1-21 隣の席の暗殺者
ぼっちな高校二年生・神田川優樹は、友達も作れないまま学校生活を送っていた。
そんな彼にとって、隣の席に座る獄山莉里は、明るく友人も多い、まるで自分とは正反対の存在だった。時におっちょこちょいな姿も見せる彼女に、少なからず好感を抱いていた。
ある日、塾の帰りで遅くなった優樹は路地裏を通り抜けようとする。しかし、そこで偶然見かけたのは獄山の「裏の顔」だった。
「君の全ては、私の手の内だ。自分だけでなく家族も守りたいなら、言うことを聞け」
自分を暗殺者だと名乗った彼女は、秘密を守るため優樹に協力を求めてきて──。アクションラブコメディ!
目の前の光景に、どくんと心臓が跳ねる。
あまり人目のない路地裏。数少ない街灯は、ジジジと音を立て今にも消えそうだ。
そんな頼りない光に照らされ、彼女は恥じらうようにゆっくりと服を脱いでいた。制服の赤いリボンを外し、紺色のブレザーをゆっくりと地面に落とす。
先月、学年が上がりクラスが変わった。うちの高校では、受験生になる前の二年次に修学旅行があるため、発表時にはみんな騒がしかった。僕、神田川優樹も、そう多くない友人──正直に言おう、入学してから唯一できた友人である高橋とクラスが離れ、かなり落ち込んだ。ひどく落ち込んだ。めちゃくちゃに落ち込んだ。
その結果、うつうつと四月を過ごし、そして新しい友人を作るというミッションに出遅れてしまった。女子は完全にグループを形成しており、男子はそれほどじゃないにせよ、ふんわりとした友人関係が目に見えて分かる程度にはなっている。
当然、僕が入り込む隙なんてどこにもあるはずがなく、ただただ無駄に素数を数えたり円周率を暗記したりするだけの休み時間を過ごしているわけだが──僕の隣に座る獄山莉里に、最近はそれすら乱されている。
獄山莉里は、厳つい苗字に反して、非常に……なんというか可愛らしい女子だ。
ゆるふわな長い髪の毛を高い位置で二つに結び、顔のサイズに対して少し大きめな眼鏡をかけている。去年の一年間、テストの結果が張り出されると大抵上位三番内にいたため、名前は他クラスの僕でも知っていた。
それなのに、先生を授業中に「お母さん」と間違って呼んでしまったり、徒競走ではゴール直前に顔から突っ込むようにこけたりと、結構なおっちょこちょいだ。
ただ、彼女の凄いところは──もし僕が同じことをしたら、たぶん一年くらい引きずると思うんだけれど──失敗しても、自分で「あははっ」と明るく笑うところだ。それにつられて、みんなもつい笑ってしまう。
そういう明るい人のところには、人の輪というものができるらしい。気がつけば、彼女の周りにはいつも誰かがいた。男女関係なく好かれる人とはこういう人なのかと、休み時間の度に集まってくるクラスメイトらを見て、自分との違いに愕然とするしかない。
厄介なのは、そんな彼女がちょいちょい僕にも話題を振ってくることだ。
テレビや天気の話題みたいな、無難なお茶を濁す系ならともかく、最近読んだ本の感想だとか(結構コアなの読んでて面白い)、オススメの漫画教えてだとか(バトル系も意外と読む)、字が綺麗で羨ましいだとか(僕は君の存在そのものが羨ましいとは、気持ち悪すぎて言えなかった)。
しまいには、昼休みにクラスメイトたちが集まってきてる中で、「今、中間テストの対策勉強会やろうって話してるんだけど、神田川くんも良かったらどうかな? 神田川くん、数学めちゃくちゃ得意だよね」ときた。満面の笑みで、キラキラした大きな目で見つめられて、断れるヤツがいるだろうか。
正直めちゃくちゃ嫌だったけれど、獄山さんに誘ってもらえたということは、なんだか僕の胸の中でちょっとした優越感に繋がった。そんな自分がまた嫌で、それでも確かに高揚感みたいなものはあって、もしかしたら今年も一人にならずに済むのかもしれないって、そんなことを考えてしまったりして──。
塾の宿題をうっかり忘れてしまったのは、そんな浮かれた頭のせいだろう。テスト前の大事な時期にポカをやらかした僕はこってり縛られ、塾を出たのがいつもより1時間くらい遅くなってしまった。
いくらか早足で駅に向かう途中、少しショートカットしようと入った路地裏で見たのが──例の景色。獄山莉里が、道端で服を脱いでいるシーンだった。
思わず隠れたのは、きっと獄山はそんなところをクラスメイトに見られたくないだろうと思ったからと。ついうっかりマジマジと眺めてしまった自分の心を誤魔化すためだった。
気のせいかもしれないけれど、獄山の顔色は良くなかった。獄山の前には男がいて、見間違いじゃなければ凶器みたいなものを獄山に突きつけていた。刃物か、それともスタンガンか。
きっとそれで、獄山は脅されているんだろう。
(どうするっ……警察か、それとも下手に刺激しない方が良いのか⁉︎)
なにが正しいのか。分かっていることは、僕がここでぼんやりして待っているだけじゃ、獄山はより危うい姿になっていくってことだ。すでに、白いブラウスのボタンが、上半分取れかけている。
(僕が……僕が助けなきゃ……!)
