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牡羊譚  作者: 毛野智人
11/13

(十一)

 からの祭壇を取り囲む群衆は騒然としていた。

 元使者の男が告げた内容は、国の存亡を脅かすものであった。

 王妃が、神を騙り王子と王女を殺そうとしたなどと。それを信じられるのは確固たる勇気を持つ者だけであったろう。

「何を、血迷ったことを」

 アタマス王はたじろいだ。自分が答えを急かしたにもかかわらず、男の言葉を信じることが出来ない。

「まさか、王妃がそのようなことをする筈がなかろう! のう?」

 王は周囲に同意を求めるが、側近も、兵士達も、民衆も、王に同調すべきかどうか躊躇っている。真偽を確かめ合う臆測の囁きが聞こえるばかりだ。行き場を失った王の視線は隣の王妃に向かう。

「この者の虚言であろう? なあ、イノよ」

 同意を懇願する王に対して、イノはゆるりと口の角を持ち上げた。

「貴方様の信ずる方が真実でございましょう」

 アタマスは唇を戦慄わななかせ、一歩、二歩、後じさった。民のために真実を選択せねばならない、その重圧に押し潰されそうだ。

「――愚かなるかな、王よ」

 突如として響いた声にその場の誰もがはっとする。

 声の主を探せば、生け贄が不在の筈の祭壇に見たこともない美しい青年が立っていた。

「だ、誰だ!」

「我が名はヘルメス。迷える暗君に真実を伝えに参った」

 ヘルメス、という名にその場がどよめく。アタマスは相次ぐ変事のために冷静な判断力を失っていた。震えながら、目の前の男を嘲笑う。

「まさか。神が何故ここにいる?」

「哀れなことだ。ヘレンの孫ともあろう者が、私を疑うとは」

 ヘルメスは溜息を吐くと、仕舞っていた翼を広げた。

 神々しい銀翼を前にして、群衆からは感嘆の声が上がり、一人また一人と祭壇上の伝令神に平伏していく。唯一、王だけが虚勢を張った。

「真実だと? 一体貴公が私にどのような真実をもたらして下さると言うのか」

「お前の横に居る女の所業に関しての真実だ。アタマス王よ」

「なんと――!」

 やはり、自分の妻が何かを起こしている。アタマスはやっとそれに気付く。

「真と偽、正と不正の狭間で懊悩する王よ。さあ、聞くが良い」

 ヘルメスの厳粛なる命令にアタマスは震えながら従うしかない。

「カドモスの娘、イノこそがこの国から実りを奪い、罪なき王子王女の命までも奪わんとした張本人に他ならぬ」

 アタマスは息を吸った。しかし吸った息は声にならず、王の口からは無意味な気息音が漏れるだけだ。

「皆の者もよく聞け。その王妃は国中の女達を言い包め、隠れて麦の種を炒らせた。そして男達よ、そなたらは何も知らずに芽の出る筈のない種を蒔いて育てていたのだ」

 伝令神の告げた真実に、王を含めてその場に居た男達は凍りついた。

「その上、王の子たる兄妹を民の声により殺さんとした。もしも二人の犠牲が成っていれば、そなたらは王族殺しの罪を負っていただろう」

 女達は罪の重さを思い知り、祈りの言葉を唱える。

「王妃よ。申し開きはあるか」

 ヘルメスに問われ、イノは即答する。

「いいえ。ヘルメス神の仰せの通りにございます」

 王は王妃を凝視した。そして更に瞠目する。何故、この女は微笑んでいるのか。

「この私が、プリクソスとヘレを生け贄にするよう神がお望みだと王に伝えるよう、その男に命じました」

「随分と潔いことだ。まさか反省したとは申すまいな?」

「まさかそのような。私は当然のことをしたのですから、反省するつもりなどつゆもありませぬ」

 朗らかに答える己の妻をアタマスは怖れた。ヘルメスの告げたことを真実と認め、あまつさえ自身の行為を肯定したのだ。神を崇め、神を愛し、神と共に生きるべき人間の所業とは思えない。

「なんと恐ろしい女なのだ。お前は…」

 イノは思わず零れた夫の本心を聞き逃さなかった。目の前で怯える男を睨め付け、譏笑きしょうする。

「何もお気付きにならなかったのですか。そのようなことでは、やはり、王たる資質が疑われますわね」

 アタマスは絶句した。輿入れのときから一度たりとも自分に逆らうことのなかったイノが、蔑みの言葉を吐いている。

「王の威厳など血筋から借りているだけではありませんか。所詮は貴方も一人の男に過ぎぬということ。男は女の真の姿など知ろうともしない。だからこうなったのです。女はただ男に忍従するものだと思っておいでか」

 イノの目がらんと光る。

「女が男におもねるのは、己の命を守らんがため。そして、子の命を守るため。男が偉大であるからなどとは思い上がらぬがよろしかろう」

「お前は私を重んじてはいないということか」

「確かに初めはお慕いしておりましたとも。しかし、我が子レアルコスが生まれてからは、我が子のことが一番の気がかり。我が子が如何にして健やかに育つかを思案するのが私の務めとなりました」

