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教室の窓から見える桜の木々はとうに花を散らし、深緑の葉が陽光を絶え間なく照り返している。連休も過ぎ去ってしまった5月の中旬――俺が高校生になってから、およそ一月と半分が経とうとしている。
入学当初は、新しく始まる高校生活に胸を膨らませ浮ついていたクラスメイト達も、何の変哲もない勉強ばかりの生活に慣れはじめ、今日とて繰り返される授業を目の前に、皆辟易としている。だが、やはりと言うべきか例外もいるようで、そいつは俺の背中をシャープペンシルの先で小突きながら揚々と話しかけてきた。
「なぁ文斗、昨日までこんなもの此処にあったか?」
振り返りながら「んぁ?」と相槌を打って応え、草己の指差す方へ視線を向けた。俺の目に入ってきたのは、多くの教育機関で見られる一般的な一組の学校机と椅子だった。今いる場所が高校の教室内であることを考えれば、不思議に思うことはない。だが、草己が訊いてきたことは、それに対してではなく、それの置かれている位置についてだ。
「誰かが空き教室から運んできたんだろ」
このクラスにおける俺の席位置は窓際から二列目の後ろから二番目である。言わずともわかっているだろうが、草己の席は俺の後ろだ。このクラスの生徒人数は四十人であり、机は横に六列、縦に七列に並べられている。ただし、そのままでは机が二脚余ってしまうので、最後列の両端は最初から机が取り払ってあった。つまり、昨日までは草己の席の左隣には何もなかったのだ。
「ホワァイ?」
本人はwhyと言ったつもりなのだろうが、お世辞にも上手な発音とは言い難かった。ただ、日本人同士の会話なので然したる問題はないし、言いたいことも伝わる。
「さぁな……誰が何のために運んできたかは知らんが、単に片付け忘れただけだろ」
俺も朝登校してきた時に、この机に気づいて疑問に思わなかったわけではない。けれども、俺より先に登校していたクラスメイトの会話に耳をたてても、この机を話題に挙げている様子はなかった。誰も何も言っていないのでは、大した事ではないのだろうと判断した俺は、そのまま関心がない振りを続けていた。その後もこの机を気に留める人は何人かいたが、結局声に出して誰かに訊こうなんて奴は、草己を除いて一人としていなかった。
それだけ日常ってものは易々と変わるものではなく、誰も変化するなんて思ってもいないのだ。
「やっぱあれか。こういうのは、突然の転校生がやってきて、しかも目を見張るような美少女! そして、それは運命の出会いであって、そこから紡がれるは淡く切ない青春のロマンスッ!!!」
「ハッ……」
手を組み、天井と壁の境目あたりを見上げながら、草己は口早に言葉をはしらせる――それを俺は、鼻笑いで一蹴した。
「漫画の世界じゃあるまいし」
「夢がないなぁ」
首を左右に振りながら溜息混じりに言う草己――
「夢がなくて結構、俺たちが生きているのは夢の中じゃない……現実だ」
なおも頑なに言い張る俺――
そんな、明日になったら中身を忘れていそうな他愛もない会話をしているうちに、座る主のいない席を残したまま授業の予鈴が教室内に鳴り響いた。
時計の針は、そろそろ十時を指そうかとしている。
空は快晴、雲ひとつとなく雨が訪れる気配は微塵もない。もう春の色も大分薄れてきており、初夏に入ろうかという時期もあって、冬服の制服ではもう暑いくらいだ。教室の中には、耐えられずに制服の上着は脱いで椅子の背もたれに掛けている者もちらほらと見える。
窓から吹き込む風は、頬を撫でる程度のもので、カーテンの端を不規則に揺らめかせている。
