18.おかえり
レジーの仕事はイルメリアとノクチルカの行き来に絞っていることもあり、エミリオよりも先にレジーが帰ってくることはよくあることだった。
その時は外から見える家に灯りが灯っているかどうかで区別することができる。
「レジーはまだ帰ってきてないか」
ジルの手伝いを終えたエミリオは暗い屋敷をみて、確認するように呟いた。扉を開けて家の中に入ると、冷やされている家が少しばかり寂しさに包まれている。
帰ってきたレジーが体を冷やさないようにと、暖炉に火をつけた。一通りランプにも灯をつけたあと、ソファへと身を寄せる。暖炉で揺れる火を眺めていると、うとうとした眠気がエミリオを襲った。いつまで経っても好きになれない微睡みにきゅっと眉を顰めるも、ゆらりゆらりと揺れ、パチパチと薪の爆ぜる音が子守唄となり、その瞼はゆっくりと閉じていった。
頭にかかる心地よい重みに、ゆっくりと目を覚ました。揺蕩う眠りから引き上げてくれるその重みは、エミリオが好きなものだ。どのくらい眠っていたのだろうか。目を覚まさなければならないと思うけれど、まだこの重みを感じていたい。
そう思ったエミリオは目を覚ましているのに、瞼を閉じたまま時間がゆるりと流れるのを堪能していた。
「エミリオは、私の傍にずっといてくれる?」
寝ていると思っているのか、聞こえてきたその声は、レジーの声であるはずなのにエミリオが知るレジーの声色ではなかった。
弱々しくて、縋るような女の声。
「私から離れないで。お願い」
助けを求めるようなその声に応えたいと思った。しかし、同時にエミリオに聞かれたくないだろうと思えて、自然を装いながらレジーの手へと擦り寄った。
たっぷり数分数えて、エミリオはわざとらしくまぶたを開いた。
「……れじー?」
掠れた声で名前を呼べば、頭を撫でていた手がパッと退いた。離れてしまった手を追いたい気持ちはあったけれど、それをするのは恥ずかしくて抑え込む。
「おはよう。エミリオ。晩御飯しよっか」
そこに居るのはいつものレジーだった。数週間足らずだけど、エミリオが知るレジーだ。なのに、その笑顔はどこか違和感をエミリオに与えてきて、違和感を探ろうとレジーを観察する。レジーは色の濃いコートを好んできている。そのコートの背面の色がよく見れば濡れて濃くなっていた。
「転んだのか?」
脱いだコートを叩いて雪を落としたあと、ラックにかけている姿を見ながら問いかければ、一瞬不思議そうな顔をしていた。問いかけられた内容を理解するのに1拍かかったようだった。
「え?あぁ、うん。ちょっとね。体が訛ってたかな。でも怪我はしてないから」
言う通り、見たところが外傷はないようだった。
へらへらとしているレジーを見て、違和感をエミリオは理解した。
――なんだかレジーが遠く、遠くにいる存在のようだった。
「レジー」
「ん?どうかした?」
思わず名を呼んだエミリオは、その次にかける言葉を用意してなかった。
どうしようか。一瞬の逡巡の末に、そういえばまだ言ってなかったと思い、おかえり、と口にするとレジーはにへらと笑った。その顔はエミリオがよく知るレジーの顔で、違和感などなくて胸を撫で下ろす。
「ただいま」
返答に満足したエミリオはそのままレジーの隣をすり抜けてキッチンへと共に向かった。
夜になり、エミリオは喉の乾きに目を覚ました。欠伸を噛み殺しながら布団から這い出す。
「……水」
サイドテーブルに置いている手持ちのランプに火をつけて、キッチンへと向かう。
寝静まるのが早い街は静かで、布団で暖まっていた体が冷えていく。ふるりと体を震わせ、冷たい水を飲む気になれず、カップ1杯分のお湯を沸かした。
ずずっと、白湯を啜れば体の中にじんわりと熱が戻る。
静かな夜にゆっくりと白湯を啜っていると、エミリオはルーナが話していたことを思い出した。
