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牡羊譚  作者: 毛野智人
7/13

(七)

 雲が垂れ込めてきた。ボイオティアの中心部の上空は晴れ間が見える。しかしアポロン神殿に近付くにつれ、雲が濃くなっていくのだった。

 アタマス王より派遣された使者は神殿に向かう旅の途中、ボイオティアの国境付近に到着していた。いよいよ国境を越えようというところで街道の真ん中に人影が現れ、使者の歩を阻む。

「そこにいるのは誰か」

 使者は立ち止まり問う。肩を張って少しでも王に借りた威厳を示さんとした。目の前の者は日除けの布で顔を覆っており、何者であるか解らない。

「我はアタマス王直々に遣わされた者である。道を空けよ」

「そなたが私に命じられる身とは思わなかったぞ」

 使者が威勢良く言い放つと、その声に劣らぬ気高さを秘めた声が返ってきた。相手に有無を言わせない、張りのある女の声だった。

「あなた様は――!」

 女が布をずらして顔を見せると、使者はたじろぐ。そして慌てて膝をついた。

「ご無礼をお許し下さい! まさかあなた様がこのような場所へいらっしゃるとはゆめにも思わず!」

「よい。私とて身を隠しながらここまで来た。わざわざそなたに会うためにな」

「私に会うため、でございますか?」

 使者は女に顔を向けると、不思議そうに首を傾げる。

「そなたに頼みがある。これを聞いてくれればそなたに、広い土地、大きな屋敷、多くの奴隷、なんでも与える。そうして一生不自由のない暮らしを約束しよう」

 使者は驚愕して飛び上がった。 

「なんですって? 何故そのようなことを私めにお与えになろうと言うのですか?」

「そなたが私にとって、この国にとっての恩人となるからだ。もし、私の頼みを聞き届けてくれるならな」

 跪いている使者の目前に屈んで女は使者に目を合わせる。

「どうだ? 聞いてくれるかえ」

 甘えるような脅すような女の声に反応して使者は無意識に唾を呑み込んだ。

 喉に水分が通ると、使者は恐る恐る女に尋ねる。

「それで、その頼みとは?」

「神殿には行かず、王には次のことを伝えて欲しい。不作の原因は王の治世に対するゼウスの怒りである。これ以上の不作を防ぐには、王の子供二人を生け贄として捧げるべし、と」

「それはつまり…王に偽の託宣を伝えよ、と仰っているのですか?」

 女は無言で優しく微笑んでいる。しかし、微笑みの奥の目は笑っていない。使者は恐ろしいものを見る目で女を見返した。

「神の言葉をかたるなど、なんと恐ろしいことを…」

「何を恐れることがある? そなたは神を見たことがあるのか?」

「私などには神の御姿など見ることはできません」

「信心深いことだな。見えないものがいるという確証はない。あるのか解らないものが手出しなどできまい。私の企みなどお気づきにはなるまいよ」

 使者は戦慄した。女の企みに加担すべきではない。使者の一言によってこの企みが成就すれば、確実に王子と王女の二人の命は助からないだろう。なんの優れたところもない人間が、神の名を負って罪なき命が奪われるという事態を招いて良い筈がない。

「私の頼みを聞き届けるか否かはそなた次第じゃ。その後の褒美は先程言った通り。ただ、今私がそなたにこのようなことを頼んでいるという事実からは逃げられぬであろうな」

 使者は身を凍らせた。女の企みを知ってしまった時点でもう従わざるを得ないのだ。企みに加担し共犯者となって口を噤むか、良心の呵責から告白する前に口を封じられるか。

 見えない神よりも目の前の女が最も恐ろしい。使者は直近の恐怖に勝つことができなかった。震える声で屈服の言葉を絞り出す。

「…王にはそのようにお伝え致しましょう」

「感謝する。約束は必ず守ろうぞ」

 女は使者から答えを得ると踵を返し、瞬く間に使者の視界から消えた。

 使者はあのように返答した自分を責め嫌悪した。そして、去り際の女の満足げな笑みは一生脳裏にこびりついて離れないだろうと確信した。

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