寡黙な領主、初めて嫉妬した夜に妻を独り占めしたくなった
強領――ミンスタ領の姫を迎えて半月。
辺境のワスト領に嫁いだ妃シリは、新たな生活を心から楽しんでいた。
今日もまた、ドレスの裾をたくしあげ、森の奥へと嬉々として足を踏み入れる。
執務室の窓からその後ろ姿を見つけ、重臣オーエンが呆れたように呟いた。
「グユウ様、妃がまた森に・・・」
「またか」
「森に・・・いったい何の用事が?」
サムが首を傾げる。
「薬草を探していると聞いた」
オレは淡々と答える。
怪訝な顔を見合わせる重臣たちに、老臣ジムが笑みを浮かべて答える。
「シリ様曰く、ワストの森は宝の山だそうで」
「・・・変わった妃だ」
オーエンは横目でオレの様子をうかがった。
その眼差しには『妃とは部屋に籠り、刺繍や茶会をすべきだ』という古い価値観が透けて見える。
「そのままで良い」
そう告げると、オーエンは不服そうに一礼した。
「さて、会議を始めましょう」とジムが促す。
――オレの妻は、どうやら普通ではないらしい。
女でありながら、妃でありながら、彼女の興味は馬、戦法、領土、国政、武器。
ひとたび心を惹かれれば、夢中で調べ尽くす。
わずかな期間だが、話を交わせばすぐにわかる。
彼女は、オレなどよりずっと領主にふさわしい胆力とカリスマ、そして優れた頭脳を持っている。
もし男に生まれていたなら――立派な領主になっていたに違いない。
小さくため息をつく。
――やはり、彼女はこんな弱小の領主の妃に相応しい人物ではない。
その輝きは、ただ美しいだけではない。
見る者を圧倒し、心を掴まずにはおかない。
その隣に立つ自分が、あまりにも釣り合わぬ存在に思えた。
森から戻ったシリが薬草の効能を語ると、家臣たちは感心してうなずいた。
ただ一人、オーエンだけが顔を背ける。
あえて冷たく無視するような態度。
だがオレは見た。
視線を逸らす直前、暗灰色の瞳がシリを射抜くように追っていたのを。
それは憎しみではない。
むしろ熱を帯び、本人さえ気づかぬ執着がにじんでいる。
胸の奥がざわめく。
なぜオーエンの目に苛立つのか――自分でもわからなかった。
そして、シリもシリだ。
どうして、あんなふうに微笑む。
どの男も――皆、鼻の下を伸ばしているではないか。
嫁いできた頃は凍りつくような眼差しで、決して笑わなかったのに。
その笑みを見るたび、胸はチリチリと疼いた。
言葉にできない苦い熱を抱えながら。
◇
夜、寝室に入ると、シリは蝋燭の火元で本を読んでいた。
オレの顔を見るなり、ぱたりと閉じ、嬉しそうに目を細める。
逢えて嬉しい――そう言わんばかりの表情。
明るい日差しの中の彼女も美しいが、月明かりに照らされて微笑むシリは、さらに美しい。
――そう伝えたいのに、言葉が出ない。
ただ黙って見つめるだけ。
気の利いたことは何ひとつ言えないのに、彼女はいつも笑う。
少し上目づかいで、そっと袖を引いた。
ーーこれは、お誘いの合図なのだろうか。
いや、昨夜も抱いた。
さすがに毎晩は・・・。
それを口に出すことはできない。
「・・・口づけを、してもいいか」
やっとの思いで言うと、シリは拗ねたように唇を尖らせた。
「・・・いいですよ」
――可愛い。なんて可愛いんだ。
ふっと笑う彼女。
唇を重ねる。
窓の外では月に照らされた湖面がきらめいている。
深く口づければ、その先を求めてしまう。
だから少しだけ身体を離した。
だが、彼女はじっと見返す。
――まるで続きを望むように。
いや、希望的にそう見えているだけかもしれない。
勇気が出ず、頬にそっとお休みの口づけを落とした。
すると、彼女の方から抱きつき、唇が追いかけてきた。
柔らかな感触に眩暈がする。
――女性の方から唇を求める。
規格外の彼女に、抗えるわけがない。