2年前に拾われてきたレジーのことだ。
何があったかはわからないが、シェーネという女性に拾われてきたという。そのことを考えていると、今日帰ってきたときのレジーの様子はいつもと違っていたことも思い出された。
それはエミリオの知らないレジーだ。
「……」
飲み終わったマグカップを置いて、エミリオは不意にレジーの部屋へと足を向けた。
ペタペタと歩いてレジーの部屋の前にきたが、寝ている人の部屋に入るのは躊躇った。一度だけ、顔を見るだけ、と心の中で言い訳をしながらするりと身を滑り込ませる。
こんもりとしているベッドへと近寄れば、もぞもぞと中で動いているのがわかった。覗き込むと、そこにはひどく苦しそうに顔をゆがめ、目じりに涙を浮かばせているレジーの姿があった。
思いもよらない様子にぎょっとしたエミリオは、うわ言のようにぼそぼそとつぶやいているレジーの口元に耳を寄せる。
「やだ……っ」
ふるふると首を振り、何かを拒絶している姿にエミリオは狼狽えた。このままにしたくはないと思うのだが、だからと言ってエミリオはどうしたら良いのかさっぱりだ。
どうしたら落ち着かせることができるのだろう。
エミリオにはちっともわからなかった。
目じりに浮かんだ涙が粒となり頬を伝い落ちていくのを見たとき、ほぼ無意識でエミリオはレジーの頭へと手を伸ばした。微睡に揺蕩っているとき、エミリオはレジーに撫でてもらうことが何よりも心地よかったからだ。
初めて触れたレジーの黒髪は絹糸のようにサラサラとしていて、自分のふわふわとした髪の毛とは違う感触に驚いた。
「大丈夫、大丈夫だ」
起こさないように小声で呟きながら撫でていると、やがてレジーは苦しそうに歪めていた顔を綻ばせていった。ひとまず安心したエミリオはじっとレジーの顔を眺める。長いまつ毛が瞼に影を作っていて、薄く開いた唇はふっくらとしている。頭に置いていた手でするりと輪郭をなぞると、くすぐったそうに身をよじらせた。
どうにもその姿が男には見えなくて、エミリオは首を傾げた。
普段のレジーは短く切った髪の毛と服装は男物を着ていて、帽子を被っているため、一見すれば男のように見えるが顔つきはどう見ても女のものだ。
それにエミリオが眠ったふりをしていた時、縋るように話しかけてきたのはエミリオの知るレジーではなかった。
しかし、エミリオはそれ以上を考えることを躊躇った。
レジーがノクチルカへと来ることになった理由、そして過去に何があったかを知りたい。けれど、エミリオが起きた時に明らかにレジーはほっとしていた。レジーはエミリオに聞かれたくなかったのだと、知られたくなかったのだということが分かる。
エミリオが知りたいと思うことは、レジーが知られたくないことだった。
「……ぅ……ま……?」
思考の渦に飲まれていたエミリオは、レジーのかすれた声にハッとした。むにゃむにゃとしていて、何を言っているのかわからなかったが、思わず頬に添えていた手をひっこめる。恐る恐るレジーを見ると、藤色の瞳が半分開いて眠たげにとろけていた。
どきりと胸がはねたせいだろう、伸びてくる腕にエミリオは気づかなかった。
「おとうさま、いっしょに、ねましょう?」
伸ばした手でエミリオを引き寄せたレジーはそのまま布団の中に引きずり込んだ。
「え、ちょ、」
すり、と胸板に顔を寄せ満足げなレジーにエミリオは心臓が飛び出るかと思った。バクバクとうるさいくらいに鳴っているはずなのに、心地よさそうにレジーはまた深い眠りへとつく。
布団の中はレジーのぬくもりに包まれている上に、甘い香りに満ちていた。
鳴り続ける鼓動は落ち着かないのに、何故かひどく安らぎに包まれていて、目を閉じたエミリオはそのままレジーに導かれるように眠りについた。
明日8時に更新します。




