37.そこに彼女はいない
それはレジーがフィリに話をしていた頃。
深く海の中に沈んだような意識には覚えがあった。ぷかぷかと漂うような中、エミリオはその感覚に覚えがあった。いつの頃だっただか、と記憶の糸を手繰り寄せると、唐突に全てを思い出した。
『この国のためなのですわ』
脳内で木霊するその声は甘ったるくて、自分が拒絶されることなんて毛ほども感じてないような自信に満ち溢れている。まるで自分が愛されて当然だという態度。思い出したと同時に思い出したくなかったその記憶に反吐がでる。
離宮にやってきてはエミリオに絡んでくる王女は、どれだけ邪険に扱っても諦めることをしなかった。
見目が良いエミリオを王女は大層気に入っていたのだ。しかし、エミリオはそんな王女をよく思っていなかった。むしろ嫌っていたといっても間違いではないだろう。べったりと腕を組んで来ては引き離すものの、諦める様子はない。さらに、王女を猫可愛がりしている王子たちは王女を拒絶するエミリオを責め立ててくるので手に負えなかった。
『人間もどきが身の程をしれ』
妖精王が国に干渉する権力を持っていることを、快く思っていない王子ふたりはエミリオのことを『人間もどき』と詰ってくることが大半だった。その度にエミリオは呆れる他なかった。
そのようなことが繰り返される度に、人間嫌いになっていくのは仕方の無いことだろう。
『私と一緒にいてくれる?』
思い出したくもないことを思い出していると、不意に安らぎを与えてくれる声がした。その声の主はエミリオのことを何も知らなかった。ただひとりの少年として一緒にいてくれた。知らなかったとしてもその事が何より嬉しかった。
「……レジー」
名前を呼ぶとふっと目が覚めた。1年越しに見る天井を視界にいれれば、ここは雪の街ではなく、離宮に作られている自室だと教えられた気になる。覚えのある花の香りに包まれていて、エミリオはもそりと起き上がった。離宮にいると王女の相手をしないといけないことが多く、エミリオはオリヴィエが隠れ住んでいるカフェにも似た家の自室にいることが多い。そのため、離宮の自室にはベッドと机しか置かれていない。
全てを思い出したエミリオはベッドから起き上がることなく、ため息をはいた。
レジーが何かを隠していること、そして性別を偽っているかもしれないことには気がついていた。だけど、レジーが隠したいのならそのままでいいと思っていた。一緒にいられるのなら、気にする必要なんてないのだから。
そう思っていたのに知らない男がレジーを襲っている姿に、目の前が真っ赤になった。たくし上げられ露になった胸元、涙を浮かべ声を震わせているレジーに、男を壊してはいけない理由が見つからなかった。
しかしそれは、悪手としか言いようがないのだと、今になってエミリオは充分に理解していた。
ルフェイが現れ、離宮にいるということは連れ戻されたのだろう。しかも力でもって男を叩き伏せている時だ。あの時のレジーが震えていたのは果たして男だけだったのか――。嫌な想像に気が重くなる。
雪の街に帰りたいと思う。レジーに会いたいと願う。
けれど、もし、レジーに『人間もどき』と言われたら、と思うと息が詰まった。
「あら、目が覚めたのね。おはよう、エミリオ」
「母上」
エミリオの自室にオリヴィエが入ってきた。ノックもせずに入ってきたのはエミリオがまだ寝ていると思ったからだろうか。1年前となんの変わりもないオリヴィエはゆっくりとエミリオの元へと近づいてベッドの縁に腰かけた。
「こんなに大きくなっちゃって……。成長期って怖いわぁ。声変わりまでしちゃって」
ニコニコと笑いながらエミリオを見ているオリヴィエはエミリオの頬をつついた。一年前と感触が違うのか、オリヴィエは残念そうにしている。
「エミリオにお客様を呼んでいるの。もうすぐ起きる頃だろうとは思っていたから。早く用意していってらっしゃい」
オリヴィエとエミリオの出自を公にしていないこともあり、ルフェイの離宮には基本的に人は少ない。王都のはずれで平民として暮らしているオリヴィエと、オリヴィエと共に暮らしていることが多いエミリオは、自身の身支度に人の手を必要としない。そのため、ふたり付きの使用人は配置されていなかった。離宮に王女や王子が現れることはあるが、それだって招かれざる客である。
「客?そんなことより僕をノクチルカに返してください」
「その話はまた後。ほら、お客様はお待たせするものじゃないわ」
ベッドから追い出すようにエミリオをせっつき、オリヴィエはベッドの縁から立ち上がる。だったら目覚めてから客を呼べばよかったのではないかと胡乱な目でオリヴィエを見てしまう。
「あなたがすごく成長しちゃって。服の用意大変だったのよ」
マイペースな母はいそいそとエミリオの服を用意し始めたので、エミリオはため息をついて身支度を始めたのだった。
身支度を終えたエミリオは、離宮に作られている応接室へと向かった。もしかして部屋の向こうにいるのは王女ではないかと思い、扉を開けるのに躊躇う。オリヴィエは応接室までエミリオを連れてきたあと、にこやかに笑いながらカフェへと帰っていった。
はぁ、と再度重いため息を吐き、礼儀としてノックしたあと扉を開ける。中には見知らぬ男が立っていた。飲みかけの紅茶のカップが置かれているところを見ると、ノックの音で立ち上がっていたのだろう。
「オリヴィエ様にお呼びいただきました。ロイドと申します」
「僕はエミリオ」
母であるオリヴィエが招いたのであれば、信用はできる人物ではあるのだろう。ただ、エミリオは自身がこの男となんの話をすればいいというのだろう。男を呼んだという用件をエミリオは聞いていない。清潔な身なりはしているが、服装からして貴族というわけではなさそうだった。
「いきなりですが、1点お聞きしたいことがあります」
「なに?」
エミリオの前に立ったロイドはそのままエミリオを見下ろしている。その瞳には剣呑な色合いが浮かんでいて一瞬ひるんだものの、負けじと目を合わせ続けた。
「お嬢様に手は出していませんでしょうね?」
「は?」
嘘はつかせないと言わんばかりの眼光だったが、しかしエミリオは心当たりがない。
「何のこと?」
「その様子だと大丈夫そうですね。あぁ、よかった。何かあれば1発ならいいとオリヴィエ様に言われていましたが……安心しました」
口に出しながらなぜか脳裏には黒髪の少女が浮かんだものの確証はなく問いかけた。けれどもロイドはその問いには答える様子はない。むっとするエミリオにロイドはふっと笑って見せた。
「エミリオ様と一緒に暮らしていた少女は、ウィンチェスター侯爵家令嬢である、リンスレッドお嬢様です」




