36.彼が幸せを願う人
ウィンチェスター侯爵家に代々仕えてきた家で育ったロイドは、当たり前のようにウィンチェスター家の使用人となった。疑問にも思わず、当たり前のように仕えていた。定められたレールを教えられた通り歩む人生に疑問は持たなかった。
「ロイドは将来何になりたいの?」
蝶よ花よと甘やかされるというのは1歩間違えれば我儘になりそうなものだが、真っ直ぐに育っているのはひとえにこの少女が純粋だからだろう。一人娘のリンスレッドを前にして、ロイドは首を傾げた。何になりたいのかと問われても、ウィンチェスター家の使用人にすでになっているのだから。
「私はもうここの使用人になっています。将来もずっと」
少女はまんまるの目をぱちぱちとさせた。黒い髪の毛が風に揺れ、カーテンのように藤色の瞳にかかる。少女は絵本を抱き抱えていた。それは女の子が色んなものになり、なりたいものを探す物語だった。きっと、絵本に感化されたのだろうなとロイドは納得した。
「ロイドはずっとここにいることが将来の夢?」
「夢、というわけではありませんが」
「んん?そうなの?むずかしいね」
少女は再び絵本をめくり始めた。あの絵本はどんな終わりだったかと記憶を探る。1度読んだ記憶はあったが、内容は朧気に覚えているだけで、すぐに出てこなかった。子供向けの絵本なのだからハッピーエンドには違いないのだろう。
「でもロイドがここにいることが夢なら、ずっといっしょにいられるね」
「そうなりますね」
なりたいものを探す女の子のお話でハッピーエンドとなれば、なりたいものを見つけ、王女になったか、親友ができたか。そんな辺りだろうとロイドは胸の内で完結させた。少女はいたく気に入っているようなので、後で読んでおこうと絵本へと目を向ける。
「気になるの?えへへ、読んであげるね」
視線に気づいたのかにっこりと笑った少女はゆっくりと絵本を読み始める。途中で詰まらせたかと思えば、絵をじっと見つめて夢中になったりとまったく頭に入ってこないが、少女は目を輝かせて楽しそうに頁をめくる。ロイドはその様子を眺めながら、口をはさむことなく少女の好きにさせてやった。
その絵本は予想した通り、女の子が大勢の人と出会い絆を繋いでいく、建国神話を元に作られた絵本であった。ただ、女の子は大勢の人に囲まれていつまでも幸せに暮らしたという。
ロイドは目の前のこの少女が女の子のように、幸せに暮らしていければいいと思った。
王都のはずれにあるカフェは店内のいたるところに観葉植物を置き、窓は大きく陽の光を取り入れていた。ロイドが開いた手紙は離宮への招待状になっていたが、しかし直接離宮に来いというものではなかった。手紙に書かれていた待ち合わせ場所はこのカフェで間違いないかと、手紙とカフェを何度も見返す。
カランと扉を開けば軽い音が鳴った。カフェの中には女性が一人だけいて、他には店員も含めて誰もいない。来客を知らせる音が鳴ったはずなのに、数秒待っても人が来る気配はない。首をかしげながらカフェの中を見ると、女性がゆっくりと立ち上がる。
蜂蜜色のとろけそうな髪の毛に、月のように煌めく瞳の若い女性はロイドの方を体を向けると、穏やかにほわりとほほ笑んだ。
「来てくださって感謝いたします」
お手本のようなカーテシーはまるでここの主のようである。
「――妖精王の妻、オリヴィエですわ」
かの名高い妖精王に妻がいるという話を聞いたことがなかったロイドは、ぱちくりと目を丸くさせた。嘘だと判断するには、オリヴィエと名乗った女性は人間離れした雰囲気を纏っていた。うっすらと甘くとろけるような匂いがした。
「お初にお目にかかります。ウィンチェスター家の使用人、ロイドでございます」
膝を折り、挨拶をするとオリヴィエは満足そうに笑みを深めた。
「ふふ、堅苦しいのはここまでにしましょう。ここには内緒で来ておりますの」
誰に、内緒なのかは口に出さずとも明らかである。そしてそれをあえて言葉にするつもりもないロイドは、オリヴィエに勧められるがままに椅子へと腰を下ろした。緊張で背筋が伸びてしまうのも仕方ない話であろう。一介の使用人が会えるような人ではないのだから。
「緊張なさらないで、といっても無理な話かしら。でも、本当に気楽にしていいのよ?妻を名乗ってはいるけれど、私の身分は平民なのだから」
令嬢であれば扇で口元を隠し優雅に笑うところを、オリヴィエは困ったように頬に手を当てたかと思えば、次にはカラカラと笑っている。所作のひとつひとつは貴族のようであるのに、醸し出す雰囲気は人間離れしていて、かと思えばコロコロと表情を変える。ひどくアンバランスな女性だなとロイドが思うのも仕方のないことだろう。
「ここはルフェイが隠しているところだから安心してなんでも話してね?きちんと招待状を持ってきてくれてよかったわ。それがないと入れなかっただろうから」
「は、はぁ」
ロイドにとって秘しておきたいのは、今なお隠れ住んでいるリンスレッドの事だけだ。オリヴィエはリンスレッドの話を望んでいるように思えた。妖精王の妻が一体なぜ、とロイドが疑問に思ったのに気付いていないのか、オリヴィエは鼻歌さえ歌いだしそうなくらいにご機嫌の様子だ。
「あ、こういったほうが話は早かったかしら?私は、エミリオの母なのよ」
リンスレッドとの手紙に一年前から登場するようになったエミリオという少年。うら若きリンスレッドが異性と同居することについて、ロイドは苦言を手紙にも書いたものだが、困ったことにリンスレッドは両親のお人好しをしっかりと受け継いでいた。さらにひどいことに両親よりも頑固なのだ。
同名かと思ったが、この場で名前が出るということは、同一人物であること明らかでロイドは言葉をなくしてしまった。