 イノは自分が産んだ赤児をその腕に抱いてから、母親としての役割と責任を知った。腕に伝わる体温から、自分がこの子を守っていかねばならないのだと悟った。その想いは、アタマスの前妻との間の子であるプリクソスが着実に後継としての地位を固めつつあった王宮の中で、日に日に増大していった。完全なる庇護は危険性の排除と同義だ。つまり、イノの実子レアルコスが安心して成長出来るためには、王の第一子であるプリクソスを亡き者とすることが最も確実な手段である。そうすれば自ずとアタマスの後継者はレアルコスとなるのだから。

「女は男の知らぬ間に母とるのです。貴方は女の胸の裡などお考えになってみたこともないのでしょう。それ故、ネフェレ殿が何故、何も言わずに去られたのかも解らない筈」

「解る筈がなかろう! 我が子を放って姿をくらます女の考えなど!」

 無知をなじられ逆上するアタマスを見て、イノはころころと笑いを漏らした。

「ほら、ご覧なさい。貴方は初めから女のことを理解しようとなさっておられないではありませんか」

「では、お前には解るとでも申すのか? ネフェレの子を殺そうとしたお前に!」

「ええ。母と為った今となっては、あの方の心中がよく解ります」

「何を戯けたことを…」

「産みの苦しみをご存じない貴方には一生解らぬことでございましょう。母親が為す行為は、全て我が子のため。我が子を愛おしむからこそ、その子が末永く幸福であることを願い、手を尽くすのです。評判を聞く限り、ネフェレ殿は心根の優しいお方。ご自分の利益を優先なさるようなお方とは思えません。何か事情がおありで、王子と王女の行く末を案じて身を隠されたのでしょう」

「そこまで解っていて、何故王子と王女を殺そうとした?」

「私も母親だからですわ」

 母親だから、我が子を守るために最善を尽くした。

 イノにとっては、それだけのことなのだ。

 彼女の理屈で考えれば、それはネフェレが兄妹のためを思って王宮を去ったことと変わらず、当然のことなのだ。

「このままでは、貴方はきっとレアルコスよりもプリクソスを優遇する。男は何もしてはくれない。ならばわたくしが自ら動かなければならない、とそう思ったのです。幸い、民の間にも私に同調してくれる者達が多く、仕事が捗りました。国中の麦の種を炒らせるのは大変でしたけれど、思ったよりも容易く出来ましたわ」

 イノは微笑む。自分の成し遂げたことに甚く満足している様子である。

「そのような私怨のために、国中を巻き込んだのか」

 アタマスは全身から力が抜けてしまい、息も絶え絶えだ。理解不可能な妻の言葉に憔悴しきっている。

 イノは何一つ解り合えぬ愚かな夫に侮蔑の視線を投げつける。

「これは女の復讐なのです。貴方がた男に対しての。男達が仕事に勤しむ後ろで女達がどんなに身を削っているか。男達の仕事が上手く行くよう、準備をして。仕事の助けとなる子を産み、育て。家の中では男達の気分を損ねやしないかと気を揉んで。それなのに、一仕事の成功は全て自分達の力だけで成したものと思い上がっている。それで怨まれないとでもお思いか?」

 アタマスは抗弁に窮する。

「私は火を点けただけですわ。この国に満ちている女達の怨みに。そうしたら、ねえ、そんなにお困りになっておいでではありませんか。女の支えを失っては、何の実りも得られないとお解りになりましたでしょう?」

 何も言い返せずにいる夫を見て、イノは哄笑した。

 女の高笑いを遮り、ヘルメスがアタマスを諭す。

「王よ。これこそが真実だ。もう逃げようとはされぬのが賢明だろう」

 アタマスは項垂れる。それから、まるで老人のような弱々しい声でヘルメスに尋ねた。

「プリクソスとヘレは、どうなったのだろうか?」

「安心されよ。ネフェレの願いを聞き届け、ゼウスが二人を遠い地へ逃がすよう手配して下さった。今頃は北の海に至っておろう」

「…そうか。それで、我らの処遇はどうなる? ゼウスはどのような罰を与えるおつもりなのだ?」

「さてな。私は何も仰せつかってはいない。それに、神は自由気侭なもの。元より人間を公平に裁き、量刑を下すような存在でもない。己の罪は己で清めよ」

 ヘルメスはボイオティアの王と民衆に真実を伝えるという役目を終え、帰り支度のために翼を数度羽搏かせた。地を発つ前に思いついたように言い残す。

「ああ、そうだ。これからこの地に一人の男児が現れる。その者をしばらくの間、匿ってはくれまいか」

「それが罪滅ぼしになるのか」

「そう思うのはそなたらの自由だ。ただし、その行いに対して報いるかどうかは神の自由だがな」

 絶望の気色も露な王と悪れる様子のない王妃を残し、ヘルメスはオリュンポスへと飛び去った。

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