えているとお前が考えていることもだ」

 将軍は息を呑んだ。

 自分でも気付かないうちに王を軽んじる態度を取っていたか。国をあずかる者の前でそのような姿を晒したことが恥ずかしい。

「気にするな。王たるに相応しい者が誰かなど、解る者には解るものだ。私もまた、お前と同じように気付いていた。あれは王になる人間だと、育つ姿を見る程に強くそう思った」

 流石にアタマスも一国の王である。人を見る目は鋭く研ぎ澄まされている。

「ならばご再考下さいませ」

「いや、ならぬ」

 アタマスは頑にかぶりを振った。

「神は絶対だ。ここで私が従わなければ、誠にこの国の将来は無いであろう」

 父としてよりも王として国を守ることを選んだアタマスの決意を感じ取り、将軍はそれ以上何も言えなかった。

 そうしている間に、アタマスの二人の子供達が広間へ到着した。突然に召喚された二人は不安げに佇んでいる。

「プリクソス」

「はい」

「ヘレ」

「はい」

 王は峻厳な態度で兄妹を見据える。

「そなたら二人を大神ゼウスへ捧げる」

 二人の顔には明らかに絶望の色が射した。

「神の思し召しだ。撤回はしない」

 アタマスの通告にヘレは口を開閉させるばかりで言葉が出てこない。父王に応えたのはプリクソスだった。

「王が御自らご決断なさったのならば、私に異議はありません」

「兄上?」

「新しい王妃が王子を出産なされたのですから、私の存在はいずれこの国にとって面倒の種となるでしょう。災厄は早いうちから除いておいた方が良い」

 後継のことを考えることも王の務めであることを、プリクソスは既に理解していた。

「しかしヘレをも差し出そうとは納得が行きません。女の身でまさか王子に成り代われる筈もありませんし、力から遠ざけたいと言うのなら神殿に仕えさせればよろしい。命を奪うというのは、いささか横暴ではありませんか」

「全ては神がお決めになったこと。私には如何にも出来ぬ」

 プリクソスの問いを全く聞き入れようとしない父王に、プリクソスは更に問いを重ねた。

「誠に神がそのような理に適わぬことを仰ったのでしょうか。神は我々を恵み、導く者。理由もなく怒り、罪なき者の命を欲するとは私には思えません。父上はこの決断により利する人間がいないかどうかお考えになるべきです」

「なんと…王を、神を愚弄するか!」

 側近らの中から食い下がる王子の姿を非難する声が上がると、波紋の如くそれに同調する者達の声が高まっていく。終には王子を今すぐ祭壇へ引き立てよ、という合唱が起こった。声の集合が地鳴りのように大きく轟く。興奮状態にある広間の中で、王子は冷静に、毅然と言い放つ。

「私はこの王の命を安んじて受け入れると申し上げた。お望みならば今からでも自ら祭壇へ赴こう。しかし我が妹の命は見逃してはくれないだろうか」

 プリクソス王子の超然として高潔さをも感じさせる態度に場内は気圧される。王子の言葉には意外にもそのすぐ横から返答があった。

「いいえ。それには及びません。わたしも兄上と共に参ります」

「ヘレ…何故だ。お前が無為に命を落とす必要はないのだぞ」

「兄上にはわたしが付いています。ずっと」

 プリクソスは返す言葉を失った。真っ直ぐにこちらを見返すその瞳は、どんな神が説得しても揺るがない強さを湛えている。そういえば父王が新しい王妃を迎え、プリクソスが自らと妹の運命を案じていたときにも、ヘレは同じ言葉をかけてくれた。もうこの世界には、自分が守るべきものは眼前の妹だけしか居ない。プリクソスは力強く頷くことで妹の決意に応えた。

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