教室の外は物音ひとつとなく静まり返っており、活力を持て余し気味な少年少女を抱え込む教室の中も、口を開こうとする者はいない。教壇に立っている初老に近い中年教師も、あまり弁を振るうほうではないらしく、合間々々に最低限の解説を述べるのみである。教師が黒板にチョークを押し当てるカッカッという音だけが教室内には響いている。
そんな中、俺は、自身の左後ろに置かれたままの空いた机の存在を頭から拭い去れずにいた。
本当に転校生が現れるとでもいうのか……
考えるな。俺はもう変わったんだ……
まるで何かを忌避するかのように、俺は頭の中で何度も自分に言い聞かせていた。
スピーカーから流れ出たチャイムの音が二時限目の授業時間の終了を告げる。
それを聞いた教師は、「次回は今の箇所の復習から始めます」と言いながら手に持っていたチョークを自前のチョークケースにしまう。そのまま、教材とを腕に抱え教室から出て行く。
沈鬱な教室内の空気を払拭させるが如く、クラスの皆が小さく呻き声をあげながら腕を伸ばしたり、周囲の友人に会話を切り出したりする。二時限目の後はまたすぐに授業というわけではなく、ショートホームルームがあるため他の授業と授業の間(もちろん昼食休憩は除く)よりも休憩時間を多めにとれる。なので、クラスメイトたちは思い思いの方法で羽を伸ばす。
そんな中、俺の頭も絶賛クールダウン中である。右手で頬杖をついて窓の外を眺めていたのだが、俺の視界に千世が左右にまとめた髪をピョコピョコと揺らしながら入ってきた。
「ねぇねぇ! あやちゃん」
「………………」
俺は視線をずらし、再び窓の方へと向けた。
「あやちゃんってばー」
「…………」
視線を千世に戻し、半目でしばらく睨んでいたが、千世が笑顔で見つめ返してくるので、こちらが折れざるを得なかった。
「俺の名前はあやとだ。縮めた挙句、ちゃんづけなんかにして呼ぶな」
最早何度としたかも覚えていない無駄な抵抗だった。
「だってあやちゃんはあやちゃんじゃない」
こいつも、いつもの如くニコニコとした顔で返してきやがった。
「お、いつもの痴話喧嘩か」
「違うっ!」
後ろから草己が机の上に身を乗り出して口を挟んできた。そこにすかさず否定のつっこみを入れる。
「そうだよ。わたし別にあやちゃんと喧嘩しているわけじゃないもの」
千世よ、そういうことを言っているわけではないのだが。
「んで、小金井さんは文斗に話しがあったんじゃないのか?」
吹っかけてきた本人ではあるが、草己もこのやり取りにはすっかり慣れたようで、話題の軌道修正もお手の物である。
「そうそう、大変なのよ」
「あまり大変そうには聞こえないのだが……」
「でも聞いたらビックリするよ。きっと」
普段はあまりゴシップに興味を示さない千世なので、上機嫌になって俺に真っ先に喋りにくるあたり、事実凄い事なのだろう。
「それで、一体なんだって?」
「このクラスに転校生がくるんだって」
…………
「ハァ゛?」
「え……ちょ、マジ?小金井さん」
転校生の言葉が耳に届いたのであろう、俺たちの周囲の何人かがざわめきはじめる。
「ホントのホント。さっき職員室に行った時に聞いたんだ」
「男か? それとも女子!?」
俺が絶句している中、ひとり盛り上がる草己――
「さ、さぁ……わたしも転校生が来るってことを聞いただけだから」
「むぅ、実際に会うまではわからぬか。しかし、それならば謎の美少女転校生の可能性もまだ有り得るな」
未だにそんなことを宣うのか、貴様は。
「どんな人だろうね?」
「転校の時期としては確かに妙だ。けれども、転校生だからと言って俺たちと変わらない単なる高校生だ。別段何かがあるかけでもないだろう」
ようやく落ち着いてきた俺は、努めて平静の声で答えた。
親の転勤なんかの都合といった出来事も、世間的に見ればそれなりに有り得ることだと納得できる程度には俺たちも大人であるが、普通に考えれば転入生というステータスだけで充分に特別である。だけど、それを俺は受け入れなかった。