深く、深く口づけを交わした。
――独り占めしたい。
この顔も、この声も、この表情も。
オーエンのあの眼差しを思い出すたび、独占欲は募るばかりだった。
名を何度も呼びながら、強く抱きしめる。
けれど、抱きしめるほど胸はざわめく。
『あまり他の男と仲良くするな』――そう言えたならどれほど楽だろう。
だが、それではみっともなく縋るだけの男になる。
結局、口をついたのは、ただ一言。
「・・・すまない」
額を肩に押しつける。
シリは静かに笑い、
「・・・グユウさん」と囁いて眠りに落ちた。
その声は耳に触れただけで心をほどく。
胸の奥の嫉妬も溶けていく。
――だが同時に、その声を奪い尽くしてしまいたいほど、強く求めていた。
◇
翌朝、馬場で剣を振るっていたときに気づいた。
胸の奥で暴れていたもの――自分でも制御できない感情。
これは・・・嫉妬、というのだろう。
ーーなんと未熟なことか。
彼女は妃であり、オレは領主。
感情の波に身を任せていては務めは果たせない。
己を律するように、ただ稽古に打ち込む。
冷たい空気を切り裂く剣の音が迷いを払う。
汗を流そうと無造作にシャツを脱いだ。
・・・気のせいか、脱ぐたびに家臣が背後に集まる。
鍛え上げられた細身の背に、小さなどよめきが広がった。
「・・・増えている」
ジェームズが含み笑いで呟く。
振り返ると、家臣たちは一斉に視線を泳がせ、口をつぐんだ。
――その時、オレはまだ気づいていなかった。
背に刻まれた赤い細い爪痕を。
それが、連夜、シリが必死にしがみついた証であることを。
そこへ涼やかな声。
「おはようございます」
白いドレスのシリが馬場へ現れる。
湖面の光を受けて微笑むと、家臣たちは思わず息をのむ。
だが、その視線はただ一人――オレへ。
「今朝も稽古をなさっていたのですね」
背中に爪痕を残した本人が、何食わぬ顔で微笑んでいる。
オレは静かにうなずき、新しいシャツに袖を通した。
家臣たちは気まずそうに視線を逸らす。
「・・・ダダ漏れだな」
ジェームズが小さく吹き出す。
「あぁ・・・」
サムが控えめにうなずいた。
◇
その日もシリはエマを伴い、白いドレスに籠を手に曇天の下を森へ向かった。
「こんな天気の時に・・・」
思わずつぶやくと、ジムが言う。
「夕方までは降らないでしょう」
「・・・そうか」
領務に視線を落とした瞬間、羊皮紙の文字が霞む。
顔を上げれば、空は黒雲に覆われ、稲光と雷鳴、激しい雨。
窓を打つ雨脚はたちまち土をぬかるみに変えた。
「・・・シリが、森に」
椅子を蹴って立ち上がる。
稲妻が部屋を白く染める。
ジムが制した。
「長くは続きません、どうか少しお待ちを」
小降りになるのを見届け、外套をつかんで駆け出す。
「すぐに迎えを!」
背後でサムの声。
――シリ、どこだ。濡れて、震えていないか。
荒れた森の奥、白い煙を吐く小屋。
窓から覗けば、床に座るオーエン。
その腕に金の髪――シリだ。
顔は見えない。
だがオーエンの目がすべてを物語っていた。
魅せられたように腕の中の人を見つめる、恋する男の瞳。
心に黒い影が広がる。
領主であれ、という教えが吹き飛ぶ。
激しい感情に突き動かされ、荒々しく扉を開いた。
オーエンはシリを抱えたまま呆然と振り返る。
奥の縄には濡れた白いドレスと彼の服。
――ここで脱いだのか。他に部屋はないのに。
簡素な麻のシャツのオーエン、その腕の中でシリは眠っている。
胸の奥で醜い感情が渦を巻いた。
何か言いかけたとき――シリが瞼を開く。
「・・・グユウさん」
オレを見て微笑む。
「雨に降られて・・・ここに避難したの」
寝ぼけ声。
次の瞬間、自分がオーエンに抱かれていると気づき、驚いた顔。
立とうとして顔を歪める。
「足を・・・捻ったようです」
