(十)
「兄上、兄上」
期待と不安の入り混じる妹の呼び声でプリクソスは目を醒ました。
「ヘレ? ここは? 私達はどうなったのだ?」
「よく解りませんけれど、わたし、ちっとも痛くなかったわ」
ヘレの答えは自身の実感であり、プリクソスの求めた客観的な説明ではなかったが、どうやら自分達はまだ生きているらしいことは解った。
「それに、なんだか柔らかいの」
「柔らかい?」
ヘレの言うことの意味を掴みかねてプリクソスは上体を起こそうと手を突いた。その刹那、自分の居る場所がひどく奇妙であることに気付く。肌に触れるふわふわとした感触は何だ。驚いて周囲に目を配れば、一面が薄灰色だ。細かな水と空気の粒子が織りなす雲の中に囚われている。否、守られている。これは一体、どういうことか。
――プリクソス、ヘレよ。
声が聞こえた。聞き覚えのある、優しい声。
プリクソスは真っ先にヘレを見た。ヘレもそれは同じであった。
「母上?」
プリクソスが確かめると、雲は笑った。
――ああ、嬉しい。私を憶えていてくれましたか。
やはり、母なのだとプリクソスとヘレは歓喜する。
二人を取り囲んでいる雲自体が、兄妹の実の母親であるネフェレなのであった。
「でも、どうして? どうして母上がこのようなことを?」
ヘレが尋ねる。プリクソスも問いを重ねた。
「何故今になって私達を助けるのです? 母上はずっと昔に我ら兄妹を見捨てられたのではないのですか?」
――そなた達に寂しい思いをさせて、本当にすまないと思っています。けれど、こうするしかなかったのです。
「どういうことです?」
母が姿を消した理由を知りたくて、プリクソスはネフェレに詰め寄る。
――私は雲の精。本来ならば人間と交わることはありません。しかしかつて、ゼウスは私に姿形をお与えになりました。ゼウスの奥方ヘラに似せた美しい人の形を。それ故、人間と触れ合うことが出来るようになったのです。
ゼウスはかつて、自身の義父を殺したイクシオンという男を罰するため、ある謀を巡らせた。その一環として雲から作られたのがネフェレであった。
――役目のために作られた者は、役目を終えればその形を失います。そのまま消え行く筈の運命でしたが、その前にヘラが私をアタマス殿と結婚させたのです。恐らく、ゼウスに勝手に自分の似姿を作られたことへの意趣返しだったのでしょう。しかし既に人に触れるために姿を留める必要のない私は、いずれ消えねばなりません。愛する我が子を授かっても、ずっと側にいてやることが出来なかったのです。
「それで、あの夜出て行かれたの?」
ヘレが尋ねると、ネフェレは頷いた。
――まだ人の姿であるうちに、王宮を抜け出さなければと思ったのです。雲となり消えるところを見られては、そなた達を疎んずる者達が出て来ましょう。人でもなく、神でもない者が母親であるということは、万人に受け入れられることではありませんから。
では、ネフェレは自分達を見捨てたのではなかったのだ。プリクソスはやっと安堵した。不在の母の分まで幼い妹を守ろうと決意したことは無駄ではなかったのだ。母の意思を代わって実行出来ていたのだ。
しかしまさかその母と再会しようとはプリクソスは思っていなかった。ネフェレが今、プリクソスとヘレと共に居るということは、当然、生け贄の儀式から二人を救出してくれてのことだろう。どうして二人が生け贄にされると解ったのだろう。
「何故、我らが死に際にあるとご存知だったのですか?」
――雲は形があって無いもの。側に居ることが出来なくとも、いつでも、どこからでも、そなたらを見守ることは出来ます。あの方が何を考え、動いたのかも、見ていました。そして、その心が固いことも解っていました。故に、そなた達を救うようゼウスに請うたのです。
