華につく虫
僕の目から見える毎日は、いつも灰色だった。
別に目に異常があるわけではない。ただ僕の感情がそう見せていただけだ。
きっと、僕の知らない世界では美しいものや楽しいことがたくさんあるのだろう、とは思う。
でも僕は、それが欲しいとは言わない。モノクロの世界もなかなかにいいじゃないか。
平凡で、普通で、平凡で。何か別のことをしようとするから失敗するんだ。
このままでいい、このままが幸せなんだ。
ずっとそう思いながら生きてきた。
はずだった。
あの日は確か残業で会社に残っていて、帰れたのは深夜だったかな。
今から帰ってあと何時間眠れるかどうか気にしながら僕は家路を急いでいた。
道行くとニュースキャスターが連続失踪事件がうんたらどうたら言っている。僕には関係ない事だ。
「ねぇ、あなた」
背後から突然声をかけられた。僕はこんな時に何だと思いながら後ろを振り向く。
そこにいたのは一人の女性。
女性、と一口に言っても。僕が見てきた灰色の女共とは明らかに違っていた。
灰色の世界で唯一彼女だけが色づいていた。
彼女は幼い頃、まだ僕の世界に色があった頃の全てをの色彩を全て持っていた。
唇は血のような紅色で、少しつりあがった目は海のような透き通る青。顔色こそ病的に白かったものの、その白さでさえ彼女の色を引き立てていた。髪色はつややかに黒く、街の色を反射しているように見える。
まとっているのは深緑のワンピースだった。
あんまり彼女が美しく彩られているので、僕は彼女を見つめたまま動けなくなっていた。
「ねぇ」
はっと意識が現実に戻される。
「あなた」
彼女が僕の顔を覗き込み、そして微笑む。
思ったより彼女の顔が近かったので、思わず顔をそらしてしまう。
「落し物をしたんじゃありませんか」
はて落とすようなものを僕は持っていただろうか?重要なものは全てカバンの中にしまってある。
「いえ、その、していないはず、です」
弁明。なんともみっともない弁明である。そんな僕を見て彼女は少し笑うと
「あら、勘違いだったみたい。ごめんなさいね」
それだけ言って彼女はくるりと僕に背を向けた。帰ってしまうのだろうか?
こんな道端で偶然会っただけの中だ。これを逃したらきっと二度と彼女と会うことはないだろう。
そう思った次の瞬間、僕は彼女を呼び止めていた。足を止める彼女。そしてゆっくりと振り返る
「突然こんなこと聞くのっておかしいと思うんですけど、その、名前を教えていただけませんか」
僕は一体何を言っているのだろうか。もっとほかに何かいい言い回しはなかったのだろうか。
見ず知らずの人間にいきなり名前を聞かれるのなんて不愉快に決まっているじゃないか。
ああ、まるで不審者じゃないか。
そんな僕を見て彼女は少し笑って
「変な人」
「でも、面白い人」
と言った。そしてもう一度僕の顔を覗き込み、答えてくれた。
「ミチ。ミチって名前」
「ミチさん、ですか」
「ええ、ミチ。そういうあなたはなんてお名前?」
「あ、アマヤと、言います」
「アマヤ、また会えるといいわね」
それだけ言うと彼女は、ミチは今度こそ振り返ることなく人ごみに消えていった。
僕はその場からしばらく動けなかった。ふわふわとする思考の中で
彼女の言葉と姿を何度も思い出していた。
その日家に帰ったあとも僕は寝付くことができず、一睡もせずにまた会社へと向かった。
もうきっと二度と会えないのだろうと半ば諦めていたのだが、偶然というべきか運命というべきか
ミチは次の日も同じところにいた。
思わず口から驚きが転げでる。
「なんで」
「ここにいたら、会える気がして」
僕のことを待っていてくれた。こんなに美しい女性が僕なんかのことを待っていてくれた。
今まで生きていた中でこんなに幸せなことがあっただろうか。
「せっかくまた会えたのだから、どこかでお話しない?どうかしら」
また思考が停止する。嬉しさで頭がふわりとして働いてくれない。ミチがもう一度「ねぇ」と言ってくれなかったら、僕はずっとこのままだったかもしれない。
「あっ、はい!喜んで」
「やっぱり面白い人。じゃあアマヤのおすすめのお店を教えてくれないかしら」
ミチの口から歌うように僕の名前が紡がれる。ミチが言えばどんな言葉も美しくなってしまうのだと思った
こんな現実離れしたこといつもは考えないのに、それでさえも彼女の影響なのだろう。
僕はミチをよく行くカフェに連れて行き、コーヒーを飲みながら様々な話をした。
その日から僕は、毎日のようにミチと出会った。ミチはいつも同じ場所で待っていてくれた。今まで僕が生きてきた時間のなかのどの時間よりも幸せで美しい時間が流れて行き、僕とミチは恋仲になった。彼女が僕の好意を嬉しい、と言ってくれた。
僕はミチを心の底から愛している。彼女にとって遊んでいるだけでも構わない、このまま彼女のそばにいられれば何も恐ろしいものなどない。
ミチにそのことを話すと、彼女は恥ずかしそうにクスリと笑った。彼女の頬が薄紅色に変わる。
やはりミチは美しい、この世の何よりも何よりも何よりも!
