(十二)
プリクソスとヘレを乗せた黄金の牡羊は既にボイオティアを越え、半島と島々に囲まれた碧海へ至ろうとしていた。しかし羊が駆けているのは雲の上であるため、兄妹は自分達が今どの辺りにいるのかを知らない。それに、雲の上の温度は低く、牡羊は物凄い速さで走るため、二人は寒さを耐えるのに必死だった。幸い羊の金の毛皮は温かかったので、兄妹はしっかりと羊の背にしがみついて寒さを凌いだ。ヘレを毛皮によく触れられるよう前に座らせ、プリクソスはヘレを包み込むような体勢をとっていた。
「兄上、お辛くはありませんか?」
「大丈夫だ」
心配するヘレにプリクソスは即答する。普段から将軍と武術の稽古に励んでいるプリクソスは、若者らしい強靭な身体の持ち主であった。とはいえ、儀式のための装束のまま防寒具も何も身に着けていないので、流石に冷たい空気が肌を突き刺す。それでも今は耐えるしかない。国を離れたプリクソスにとっては、妹を守ることが唯一の使命だ。兄妹のいる遥か上空に逃げ道はない。牡羊の導くまま、行くしかない。
「きっともうすぐ着きます。着いたら、温かい湯を浴びさせて頂きましょう」
「ああ。そうだな」
ヘレはこんなときでも気丈に兄を励ましてくれる。どこへ行くのか、あとどれくらいこの峻厳な航路が続くのか、何も解らないというのに、いつでも希望を持ち続けられる妹をプリクソスは誇りに思う。
牡羊が蹴り進む雲の平原に、漸く果てが姿を現す。
果てに向かって少しずつ雲の層は薄くなり、千切れていく。
プリクソスは雲の切れ間に碧色を見た。
――海だ。
目の醒めるような濁りのないその色の正体は、無数の島々に囲まれた大海だ。
千切れる雲を飛び石にして、黄金の羊が跳ねる。
その瞬間の大きな揺れに、ヘレは小さく悲鳴を上げた。
「ヘレ。目を閉じて、しっかり掴まっていろ」
眼下にはこの世の碧を全て集めたような底知れぬ深い色が広がっている。地に足を着けて見下ろしていたなら、その美しさに感嘆したかもしれない。しかしプリクソス達は雲と同じ高さにいるのだ。まともに下を見れば足が震える。プリクソス自身も目を開けてはいたが、なるべく真下は見ないようにした。
プリクソスは歯をぐっと食いしばり、前を見る。
視線の先では、海を囲むように雲が大きく晴れている。
ここを跳んだら、空を駆ける羊の足場となる雲は遥か彼方だ。
プリクソスが息つく隙もなく、黄金羊は最後の雲の一欠片を踏み切った。
驚くベき跳躍力を見せて牡羊は蒼穹に大きな弧を描く。
プリクソスは逆風に煽られ、上体を仰け反らせる。そのまま、身体を伏せることが出来ない。必死に羊の毛皮を両手で掴んで何とか堪える。
ヘレはプリクソスの言いつけ通り目を閉じて羊の背に掴まっていたので、自分が今どのような状況にあるか解らない。しかし、今まで散り散りの雲の上を跳ねていたせいで伝わっていた衝撃がなくなったことに安堵して、そっと目を開けてしまった。
「いや…っ!」
いとけない少女の瞳がその色と同じ紺碧色の大海をとらえた。
足下には落ち着けるものは何もなく、海までは巨人族の大きさは優に超えるであろう距離がある。経験したこともない高さにヘレは戦慄し、全身の血がどこかへ退いていくのを感じた。
恐怖がヘレの全身から力を奪っていく間に、牡羊は弧の頂点に達し、その軌道は落下へと転じる。その瞬間、落ちる、という感覚がヘレの全身を支配した。爪先まで満ちた恐怖と不安に耐えきれず、とうとうヘレは意識を手放してしまった。成熟していない細い身体が弛緩した。支える力をなくした身体がぐらり、と傾く。
「ヘレ!」
自身を支えるのに必死だったプリクソスがはっとしてヘレの身体を支えようと手を伸ばす。指先がヘレの裾を掠った。しかし王子の手は空を掴み、王女の姿はもうそこにはない。
「ヘレ——!」
プリクソスは慌てて足下を見た。
金色の髪を靡かせて、少女が広い海に向かって落ちていく。
プリクソスは毛皮を引き千切らんばかりに握り締め、黄金の牡羊に訴える。
「おい! 戻って、ヘレのところまで行ってくれ!」
この速さなら、落ちていくヘレを先回りして受け止めることが出来るかもしれない。しかし、王子の訴えも虚しく、雲の対岸へ着いた羊は行く方向を変えず走り続ける。
「何故だ! ヘレ…心優しき我が妹。ここで命を落とす咎などなかろうに」
プリクソスは落下していくヘレをどうすることも出来ず、ただ見つめているしかない。羊の脚は速く、落ちていくヘレから益々遠ざかる。
終にヘレの姿が見えなくなると、プリクソスは項垂れた。
「ああ、ヘレ。どうして、どうして」
プリクソスの頬を伝った涙は羊の黄金の毛に沁み込んでいく。
兄にとって妹だけが生きる希望だった。母の代わりに愛し、守ってきた。たった一人のかけがえのない妹を亡くすなど、到底受け入れられない。
自分がもっと強ければ、ヘレを確り抱えてやることが出来たなら、こんなことにならなかったかもしれないのに。
——何があろうともそれを受け入れ、克己する者にだけ安寧と栄誉が与えられる。
プリクソスの脳裏にヘルメスの言葉が甦った。
「もしや、神はご存知だったのか」
兄妹が揃って生き長らえることのないことを。兄は妹を失う運命にあるということを。だとしたら、何と非情なことか。
神は死ぬことはなく、人には無い力を持っている。人は力も無い上に、死を免れ得ない。だから、その身が滅びるであろう未来に向かって、少しでもその生を全うしようと望みを抱く。しかし、不死の神からすれば人の願いや希望など虚しいものだ。いくら未来に期待したところで、その運命は決まっているのだから。
ゼウスもヘルメスも、ヘレは海に落ちて命を終える運命だったのだと、知っていたのだろう。神は真実を知っている。だからプリクソスとヘレは救われた。真実を知らぬ人間達に殺されずに済んだ。
「知っていたなら、一緒に死なせてくれれば良かったではないか」
ヘレを失うと解っていたなら、無理に生きようなどと望みはしなかったろう。
こんな辛さを味わうと知っていたなら、もっと慎重にヘレを守っただろう。
プリクソスはきつく拳を握り締める。
今まで生きてきた中で、これほどまでに後悔したことはなかった。いつだって自身の理性に従って決断してきた。母がいなくなったときでさえ、これほど心に穴が空くような感覚を味わいはしなかった。
プリクソスが己の無力さを悔いるしかないこの状況にあっても、無情にも牡羊は雲の上を駆け続ける。
目を閉じればヘレの無邪気な笑顔を思い出す。
兄を頼って呼びかける声も憶えている。
しかし、いつも側にいると言ってくれた妹はもういない。
ヘルメスは全てを知っていて、プリクソスに自身の運命を受け入れろと言ったのだ。ヘレの死を乗り越えて、生きよと。
しかし今、プリクソスにはヘレのことを想って泣くことしか出来なかった。
プリクソスが一生分の涙を流した頃、黄金の牡羊は陸地へと降り立った。




