1-22 よろず怪異絵巻
『怪異』。
ある日突然、この世界に現れ始めた、生物や現象のこと。
その多くが、日本の妖怪や怪物と酷似した性質や容姿をもつ。
『大開穴事件』。
上記『怪異』があふれ出てくるようになった穴。
それが開いた事件の事を言う。現在は関係者以外立ち入り禁止区域。
『親交条約』。
上記『大開穴事件』でつながった向こう側と、結んだ条約。
主に日本国憲法を簡易にしたものを守る代わりに、『怪異』の日本滞在を一部許容する条約。
制定には「(検閲事項)」と「(検閲事項)」が関わっていた。
それが僕らの世界で起きた出来事。
僕がとある事務所と関りを持つようになった大きな原因。
ある日、世界に穴が開いた。
と言っても、別に空や海、もっといえば不可思議な場所に空いたわけではない。地面の一部がごく自然に、それでいて、ある日突然消し飛んだ。
もちろん、そんな異常事態に政府は大慌て。あれこれ会議はあったものの、比較的早い段階で、この事件に対し緊急事態を宣言。穴近辺への立ち入りを禁止し、近隣住民には避難勧告を発令した。
その後は、少し落ち着いたのか、埋め立て作業への着手も粛々と行われていった。
が。
そうしていざ埋め立て工事が始まる、その日。穴の底が光り輝いた。
穴には底がなくなり、その向こう側が現れる。それも地球の反対側や、ましてや地底世界のような場所でもない。別世界への道が開いた瞬間だった。
★
「……それから30年が経った」
「はぁ、そうなんですね……っていやいやいや」
びっくりするぐらい、雑に言葉を切った先生に向かって腕を振り払う。
というか、なんですかその「語りきった…」って顔は!
「確かに氷室先生に、これまでの事をざっくり教えて、って言ったのは僕ですよ? でもその話って、教科書に載ってること、そのままじゃないですか!」
「んなこと言ったって、それが事実なんだから当然だろ」
わざとらしく首を傾げ、意味がわからないと言わんばかりの顔に、拳を叩き込みたいのを抑える。
とはいえ、実際には先生の言う通り、それが事実だ。じゃあなぜ僕がなおも食い下がるのかというと。
「それじゃあ課題のレポートが埋まりきらないんですってば」
「うるせぇな、知らねーよそんなこと」
そう、レポート。
お題は『過去50年のうちに起きた出来事について』。そこで僕が選んだのが、さっきから話を聞いていた、『大開穴事件』について。
もちろん、埋まりきらないと言っても課題の範疇なので、教科書に載っているような情報だけで事足りる。……本来ならば。
問題になってくるのは、課題を出した先生。
その先生こと、世界史の杉山先生は変なところで独創性を求めてしまう性格で、レポートにも教科書の情報+@の物を求めてくる上に、それがない場合減点対象にもなり得る。
かといって、根も葉もない噂を書いた日には、それこそ格好の減点対象になってしまう。
そのため、こうして週に一度手伝いに来ているここで、その+@を埋めてしまおう、というわけだ。
「はぁ……」
横道にズレ始めた思考を頭を振って追い払い、開いていたノートを閉じて立ち上がる。
伸びをすると、手始めに目の前に山となっている書類を手に取り、中身に軽く目を通していく。
あ、これはもういらない奴かな。
「お、もう質問は終わりか?」
「そんなわけないじゃないですか。気分転換で先に事務所の掃除しちゃうだけですよ」
何を期待したのか、前のめりに聞いてくる先生。嬉しそうなのを特に隠そうともしないのだから、腹立たしい。
「っていうか……なんでこんなに散らかってるんですか! 僕がこの前片づけに来たの先週でしたよね!?」
手を止めずに周りを見渡すと、あちらこちらにちらばっている書類や、着た後なのだろう衣類。よく見れば飲み物の缶なんかも少し転がっている。
片づけを進めながら睨むようにすると、すっと視線を逸らされる。
「いやー、片づけてくれる奴がいると、遠慮なく散らかせるよな……」
「…………」
最早突っ込む気も失せてくる。
いや、それだけ頼りにされているんだろう。そうでも思わないとやってられない。
―――と。
「あれ、この書類……」
ふと、手にした書類の中身に目が惹かれる。
僕の手が止まったことに気が付いたのか、先生の逸らされていた視線が帰って来た。
「先生、この依頼って来週に話を聞く予定でしたよね? 『解決済み』ってなってるのは間違いですか?」
「あぁ、それか…。何でも依頼者の勘違いだったらしいぜ? 路地から路地へ通り抜けていった猫が怪異に見えたんだと」
「そう…ですか」
『怪異』。
あの『大開穴事件』を境に、つながった向こうの世界。そこから流れ込んでくるようにして、こちらへと姿を現し始めた生き物・現象、その総称だ。
いまでこそ、こうして日常の中の小さな異常、ぐらいに落ち着いているが、当時の混乱は相当の物だった、と教科書にもある。
なにせ、今まで空想や伝説の中にしかいなかった存在、それも日本で有名な妖怪や怪物が、突然現れたのだから。