しばらくとしない内に教室の前方側の戸がガララッと音を立てて引かれ、青年の印象をまだ残した若い男性がひとり入ってきた。まだそれほど着古されていないであろうスーツを着た担任教師は、「ショートルームを始めますよ。席に着いてください」と平時の声より少し大きめのボリュームで生徒たちに声を掛けつつ教壇に上った。
席を離れていた者たちが自身の席へと戻っていく。千世も例に漏れず、「また後でね」と言葉を残し、ヒョコヒョコと早足に戻っていった。
担任教師の辻岡が目で教室内を一通り見回し、生徒を確認する。
「まずは今日の出席から取りますね。東谷くん」
辻岡に呼ばれた東谷が「はい」となんとなしに応える。それが滞りなく四十人分繰り返される。そのまま連絡事項に移ったが、とりわけ事もなかったらしく、内容は時事話がほとんどを占めていた。
連絡にもなっていない連絡事項の伝達を終えると、辻岡は左腕にした腕時計に目を移して時間を確認した。
「あともう一つ、皆に重大な知らせがある」
日常会話程度の連絡伝達だったために、辻岡の声の大きさは、平時のものと変わらぬほどになっていた。
「何人かもう知っている人もいるだろうが、このクラスに転入生がひとり加わることになった」
転入生をクラスの皆に紹介するとすれば、この時間しか考えられない。転入生の噂を耳にしていた者たちは、ショートルームがはじまる時間から落ち着かない様子が目に余っていた。そして、いよいよ転入生のご登場が目の前に迫り、余計にそわそわとしている。
「火輪路さん、入ってきてもらえるかな」
辻岡が教室に入ってくる時にひいて、開いたままとなっていた戸口の陰からひとりの少女が姿を見せた。
クラスメイトたちが息をのむ――主に男子。
彼女の身なりはこの学校の女子生徒の皆が来ている指定の制服である。既に見慣れた、この学校に通う女の子の一般的な服装である。だが、彼女の整った顔立ち、流麗な金髪、曇りのない碧眼、透き通るような白い肌、慎ましやかでスレンダーなプロポーション……挙げれば限のないその美貌の前では、彼女の着ている学校指定の制服も、他の女の子たちが着ているものとは違う、彼女のため誂えられた一品物の服に見えてきてしまう。
ざわついていた教室内は、ドールのような妖しい美しさをもつ転入生の登場によって、すっかり静まり帰っていた。
皆が見入るような視線を送る中、少女は教室内に足を踏み入れ、教壇に上がる。そのまま辻岡の隣まで進んだところで足を止め、クラスメイトとなる者たちへ向き直った。
「イギリスからの転入生で、火輪寺=ユナ=エミリアーナさんだ」
辻岡に紹介された火輪路は、クラスメイトたちからの眼差しを一身に受けているが、それに動じることはなかった。むしろ、転入生として紹介されているという状況下では、彼女の態度は冷静すぎるといえた。
「火輪路さん。緊張しているのかもしれないけど、クラスのみんなに自己紹介をお願いできるかな?」
沈黙を続けていた火輪路に、辻岡は声を和らげて言った。そこでようやく、今まで一の字を結んでいた彼女の口が開かれた。
「俗世の烏合の衆に掛ける言葉など、本来は持ち合わせていないのだが……辻岡教諭の申し出だ。貴様らは特別に、我が言葉を耳にすることを許そう」
一同唖然だった。
火輪路は大仰しく右腕を前へと上げ、そのまま言葉を続けた。
「我が名は、エミリアーナ=ユナ=火輪路。夜の血族の末裔にして、炎の守護神柱を司る者なり」
なんとも痛々しい自己紹介である。自己紹介の中でちゃんと自己紹介として機能していたのは、結局名前の部分だけだった。その他の部分はまるで、漫画に出てくる敵キャラが主人公に対して初めて会った時に掛けた台詞から、抜き出したかのようなものだ。見る目も当てられない。