「あの方?」
プリクソスの呟くような問いにネフェレは答えなかった。聞こえなかったわけではあるまいが、答えようとはしなかった。
――さあ、愛する我が子よ。別れのときが来たようです。
ネフェレがそう言うと同時に、兄妹は更に上空へと押し上げられた。それまでは薄暗い雲の世界に居たのだが、今、二人の眼前には一面に雲の平原が広がっている。太陽が白く光を放ち、蒼穹が間近にある。雲上の世界の美しさに言葉を失っていたプリクソスとヘレだったが、不意に目を眩耀する太陽の中心に一点の影が生じたのを認めた。しかもその点は徐々に大きくなっている。
「兄上。誰か来ます」
ヘレが不安そうにプリクソスの着物の裾を掴んだ。
プリクソスはじっと目を凝らす。
一瞬、大きな鳥かと思った。空を切る両翼が見えたからだ。しかし忽ちそれが間違いであると気付く。翼はあるが、その影は人の形をしている。すると間もなく、その人物はプリクソスの前に降り立った。どんな余計な美辞も要らない、美しい青年だった。青年はプリクソスを見下ろし、尋ねる。
「そなたがアタマス王のご子息、プリクソス王子か」
「はい」
プリクソスは緊張した。今まで会ったことのある誰よりも、偉大な人物であると一目で直観した。
「こちらは妹のヘレです」
未だ兄の裾に縋る妹の肩を抱き、プリクソスは挨拶をする。
恐る恐る自分を見上げるヘレを見て、その人は微笑んだ。
「可愛らしい王女様だ。私はヘルメス。大神ゼウスの伝令として参上した」
その名を聞いてプリクソスは息を呑む。
ヘルメスと言えば、知らぬ者はいない。ゼウスの子息であり、オリュンポスの神々にその名を連ねている伝令神だ。
「そなたらの母御の嘆願をゼウスは聞き届けた。そして、これよりそなたらを遠く、怨嗟の呪いの届かぬ地へ運べと命じられた」
「呪い?」
「ああ。ある女が私怨に国中の民を巻き込んでいるのでな。膨らんだ怨みは十分呪いを引き起こす。一刻も早くボイオティアから離れるのが得策だ。そのために良い運び手を連れて来たぞ」
ヘルメスが右手で招くと、全身が黄金色に輝く牡羊が姿を現した。あまりの眩さに、兄妹からは溜息が漏れる。
「ゼウスが用意して下さった。此奴がそなたらの行き先を知っている。この背に乗って行けば良い」
さあ、と促され、プリクソスはヘレと共に黄金の羊の背に乗った。
「王子よ、これから先何があっても運命を怨まれるな」
羊に跨がったプリクソスにヘルメスは語りかける。
「何があろうともそれを受け入れ、克己する者にだけ安寧と栄誉が与えられる。そのことを忘れ給うな」
「承知しております」
王となるための教育を施されてきたプリクソスは、ヘルメスの言葉を畏れることはなかった。若い王子の覚悟を確認するとヘルメスは頷き、羊の後背を打つ。羊は前脚を蹴り、雲の平原を走り出した。予想以上の速さで駆ける羊の背にしがみつきながら、ヘレは背後に消え行く者達へ声を張り上げる。
「母上、ヘルメス様! ありがとうございます!」
ヘレの必死の感謝にヘルメスは微笑んだ。しかしその笑みは単に兄妹の旅立ちを喜ぶものではなく、どこか憐憫の情さえ湛えていた。
兄妹を見届けると、母である雲は辞宜をする。
――ヘルメス様。ご助力頂き、まことにありがとうございました。
「いや。私はいつも通り、ただゼウスに従ったまでのこと。それに、私に出来るのはここまでだ。彼らの運命そのものを変える術はないのだ」
――十分でございます。再びあの子らと言葉を交わすことが出来ました。
「そうか。そなたが姿を借りたお方とは違って、慎ましいことだな」
ヘルメスは苦笑する。
「さて、私はもう一仕事片付けてから、オリュンポス山へ戻るとしよう」




