(二)
ボイオティアの王アタマスの元から妻ネフェレが去って幾月、アタマスが新しく妻を娶るという報せが国中に回った。一般の民衆にまで広まったこの報せは当然、王宮の中でも日々の話の種となっている。表面的には王宮内のどこからも祝賀の雰囲気が感じられたが、前妻ネフェレに近しかった者達の間には心から喜んでいない者もいた。そういった者達の間では、アタマスとネフェレの二人の子供――プリクソス王子とヘレ王女の行く末を危ぶむ声が囁かれた。そのような不安の声が当人達に届くことは避けられず、幼い兄妹は自身の人生に対する不安を漠然と感じていた。
ある昼の学問の時間、ヘレは兄であるプリクソスに話しかける。
「兄上、父上が今度結婚なさったら、新しいお后様はわたし達の母上になるのですか?」
「体面上はな。だが、その方が本当に我らを愛して下さるかは解らない」
「母上とは、わたし達を愛してくれる人なのではないのですか?」
「その定義は違うな。厳密には、母とは実の子を愛するものである、とした方が正しい」
「では、母上はわたし達のことを今でも愛してくれているのですね」
ヘレはぱっと明るい顔になった。反面、プリクソスの顔は複雑な心境を表している。無邪気に喜んでいるヘレから目を逸らし、プリクソスはぽつりと零した。
「愛しているのなら、何故何も言わずに去ってしまわれたのだろうな」
ヘレははたと喜ぶのを止め、兄を見つめる。
ネフェレが王宮を去ったあの夜、母の姿を見たのは自分だけなのだとヘレはあれからしばらくして知った。恐らく、母は誰にも知られずに王宮を離れるつもりだったのだろう。最後に一目我が子の顔を見ておこうと兄妹の部屋へ寄ったところ、偶々ヘレが目を覚ましてしまったので言葉を交わすことが出来たが、本来ならばネフェレはやはり何も言わずに行こうとしていたのだ。しかし、あの夜の母の腕が温かかったことはヘレにとっては紛れもない事実である。愛していなければ、母が子にその温もりを感じさせることは出来ないだろう。
「母上には何か事情がおありだったのです。わたしは、母上が今も兄上とわたしを愛していらっしゃると信じます」
自信に満ちた表情でそう言う妹にプリクソスは短く「そうか」とだけ言って、目を書物の上に落とした。僅かの間に発せられたその声に如何なる感情がこもっていたかは、幼い妹にはまだ解らなかった。
そのとき、慌ただしい跫と共に兵士が部屋に転がり込んだ。
「失礼致します。プリクソス様、ヘレ様、陛下がお呼びでございます」
プリクソスとヘレは顔を見合わせる。不安げな様子のヘレにプリクソスは黙って頷くと、兵士の後に着いて王の座す間へと向かうことにした。
広間には、兄妹の父であるアタマスが堂々と玉座に座していた。その左手に目をやると、上質な毛の衣を纏い、首には黄金の飾りが輝く美しい女が佇んでいた。
彼女を目にした瞬間、プリクソスはそれが新しい后であると直感した。
十歩程離れたところからアタマスは兄妹を見下ろして語りかける。王としての威厳を孕んだ声が広間に反響して幼い兄妹を四方から囲み込んだ。
「プリクソス、ヘレよ、お前達に紹介せねばならない人がいらした」
アタマスが件の女に目配せをすると、女はすっと兄妹の前に進み出て礼をとる。流れるような優雅な身のこなしと身なりの上等なことから、高貴な人物であることは明白である。
「テーバイから参りました。カドモスの娘、イノと申します」
カドモスといえばテーバイの建国者であり、プリクソスも勿論その名を知っていた。つまりこの女はテーバイの王女である。それだけの血筋の者が后となるのだ。誰も異議を唱えることは出来まい。恐らく、先妻の側にいた者達も黙ってこの婚姻を認めるだろう。プリクソスとヘレ兄妹の母の影はどんどん薄くなる。更にもしもイノとアタマスの間に子が出来れば、兄妹の居場所さえ危うい。
「イノがこれから私の妻、お前達の母になる。良い関係を築けるよう心がけよ」
「末永く、よろしくお願い致します」
にこりと微笑むイノに対して、ヘレは無邪気に喜んで「はい」と元気よく返事をしたが、プリクソスは警戒心を解かずイノを見据える。イノの目を射抜くように睨みつけながら毅然としてプリクソスは言った。
「私はプリクソス、これは妹のヘレです。ボイオティアの王子と王女として、新しい后を歓迎します。イノ殿におかれましては、早くこの地に慣れ、我が国にとっての幸いとなりますように」
「まあ! まだお若いのにご立派な挨拶ありがとうございます。私もお二人と本当の親子のように親しくなりたいと思っておりますわ」
イノは愉しげに先程からの微笑みを崩さずに言った。その表情にプリクソスは気が逆撫でされるように感じた。これ以上この女と言葉を交わしたくはないと思ったので、プリクソスは父王に向き直って言い放つ。
「それでは父上、まだ建国記の勉強が残っておりますので、そろそろ失礼致します」
当惑の表情を示している傍らの妹に小声で退室を促すと、妹の手を引いてプリクソスは足早に王の間を後にした。一歩踏み出してから、自分が妹を守らねばならないと決意していた。