悪魔と医者と死者と
悪魔がある日ふと善行をしたくなった。
それは本当に気まぐれで、自分自身でも驚くほどだった。
「何故、こんなことをしたくなったのだろう?」
ほんの僅かな間、一人で考えていたがすぐにそれも止めた。
「善は急げ、か」
初めて抱いたその気持ちに悪魔は従い、空を舞い人々の願いを見つめた。
星の数ほどの切なる想いが瞬の内に輝いては消えていく。
「こりゃ、神様も大変だ」
くすりと悪魔は笑うと無限にも等しい数の願いの中から適当に一つ選んだ。
月光に照らされた翼は美しい黒色を一層際立たせながら大きく広がり悪魔の体を覆う。
「今、助けてあげるよ。忙しい神様に変わってね」
悪魔が降り立ったのは手術室だった。
手術台には一人の女性が横たわっており、今、まさに手術を受けている最中だった。
医者はたった一人で泣きそうな顔のまま必死に女性の命を繋ごうとしている。
「可哀そうに」
悪魔は本心からそう思った。
悪魔を導いたのはこの医者の願う心だった。
『お願いだ。どうか僕に彼女を救う力をください』
大粒の汗を涙に含ませながら、マスクの下で呻きながら、それでも医者は必死に手術をしていた。
悪魔は音もなく医者の隣に立つと囁くようにして告げた。
「叶えよう。君の願いを」
その言葉と共に悪魔は自身の持つ畏怖すべき力を医師に注いだ。
瞬間。
医者は過去も、現在も、そして未来においてさえ誰も到達が出来ないほどの技術と知識を得た。
直後。
「あっ」
悪魔は間の抜けた声を出していた。
それと同時に医者は大声で叫んでいた。
「しまった」
悪魔の力を与えられた故に彼は悟ってしまったのだ。
彼女を救うことはもう不可能になったのだと。
「やらかしたなぁ……」
悪魔は心底後悔しながら横たわる女性を見つめた。
彼女は今、麻酔により深い眠りについている。
だからこそ、悪魔は女性の願いと状態に気づかなかった。
「今から命を助けるのは……だめだこりゃ、間に合わない」
悪魔は嘆息し、手術室の片隅に座り込んだ。
「慣れないことをするもんじゃないなぁ……」
悪魔は俯いて自身の失敗を反省していたが、しばらくしてあることに気づく。
「ありゃ?」
見上げれば全てが間に合わないことを知っているはずの医者が手術を続行していたのだ。
知識があるものからすれば最早彼女が『死者』に含めても良い状態であると分かっているはずなのに。
「おいおい。馬鹿じゃないか?」
そう思わず呟くも医者は脇目もふらずに手術を続けている。
「助けてやる! 必ず! 必ず!!」
死者に向かって医者は叫んでいた。
「え、なにしてんの!?」
もう無駄だと分かっているはずなのに。
悪魔はその様子を見て、自分の内に存在していた善の気持ちが消失していくのを感じた。
「馬鹿か、こいつ」
乾いた血を想起させるほどにどす黒い翼を広げて悪魔は言った。
「死人が甦るわけねえだろ」
そう言って悪魔は空へ舞う。
愚かな医者と物言わぬ死者を一顧だにせず。
「こんな奴ら救う価値なんてねえわ」
自身の細やかな気まぐれがもたらした無意味な時間に後悔をしながら。
後の時代。
悪魔とも呼ばれるほどに卓絶した技術と知識を持つ一人の医者が数えきれないほどの人々を救うことになる。
ある時は医者自身の技術により。
ある時は医者が広め、残した知識を継承した者達により。
そのことを悪魔自身がどう思ったかは分からない。