獄山の身体は僕より小さい。見知らぬ男に服を脱ぐよう脅され、どれほど怖いだろうか。
背負っていたリュックを、鞄を右手に持ち帰る。筋力は貧弱でも、回転の勢いを使えばかなりの衝撃を与えられるはずだ。
(これで──獄山を……!)
助ける、と。構えかけたそのときだった。
バチンと首筋に走った強い痛みに「ぎゃっ!」と悲鳴を上げ、僕はその場に倒れ込んだ。
「あ……あ?」
いきなり過ぎて、理解が追いつかない。目の前に、例の男が血走った目で僕を見下ろしている。左手にはスタンガン。右手にはナイフ。
まさか二刀流とは思わなかったので、最初の一撃がスタンガンだっただけラッキーなのだろう。
「ガキが……邪魔なんてさせねぇ……」
息も荒く、男が呟くのが聞こえた。血走った目といい、もしかしたらイケない薬でもやっているのかもしれない。
(まずい。これは……かなりまずい!)
男の手が振り上げられる。右手だ。まずい。怖い。
恐怖で頭が回り切らない中、浮かんだのは獄山の顔だった。笑ってるところくらいしか見たことがないのに、泣き顔だ。大きな目に涙をいっぱいに溜めて、それが溢れるように涙をこぼす、そんな姿が、妄想の中でやけにリアルに想像できた。
獄山。この隙に、逃げることはできただろうか。それとも、目を離した隙に……?
分からない。どう逃げたら良いのかも、どうすれば助かるのかも。
振り下ろされるナイフ。それが、街灯に反射しきらりと光る。
「ひ……っ」
身体を縮め、情けない悲鳴を上げた。その時。
男の後ろに、獄山がいた。
胸元をいくらかはだけさせて、宙に浮いていた。
男の頭の高さまで浮かんだ身体を捻り、目つきは鋭く男の頭を見据えている。音もなく高く跳び上がった彼女は──無音のまま、男の側頭に鞭のような蹴りを喰らわせた。
「が……っ⁉︎」
たったそれだけの音を漏らし、男はその場に崩れ落ちた。ほとんど同時に、獄山も静かに着地する。爪先から、トンと。
たったの一撃で、地に伏せた男は泡を吹いて倒れていた。
(たすかっ……た?)
ホッとした──はずだった。助けるはずが助けられてしまった獄山に礼を言う──はずだった。
(ほんと助かったよ! こんなデカい男を一撃なんて、獄山なんか習ってるの? 空手とか、そういうの)
そう、アドレナリンが掻き立てる高揚感のままに言えば良い。なのに。
「……今、のは……」
呟く声が震える。声だけでなく、全身が震えている。ガチガチと鳴る歯がうるさい。
怖い。僕は今、怖がっているんだ。男に刃物やスタンガンを向けられた時よりも、ずっと。
獄山のメガネは地面に落ちていた。代わりに鋭い眼光が、僕を厳しく刺している。
「っあ……」
「神田川優樹」
ぼそりと囁くように、獄山が呟いた。低い、静かな声。
「は、はい」
「祖母と父親との三人暮らし。趣味は漫画鑑賞。祖母は生花を趣味とし、公民館のイベントによく参加している。父親は村山商事の課長。母親は十歳の時に他界している。神田川優樹本人は月水金の1900から2100まで学習塾。数学を得意とし、社会が苦手。住所は──」
「えっ、ちょ。待って待って。急になに言い出すの」
ぼそぼそと早口で個人情報を捲し立てられ、思わず焦ってしまう。え、なに。獄山そんなに僕のことなんで知ってるの。調べたの? 僕に興味があって? てか、家族のことまでなんで。
獄山と目が合う。妄想の中とは違い、真っ暗に沈んだような、ぽかりと穴が空いたかのような暗い暗い目。いつもの、まるで星が散らばっているかのような輝く瞳とは真逆で。ぞわっと全身が粟立つ。
「良いか、神田川優樹。私は君の全てを握っている」
「えっ? ちょ、ちょっと待って。急にそんなこと言われてもなにがなんだか」
ダンッと顔の横に、勢いよく腕をつかれた。壁ドンというやつだ。ドキッと心臓が高鳴るが、同時に背筋に冷たい感覚が走る。
「聞け。君は今日、なにも見なかった」
「え……?」
「この男のことも、私のことも。何一つ見ずに、恙無く帰宅する」
「いや、でも。警察……とか。獄山さんも俺も、被害者だし」
頭の中がこんがらがりながらもそう言うと、獄山は少しだけ微笑んだ。でも、それはいつもの明るい笑顔なんかではなく、もっと陰惨な暗さを含んだものだ。
「今晩の被害者は、こいつだ」
「え……?」
獄山は僕から離れ、自分よりずっと大きな男をひょいと肩に担いだ。
「こいつは、私が処理する」
「しょ……り?」
不穏な響きだ。思わず訊き返すも、獄山はそれを無視して歩き出す。
「さっきも言ったが、君は今日、なにも見なかった。誰にも会わなかった」
「え、あの」
「そうでなければ……君だけでなく、祖母も父親も、不慮の事故に遭うだろう」
振り返りざまに言い放ったその言葉に、僕は伸ばしかけていた腕を「えっ」と止めた。
「言ったろう。君の全ては、私の手の内だ」
ニヤリともせず、続ける。
「私は暗殺者だからな」