第四話 ラクダ
第四話 ラクダ
夜。
仕事帰りの駅前は、相変わらず人で溢れていた。
トシノリは少し疲れていた。
体だけじゃない。
頭の奥に、昼間の出来事が残っている。
――観測者。
黒いスーツの男。
「戻れなくなる」
その言葉が、何度も頭の中で反響していた。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
その時だった。
視界の端に、光るものが入る。
コンビニ。
ガラス越しに見える、冷凍ケース。
そこに並ぶ――チョコアイス。
足が止まる。
「……」
今日くらい、いいんじゃないか。
そういう声が、自然に湧いてくる。
疲れてるし。
頑張ったし。
少しくらい――
「ねえ」
頭の奥で、ルルの声がした。
「ラクダ、覚えてる?」
トシノリは少しだけ眉をひそめる。
「……それ、なんだよ」
思わず小さく呟く。
「ちゃんと説明しろよ」
ほんの少し、苛立ちが混じっていた。
ルルは少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「人ってね」
「欲しいものと戦うと、だいたい負けるの」
トシノリはコンビニを見つめたまま、黙って聞く。
「だから、戦わない」
「距離を取るの」
「ラクダみたいに、ゆっくりね」
「……距離?」
「うん」
ルルの声は落ち着いている。
「無理に我慢しない」
「でも、近づきすぎない」
「少し離れて、見る」
「それだけ」
トシノリはしばらく何も言わなかった。
チョコアイスは、まだそこにある。
変わらず、美味しそうに見える。
「……そんなので変わるのか?」
「やってみて」
短い答えだった。
トシノリは、ゆっくりと息を吸う。
そして――
一歩、後ろに下がった。
コンビニから、ほんの少し距離を取る。
たったそれだけ。
それだけなのに――
少し、感覚が変わった。
さっきまで“引っ張られていた”感じが、少しだけ緩む。
もう一歩、下がる。
店の光が、少し遠くなる。
深く、息を吐く。
「……」
静かになる。
頭の中も、少しだけ。
トシノリは、そのまま数秒立ち止まった。
そして――
コンビニから視線を外した。
「……これか」
小さく呟く。
「うん」
ルルが少しだけ笑った気配がした。
「それが、ラクダ」
トシノリはもう一度、コンビニを見る。
チョコアイスは、まだそこにある。
でも――
さっきほどの強さはない。
「……なるほどな」
完全に消えたわけじゃない。
でも、選べる。
その感覚があった。
トシノリは踵を返す。
歩き出す。
コンビニとは反対方向へ。
「いいね、相棒」
ルルの声が、少しだけ嬉しそうだった。
「ラクダ、乗れてる」
トシノリは少しだけ笑う。
「その言い方、なんか変だな」
「大事だよ?」
「ラクダに乗れなくなると、遠くまで行けないから」
その言葉に、トシノリは少しだけ真剣な顔になる。
「……高千穂か」
「うん」
短い返事。
でも、その中にいろんな意味が込められている気がした。
トシノリは夜空を見上げる。
ビルの隙間に、少しだけ星が見えた。
「なあ、ルル」
「なに?」
「俺、本当に行けるのか?」
少しの沈黙。
そして――
「もう、向かってるよ」
静かな声だった。
トシノリは目を細める。
その言葉が、不思議としっくりきた。
足は止まらない。
日常の中を歩きながら、
確実にどこかへ進んでいる感覚。
ポケットの中で、拳を握る。
見えない何かを、確かめるように。
「ラクダを忘れるな」
その言葉は、もう“合言葉”じゃなかった。
進むための、方法だった。
遠くへ行くための――
静かな力だった。