幸い、向こう側に侵略の意思はなく、言葉も通じたことから、親交条約が結ばれることとなり、一件落着となった。もし、そうでなければ…とは想像しただけで、背筋が寒くなる。
「つってもこっちからすりゃ、依頼が一つ消えたんだから残念だけどな。……ほれ、いつまでも握りしめてないで、それもこっちよこせ、童部」
「え? ……あ」
言われて、くしゃり、と手から力を抜く。ぼんやりしてしまっている間に力を込めてしまっていたのか、書類は手に握りつぶされていた。
いくら条約が結ばれたとはいえ、当然、人が集まれば問題が起きる。しかもそれは人間に限った話じゃないらしい。
幸か不幸か、結んだ条約のおかげで、決定的な事件は起きなかった。それでも、突然お互いに得体のしれない隣人ができれば、ストレスも溜まる。そうなれば、小さないざこざが起きるのは当たり前。
そんないざこざを解決するため、もしくは事前に防ぐためにつくられたのが、目の前にいる先生が運営するこの事務所、というわけである。
★
「ぅし、今日のところはこんなもんでいいだろ」
片づけ始めてから30分。キリがいいとのことで、終わりの声が先生からかかった。
僕も、それに倣って整理途中だった手を止める。気が付けば、確かにもういい時間だ。
「さっきの質問の話だけどな、あとでまとめて送ってくれや。気が向いたら答えてやるよ」
「わかりました」
くしゃくしゃと頭をかくようにしていう先生に、苦笑いしながらも答える。こうは言いつつも、ちゃんと答えてはくれるはずだ。この人は相変わらず、変なところで真面目だから。
「さって、と……、じゃあ俺は出かけてくるかなぁ。戸締りも頼むわ」
「あれ、出かけるって、何か用事ありましたっけ?」
「用事って……いやなに、きれいな花を見に行くんだよ」
前言撤回。この人は何を言ってるんだ。妻帯者だろ、あんた。
「……知りませんよ? 雪音さんの耳に入っても」
「ああん? んなもんばれなきゃ問題ないって」
立ち上がり、こった首を鳴らしながら出口に向かう先生。それを呆れながら眺める視線の先。事務所の出入り口である扉に、ふと、人影が―――。
がらっ!!
そのことに気が付かないまま、先生がその扉を開け放つ。そこにいたのは。
「あらあらうふふ、どこにいくんですか、あ・な・た?」
「んげっ!?」
「あ、雪音さん」
そこにいたのは一人の女性。腰まで伸びた黒髪に、おっとりとした顔つき。ふわふわとしているはずなのに、ちっとも笑っているように見えない笑顔。
そんな女性が事務所入り口から一歩、中に入ってくる。それに圧されるように、先生が一歩下がる。
そう、この人こそ先生の奥さん、雪音さんだ。
「童部くんもひさしぶり。いつも掃除ありがとね」
「いえいえ、これも仕事ですから」
後ろ手で扉を閉めてから、また一歩雪音さんが先生との距離を詰める。先生はといえば、まだ諦めていないのか、さらに一歩後ろへ下がる。
が、唯一の出入り口は雪音さんの後ろ。先生はあっという間に壁際に追い詰められてしまった。
「今日は童部くんの用事が終わったらすぐ帰ってくるって言ってましたよね?」
がしり、と逃げ場のなくなった先生の顔を、真正面から雪音さんの手が捉える。
「待って待って待って、それだけh、ででででで!!」
必死に言い訳しようとしたものの、聞く耳持たないとばかりに、雪音さんの指に力がこめられる。相変わらず、何度見ても綺麗なアイアンクローだ。
「それで、童部くん。聞きたかったことは全部聞けたのかしら? 私も、少しなら答えてあげられるかもしれないわよ?」
「ええっと……とりあえず大丈夫ですかね」
少し考え込んでから、答える。実際、あとで改めて話を聞く機会もあるし、今はいいだろう。
そんな世間話のような会話を続ける後ろで、雪音さんの手で先生の体は宙に浮き、悲鳴も聞こえるが、今この場にそれを気にする人はいない。
「そう……それじゃあ、今日はここまでにしましょうか。この人もそのつもりみたいだったし」
言いつつ、手から力を抜いたのか、先生の体が地面に投げ出される。ぴくぴくと手足や体が動いているから、死んではいないはずだ。
そんな先生を横目にしつつ、レポートのために広げた荷物をまとめ始める。
「じゃあ童部くん、来週もよろしくね。……はい、か~いさん」
気の抜けるような声とともに手をたたく雪音さんに軽くお辞儀をし、その日は解散となった。
★
夜。
「……ったく、言えるわけねーだろ、ホントのことなんて」
「あら、あなたの事だから、私てっきり言ってるものかと」
「ふざけたことばっか言ってねーで。……ほれ、今日もお出ましだ」
くいと顎を向けると、床が黒く染まる。そこから染み出すようにして出てきたのは、染まった床と同じく黒い、影。
怪異とは、生物だけではなく、こうした『現象』も含まれる。
意思もなく俳諧するだけのその『現象』は陰鬱な場所に溜まっては、被害をもたらしてしまうことも少なくない。
「わかってますよ。では、けがなんてしないでくださいね、あなた?」
「お前より弱い奴相手に、んなもんするかよ」
「まぁ、ひどい」
こういった現象を引き受けるのも、この事務所の役割なのだ。