オーエンが口を添える。
「・・・そうか」
一歩踏み込み、腕を差し出す。
「グユウさん、私、一人で歩けます」
彼女は人前で女扱いされるのを何より嫌う。
普段ならそれも愛しい。――だが、今は違う。
「・・・オレが抱えたいだけだ」
そのままオーエンの腕から奪い返す。
「・・・それなら、良いです」
頬を赤らめるシリ。
――可愛い。なんて可愛いんだ。
だが、その顔を至近距離でオーエンも見たと思うと、苛立ちが募る。
立ち去ろうとして、ふと見る。
左足首には丁寧な手当て。
扉の前で振り返った。
「・・・オーエン」
引き攣った顔に、ひと言だけ。
「感謝する」
「と、とんでもございません!」
オーエンは深く頭を下げた。
◇
その夜――どうにも止められなかった。
事後、ぐったり横たわるシリに、また頭を下げる。
「・・・すまない」
ーー足を怪我しているのに、感情のまま抱いてしまった。
本当は、もっと優しくしたかったのに。
彼女は何も言わず、疲れ果てて眠った。
◇
翌朝も早い稽古。
自分の未熟さを叱りつけるように剣を振る。
――落ち着け。常に冷静な領主であれ。
ロイが小声でサムに囁く。
「・・・グユウ様、シリ様と喧嘩でも?」
「さぁ・・・」
稽古を終えシャツを脱げば、背の赤い爪痕。
ジェームズが苦笑いでつぶやいた。
「大丈夫だ」
サムもロイも目を伏せた。
◇
その夕方は澄み切った空。湖畔を並んで歩く。
「足は・・・大丈夫か」
わずかに引きずる足を見て問う。
「・・・そんなに心配するなら、夜、手加減しても」
「・・・すまない」
シリはくすっと笑い、湖を見つめる。
「ここの景色が一番好き」
辺鄙で貧しい領なのに、彼女はいつもそう言う。
愛情に満ちた瞳。
――もっと豊かにしたい。彼女にふさわしい装いを。
黙って横顔を見つめていると、彼女が言った。
「このワスト領を豊かにしたいの。りんごの収穫量を増やしたいわ・・・」
熱を帯びた横顔に、惹かれずにいられない。
その時、厩の方から強い視線を感じた。
振り返ると、厩の中でオーエンが見ていることに気づいた。
瞬間、心は黒雲に覆われた。
夢中で語るシリに顔を寄せ、その唇を奪う。
「えっ・・・こんな場所で」
短い抗議を、もう一度の口づけで塞ぐ。
シャツを掴む指の抗いにも構わず、唇を深く重ねた――まるでオレのものだと見せつけるように。
やがて指先から力が抜け、唇が離れる。
照れたように、怒ったように、彼女が何か言いかける。
この気持ちを伝えられなくて、口にした言葉はこれだけ。
「・・・すまない」
シリは呆れたように笑う。
その彼女の背に手を添えて告げた。
「帰ろう。冷える」
――すまない、オーエン。
オレは未熟な領主だ。
妻を・・・シリを、独り占めしたいのだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、グユウ視点によるエピソード(第6作目)です。
今回のお話は、以前公開した短編とリンクしています。
オーエン視点のスピンオフもありますので、あわせてお楽しみいただけたら嬉しいです。
『家臣オーエン、魔女と呼ばれた妃に惑わされる』
https://ncode.syosetu.com/n4509la/
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
そして、この短編を気に入ってくださった方へ。
短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。
https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/
※この短編も、1週間後に短編集に追加予定です。