「アマヤ」
彼女の声がする。
「アマヤ、終電大丈夫?」
終電、という言葉で思考が徐々に現実に引き戻されていく。慌てて時計を見ると時刻はとっくに終電の時間を通り過ぎていた。
「だめ...だった?」
ミチが心配そうに僕を見る。ごまかすこともできずに僕はゆっくりと頷いた。
「ちゃんと時間は見ておかないとダメだよ」
「ごめん」
「そんな申し訳そうにしないでよ...ねぇ、いいこと思いついた」
ミチはにんまりと笑うと
「泊まっていきなよ」
と言った。ミチの家には何度か上がらせていただいているが、泊まって行けと言われたのはこれが初めてだった。
「悪いよ」
建前ではそう言ったものの、内心ものすごく嬉しかった。はっきり言って断る理由はない。
「いいのよ、私が泊まっていってほしいだけだから」
透き通るような青い瞳が上目遣いに僕を見る。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
僕は内心の嬉しさを隠しきれなかった。
なぜ彼女はこんなにも可愛らしくて聡明で美しくて、何よりいろとりどりなんだろうか。
僕の彼女にしておくにはもったいない娘だ、本当に申し訳ない。けれど彼女は僕を選んだ、それは紛れもない事実なんだ。今僕の目の前にいるミチは僕の、本当に僕のものなんだ。
彼女の家に着くと、一緒に風呂に入らないかと誘われた。僕は思わず赤くなり、しどろもどろに断った
ミチは「冗談」と笑ってもう疲れているからもう休んだらどうかといった。本当のところを言うと
僕の目はギンギンに冴えていた。しかしながら彼女の睡眠時間を減らすわけにもいかず、「そうさせてもらうよ」と答えた。
「じゃあ、アマヤはこっちのベッドで寝てね。私はリビングでいいから」
「えっ、でも」
「いいからいいから。アマヤはしっかり休んで」
そう言って彼女はリビングに戻っていった。
彼女が去ったあと、仕方なく布団の中に入る。しかしながら眠気は全く降りてこない。固く目をつむってみてもダメだ。僕は目を瞑りながらミチの事を考えることにした。
発想が気持ち悪いし余計眠れないけどもしミチが僕の様子を見に気でもした時に僕が寝ていなかったら心配するだろう。
なぜ彼女は美しいのか
なぜ彼女は色を持っているのか
なぜ彼女はなぜ彼女は
彼女への想いを馳せ始めてからいったい何時間がたっただろうか。寝室のドアが、きぃと鳴った。
ミチだ、やっぱり僕がちゃんと眠れているか確認しに来てくれたんだろう。
足音がこちらの方へ近づいてきて、僕のすぐ横で止まった。
「ねぇ」
確認するように彼女が僕に話しかける。
「ねぇ、寝てる?」
僕ならちゃんと寝ているよ。だから安心して部屋へお帰り。
頭の中で返事をする。
「寝てるのね」
ほっとしたような彼女の声がしたそして彼女は静かに部屋を出ていった。
本当にただの確認だったらしい。
それからまたしばらくして、僕はトイレを借りようとベッドから降りた。
そっと部屋から出る。
リビングに目を向けると、電気がついていた。
起こしてしまったのだろうか?いや、部屋の電気は最初から付いていたように思える。
妙にそれが気になり、無性に部屋を覗きたくなってしまった。いけないのは百も承知だ
しかし彼女が僕に何か隠し事をしているとしたらと考えるとやけに心配になってしまい
僕はリビングを覗き込んだ。
ミチが床に座り込んでいる。耳を澄ますと何か咀嚼するようなくちゃくちゃという音がかすかに聞こえた。夜食でも食べているのだろうか?なら普通にテーブルで食べればいいのに。僕は彼女が何を食べているのか気になり、かすかにドアを開けた。何か、臭う。
ミチがふとこちらを振り返った。顔に何か液体がへばりついている
「アマ、ヤ?」
顔だけではない、手にも、服にもついている。
「なんで、寝てたんじゃ」
「ミチ、どうしたの」
「見ないで、見ないで!」
彼女が立ち上がる。足元に見えるのは、人の
死体のようだ
しかも一つではない、部屋の隅に腐臭を放つ死体が何体も積み上がっていた。
「ちが、違うの、でも私」
ミチが何やら錯乱しているようで、頭を抑えている
僕はどうしていいか分からず、彼女を抱きしめるしかなかった。
どうやら彼女は一人であの死体たちを平らげようとしたらしい。
「あなたにだけは見られたくなかったのに、私、私、今日は食べないって決めてたのに殺しちゃいけないって思ってたのに、ダメなの、どうしても、ダメだった、警察に行くんでしょう?通報するんでしょう、そしたら、私私また殺さなきゃ」
これでようやくわかったことがある。彼女が色を持っている理由が。
「大丈夫、大丈夫。なんだ、こんなことだったんだね!」
ミチが驚いたように僕の顔を見る。
他人の色を彼女が食べて取り入れているから美しかったんだ、それで全てに納得がいく。
「大丈夫、愛してるよミチ、君は美しい。非難なんてしないよ?僕は君を、君の色を愛している。
一人でよく我慢してきたね、えらいよ」
そう囁いてあげるとミチは崩れ落ち、泣き始めた。彼女の色を保持するためにいったい何人の人間が犠牲になったのだろう。僕はその犠牲者たちに感謝したい。君たちのちっぽけな命のおかげでこんなにも美しい女性が出来上がったのだから。
「だからね、ミチ。これからは」
僕に
それからしばらくして、僕は会社を辞めた。マンションも引き払った。ミチと一緒に暮らすためだ。
彼女は、あのリビングにいる。もう一人で苦しむ必要はない、だって僕がいるから。
僕は彼女の代わりに人を殺すことにした。殺人なんて野蛮なことミチにはさせられない
それと、ミチを外に出さないことにした。鎖でつなぐのは嫌だったけど、思ったよりミチが暴れるので
仕方なく繋ぎとめた。これで変な虫はつかないだろう。
「おかえり、アマヤ」
「ただいま、ミチ」
僕だけの華
平凡な人生の終わり