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23.アンの失敗

 アンは幼い頃から不条理なことが嫌いだった。

 世の中は道理にかなっているべきだし、人は道徳を遵守すべきだ。人が法を守る事で秩序が維持されると信じて疑わなかった。

 

 そんなアンの家庭は父と母の3人家族で構成されていた。

 父は不愛想で気難しく常に言葉足らずだが、誰よりも手先が器用で繊細な細工のジュエリーを作り上げる金細工職人。対してアンの母は父の作り上げたジュエリーを言葉巧みに売る商売人。

 父が作り上げた美しいジュエリーを時には身に着け、見せ方と話し方の技術を持ってして貴族にも売りつける母。

 毎回ジュエリーに見合った価格で売ってきて、買いたたかれたことなど一度もなかった。

 仕事一辺倒な父と母は、アンと遊ぶことは数えるほどしかなかった。けれど、アンはそれが悲しくも寂しくもなく、むしろ誇りに思っていた。真面目に仕事に打ち込む父と母の姿は、アンが信じるあるべき人の姿だったからだ。

 日々を真面目に誠実に生きている2人はアンにとって憧れであり、誇りであり、模範だった。


 それが崩されたのは10歳の時だった。


 庶民の中でも識字率を上げるために作られた学校にアンは通っていた。

 その日、先生の体調がよくなく、学校は途中で終了となった。学校を支えてくれているのは先生1人だったから、仕方ないことだ。


 作業に没頭する父の邪魔にならないように足音を消して家に入ったアンは目を見開いた。作業机に向かう父の姿が好きで、こっそりと見ようとしたのが間違いだった。そこには、知らない女と抱き合っている父の姿があった。


 信じていた父の姿がぐにゃりと歪んで見えた。

 あそこにいるのは一体誰なんだ。

 見たこともないほどに瞳に熱を灯して、知らない女の顔へと唇を寄せているあの男は一体誰だ。


 アンは作業部屋を飛び出して母の部屋へと走った。

 母に、母に会いたかった。

 でも会ってどうする?

 父の姿を話すのか?

 母は何もしていないのに、母が傷つけられるのは不条理なことではないのか?


 普段であれば、ノックもなしに部屋へと飛び込むなんていう無作法なことをしないアンだが、頭の中がしっちゃかめっちゃかな状態ではそんなことを気にしていられなかった。

 今になって思えば、母は仕事に出ていて部屋にいるわけがなかった。そんなことにも気づかないほど、アンは目の前がぐちゃぐちゃだった。


 そしてそれは2度目の間違いだった。


 誰もいない母の部屋の中、机の上には知らない男から母へ愛を語る手紙と、愛に応える返事が書かれている書きかけの手紙が置かれていた。

 

 アンは膝から崩折れた。

 憧れだった父と母。誇りだった父と母。模範だった父と母。

 その姿は輪郭を失ってドロドロに崩れ落ちていくのを感じた。


 その後のことをアンはあまり覚えていない。気が付けば妖精の祝福が腕に宿っていて、父と母は血に濡れてどろどろになっていた。街の人からはあまりの出来事に、化け物だと罵られアン自身が不条理な存在になったのだと目の前が暗くなった。

 街を歩けば石を投げられる。家に居れば父と母が畏怖の籠った目で見つめてくる。

 そんな生活が2年ほど経った頃、巡回医としてやってきたゴーシュと出会い、アンはノクチルカへと流れついた。


 ゴーシュはまるで道徳とはかけ離れていた。

 ギャンブルでお金を失ってくるし、お酒を飲みに行けば酔いつぶれて店主に迷惑をかけている。アンがおおよそ模範にできない姿ばかりを見せてきた。けれど、ゴーシュは誰よりも真摯に診療所へ訪れる人に接していた。

 ゴーシュのことを噂する子供であっても、患者として訪れたならゴーシュは真剣そのものだ。

 不愛想な姿で治療を行う姿は、かつてアンが眺めていた憧れの父の姿だった。気が付けば、今度はゴーシュの傍に寄り添い、助手として働いていた。

 

 アンはゆぅるりとノクチルカの街へ馴染んでいった。

 今でも脳裏には知らない女と抱き合う父、知らない男と愛を交わしあう母の手紙が焼き付いている。脳裏に焼き付いている光景を眺めながら、ギャンブルでお金を溶かした上に、酔いつぶれて店主に迷惑をかけているゴーシュを担ぎ上げて帰る日々だ。

 

 そんなアンだからこそ、レジーの置かれている状況は許せないものだった。実家から追われている理由も、実家から逃げるために自分を偽っていることも。

 不条理であることこの上ない。

 昔のように激情に飲まれることはしないが、それでも腹のうちではマグマのような憤りが溜まっていた。もういいのだと諦めに満ちた瞳のレジーを見るたびに、なぜ?レジーが諦めなければならない?と理不尽さを感じてしまう。

 シェーネが亡くなってしまってからはノクチルカにい続ける理由もなくなったように見えた。レジーが将来行くと言っている修道院はワケありの女性を保護してくれるところではあるが、その実行くあてのない女性たちが食いものにされているところだと噂されているところである。

 どうにか止めることはできないかと思ってみたものの、引き止めるための何かをアンはレジーに提示することができなかった。


 ただ、少年--エミリオが来てからのレジーは少し違うように見えた。

 シェーネが亡くなった穴を埋めたのか、レジーが求めていた何かをエミリオが持っていたのか。

 アンにはわからないことだったが、それでもレジーの変化があったことは確かだった。


 そのことがアンは嬉しかった。

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