29.こんにちは妖精王
それは嵐そのものだった。
壁に叩きつけられた男は強い力で抑えつけられているのか、うめき声をあげている。意識があるのかさえ疑われた。リビングの中を突風のようなものが渦巻いていて椅子が倒れ、テーブルの上にあったアップルパイが形を失い、グラタンが飛び散り、マグカップが倒れホットレモネードはこぼれてしまっていた。
「エミ、リオ……ウィル……」
「レジーに何してる」
燃える火のように瞳が揺れているエミリオが、怒りに震えた声で男に問いかける。しかし、壁に張り付けられている男は返事をできるはずもない。恐怖でカタカタと身を震わせていたレジーは動けず、エミリオを見ていることしかできない。
「大丈夫、じゃないよな」
「あ、ありがとう。ウィル。どうして、うちに?」
ウィルが駆け寄ってきて上着をかけられ、ようやく胸元が露になっていることに気づいた。何とか手を動かして上着を手繰り寄せ前を閉じた。男につかまれていたせいで手が赤くなっていて、ウィルが痛ましいものを見るような目でレジーの背を擦った。
「その話はあとだ。エミリオ!もうやめろ!死んじまう!」
「死んだっていい、こんな人間……!」
エミリオの言葉にレジーは言葉を飲んだ。殺すことだって厭わないほどの激情はひどく恐ろしい。男がなぜ叩きつけられているのかわからないけれど、メキメキと嫌な音が男からしていた。このままでは死んでしまうというのは誰の目にも明らかだ。
「エミリオ!もうやめて!ボクは大丈夫だから!」
エミリオに人殺しになんてしたくないレジーはなんとか声を張り上げるも、震えている声にエミリオは更に力を強める結果となった。壁が軋む音にレジーは息を飲んだ。
「ど、どうしよう、ウィル。このままじゃ」
取り返しのつかないことになる、と続く前にリビングを吹き荒れていた突風がピタリと吹きやんだ。壁に張り付けられていた男は床に落ちて虫のようにピクピクとしている。
辛うじて息はあるようだ。
男からエミリオに視線を移すと、突然止まった突風に戸惑っているようだった。
「ダメ。それは、ダメだよ」
静かになったリビングで、凛として浮世離れした声が響く。大声じゃないのに自然と耳に入るその声の主は、突然リビングの真ん中に突如現れた。
透き通る程の長い白髪に、瑞々しい新緑の色をした切れ長の瞳、柳眉に高い鼻のその青年はまるで初めからそこに居たように立っている。袖と丈がひらひらとしている服が幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「誰?」
「とりあえず、今はおやすみ」
「……!エミリオ!」
警戒するように睨みつけたエミリオを、困ったように見つめたあと青年はパチンと指を鳴らした。それだけで、エミリオが膝から崩れ落ちる。慌ててレジーが駆け寄って顔を覗き込めば、眠りについたように目を閉じ、すぅすぅと呼吸していただけだった。
「なに、したんですか」
「大丈夫。眠らせただけだよ。じゃないと手に負えないからね」
安らかに眠っているエミリオに、今は青年の言うことを信じるしかなく抱き寄せた。レジーよりも小さかったエミリオはもう大きくて腕が回らない。その様子を見て青年は柔らかく笑った。どこか嬉しそうな姿にレジーは戸惑う。
「とりあえず、掃除しちゃおうか。こんな有様じゃ話も出来やしない」
青年が指を振れば、散らかった家具が元の位置へと戻っていく。散らばっていた料理は一塊に集められ、お皿にかろうじて残っている料理が残されている。気を失っている男はどこからか出てきた縄でぐるぐる巻きにされていた。
目を白黒とさせる信じられない光景に、ウィルとレジーは目を見合せた。
次第にウィルが何かに思い至ったのか、目を見開く。小さく「もしかして……」と呟く声を拾うが、レジーは首を傾げるだけだった。
「キミは察しが良いんだね」
気が付けば目まぐるしい出来事に、レジーの震えは止まっていた。服の乱れを整えていると、指を振るう青年と目が合う。ニコニコと笑っている男は突然現れたおかしな人で警戒すべきなのだろうが、不思議とレジーは悪い人ではないと思えた。なぜだろうかと青年を見ていると、どことなく風貌がエミリオと似ていることに気づいた。
月のような金色の瞳じゃなく、瑞々しい新緑の瞳をしているが目元はエミリオとよく似ていたのだ。
「じゃあ自己紹介といこうか」
時間にて数分ほど経ち荒れていたリビングは綺麗に片付いた頃、その青年は椅子を引いて座る。エミリオは片付けられている最中にレジーとウィルの2人がかりでソファへと運ばれた。青年はソファで寝ているエミリオを一瞥したあと、我が家のようにウィルとレジーにも座るように勧める。勧められるままに青年の前に並んで座った。
「初めまして、妖精王でありエミリオの父であるルフェイだよ」
「……は」
鼻から抜けるような間抜けな声がレジーから漏れるのと「やっぱり」とウィルが呟くのは同時の事であった。エミリオの手の上には、造花が飾られている帽子が置かれていた。