あんなのと一緒にいたら俺のことまで痛い人に見られかねない。学校で火輪路に関わるのは全力で回避しよう。
「ア……ハハハ……火輪路さんは長い間イギリスで暮らしていて、その時に日本のアニメに興味を惹かれたのかな? 硬くなりがちな自己紹介の雰囲気を、冗談を交えて和らげてくれるなんて」
火輪路の衝撃的な自己紹介から我に返った辻岡が、すかさずフォローに入った。第一印象というのは人付き合いの中では重要だ。今後の高校生活もまだ先が長い。転入生という目立った立場にいる火輪路にも、早くこのクラスに馴染んでほしいという辻岡の配慮だろう。教職に就いてまだ日が浅く、あまり波を立てたくないという辻岡の願望もあるだろうが。
しかし、そんな辻岡の計らいは無意味だった。
「わたくしはあまり冗談を好まないわ。全てが事実にして真実よ。そうね、貴方たちの頭が、わたくしの高等な言葉についていけなかったというのなら、わかりやすく言い直してあげるわ。そうね……闇に生きる炎の守護者といったところよ」
冗談にしか聞こえないし、言い直したところで全くもってわからない。
日本語は達者だし、日本に行けばSamuraiやNinjaに会えると信じていた類でもないだろう。彼女は本気だ。本気で中二病の己を貫こうとしている。
駄目だこいつ……早くなんとかしないと……
「えー……と、自己紹介もこの辺でいいかな。基本的なことは事前に渡した資料とさっきの説明で充分だろう。他に何かわからないことがあれば、クラスの人に訊くといい」
埒が明かないと踏んだ辻岡は、無理矢理に火輪路の紹介を終わらせる。
「火輪路さんの席は教室の窓側の一番奥に用意しといたから、それを使ってくれ」
今まで正面を向いていた火輪路の顔が、窓際奥の空席に向けられる。
火輪路は無言の会釈で辻岡に了解の意を伝えると、教壇から下り、辻岡の前を通りそのまま机の並ぶ中を進む。窓際から一列目と二列目の机の間を悠然と歩いてくる。
お嬢様のような気品を感じさせる歩みで近づいてくる火輪路を見ると、改めて思う……美人だと。こういう人が高嶺の花と言われる人種なのかと初めて思った。
先程の言動がなければ――
非の打ち所がない見目をしているがために、中二病を患っていることが余計に残念に思われる。近づき難いオーラを纏っているが、それが彼女の麗しい見た目によるものなのか、常軌を逸した言動によるものなのかはわからない――両方だともいえるが。
そこでふと、彼女と目が合う。俺は条件反射のごとく目を逸らした。
一瞬だが彼女の眼に、鷹が獲物に狙いを定める時のような、鋭い眼光が見えた気がした。恐る恐る目だけを彼女の方へ戻すと、彼女は俺の席の近くで立ち止まり、座る俺を見下ろしていた。ほんの暫く(俺にはかなり長く感じられたが)俺を見ると、口元に笑みを浮かべ彼女は横を過ぎていった。
え?なんで俺のことを見たんだ……
もしかして気がある?運命感じちゃったとか!?
そんなわけあるか!!
とにかく、あんな痛い女に関わるのはご免だ。近づかないようにしよう。
俺が変な錯乱に陥っている中、火輪路は自身の席までたどり着いていた。
「まさか隣に転校生が来て、しかもこんな可愛い子だなんて思ってもいなかったよ。あ、俺は陸奥塚草己って言うんだ。火輪路さんよろしくなー」
手を差し出し、軽く自己紹介を交えつつ挨拶する草己だが、これに対する彼女の反応は無視――ノーリアクションだった。何事もなかったかのように火輪路は机の横に持っていた鞄を掛けると席に着いた。
「あれあれ? もしかして俺、初対面で嫌われちゃった。それとも、高貴な彼女には、一般ピーポーな俺はまるで見えていないということかな?」
虚しくも放置された手を戻しながらちゃらける草己――お前のその精神力が羨ましいぜ。




