(四)
イノがボイオティアの王妃になってから幾年が過ぎた春。イノの姿はすっかり王宮に馴染み、国中が王妃と認める存在になった。ヘレとイノとの関係も良好で、プリクソスも表面上はイノを継母として認めていた。国中の者達が王宮内に家族の情愛が満ちていると感じていたし、次代の王家を担う兄妹は二人とも見違える程に成長し、王子と王女の風格が漂い始めている。そんなボイオティアの行く末に何ら不安の影は見当たらなかった。
王宮の北の丘の上では剣戟の音が鳴り響く。
息をつかせぬ勢いで剣を交える二人の男を見てみると、片方はボイオティアの将軍、もう片方はプリクソス王子である。百戦錬磨の将軍の身のこなしは流石と言う他なかったが、プリクソス王子の腕前はまだ若く、相手の動きを読む余裕などはなく必死に攻防を繰り返すので精一杯のようだ。しばらくのやり取りのうちに将軍の一撃が王子の剣を薙ぎ払い決着がついた。
王子が息を切らせて将軍を見遣ると将軍は破顔して賛辞を贈った。
「なかなかのお手でしたぞ。日毎に上達なさっておられる」
「昨日の私と比べて何になる。手加減して戦っていたお前にも勝てないのだ。何の意味もない」
「全く、ご自身にお厳しい方でいらっしゃる」
将軍が苦笑すると、王子は厳しい口調で言った。
「別に厳しくなどない。今の私が戦に赴いても一介の兵士の力にも及ばぬ。そんな者に従ってくれる臣下などいるものか」
「成る程。確かにその心がけは正しいですな。部下は己が敬える相手の言うことは聞きますが、ひとたび相手が己より劣ると思えば勝手を致すでしょう」
「実戦からの経験か。では、敬える相手とは如何なる人物のことだ」
「己より秀でた部分のある者でしょうな。兵であれば武術に秀でた者、将であれば武に加えて知略に秀でた者」
「では、王であれば?」
「誰よりも秀でて勇気を持ち合わせている者でございましょう」
「勇気か。それは一体どういうもののことを言うのだ?」
王子の問いに将軍は窮し、手を上げた。
「殿下。さすがの私もその答えを明確に述べることは出来ません。私は勇気を知っていると言える程の勇気を持っていませんし、これぞ勇気と言える程の勇気を持つ者を見たこともございません」
「ならばお前は我が父もそれに見合う人物ではないと申すのか」
「恐れながら、そのように思います。アタマス王は確かに人並み以上の勇気をお持ちでいらっしゃいますが、勇気でご自身を律することはご存知でない。王とは国を統べる者ですから、確かに民の声を聞くべきでしょう。しかし、 何に立ち向かい、何を守るべきかということは結局のところ自身の心で決めなければならない。王は一人しかいないからこそ、一人の決断で何百という民の運命を背負うのです。その運命を引き受けるに価する勇気はアタマス王はお持ちではないと存じます」
そう言ったところで将軍は深々と自身の無礼を詫びた。
「申し訳ございません。一介の軍人が差し出がましいことを」
王子はすかさずそれを止める。
「良いのだ。私にそのように率直な考えを述べてくれたお前の勇気は、将軍に相応しいものなのだろうな。私は王子だ。なればこそ、お前の言う勇気を持った王となれるよう、努めねばなるまいな」
「ええ。そのためのお手伝いなら、いくらでも致しましょう」
笑顔に戻った将軍に王子は微笑んだ。
「では明日も剣の稽古をつけてくれ」
「お易い御用ですとも」
答えて将軍はプリクソス王子に王の資質を感じずにはいられなかった。将軍は幼い頃から王子の側に仕えていたので早くから王子の賢さに気付いていたが、まだ背も伸びきらぬうちから国のことを思い王の何たるかを考えているとは驚いた。いずれは父王の器を越えた名君となるだろう。将軍はボイオティアの未来のためにも王子を見守っていくのが自身に課せられた仕事やもしれないと感じていた。
「兄上!」
王子と将軍が帰りの身支度を整えていると、丘を駆け上ってヘレ王女が姿を現した。
「ヘレ。どうした」
王女は王女と言うよりかは未だ少女の趣で、岩肌が剥き出しの丘を飛び跳ねて来た。王子の目前に飛び出すと、王女は嬉々とした声で言った。
「早くお帰りになって。今夜は宴を饗すのですって!」
「宴だって? 何故こんな急に…」
「母上がご懐妊なさったのよ!」
無邪気な王女の口から懐妊という言葉が溢れた瞬間、王子の後ろに控えていた将軍の表情は固まる。将軍の位置からは窺い見ることは出来なかったが、プリクソス王子の表情は将軍以上に凍りついていた。