1-15 ポルターガイスト@セッション
これは時代を越えた人々が集う、奇跡の物語。
決まって学校の屋上で目を覚ます中学生、成田徹。
彼から始まったポルターガイスト現象は、心を育むほど大きくなっていった。
パッションで響かせるのはセッション。
音楽室の楽器は、今宵も独りでに音を奏でる。
目覚めたばかりの視界に広がったのは――何かを予感させるような、満天の星空だった。
ぐっと背伸びをして起き上がり、僕は屋上から街を見下ろす。
すっかり辺りの家々は寝静まり、等間隔に置かれた街灯だけが白々と光っている。
金網越しの変わらない景色に、ほっとした。
まだ続けて良いんだと、なんだか許されているような気分。
僕は屋上を後にして、真っ暗な校舎の中へと入っていった。
初めは怖かった昼夜逆転の世界。それも繰り返していれば、いつかは慣れてしまうもので。
窓から差し込む星明りを頼りに、実習棟の端にある――音楽室を目指す。
誰の足音もしない長廊下。
静けさで耳の奥が鮮明に音を捉える。まるで競演前のような集中力。
歩みを止めないまま、頭の中では鍵盤を想像して、ただ指を滑らせた。
ショパンの幻想即興曲。
どの鍵盤を、どれくらいの強さで打てば、どう響くのか。脳に染みついていたはずだった。
けれど何も聞こえない。
しょっちゅう弾かされてきた課題曲なのに、まったく音が思い出せない。
最後にピアノの旋律を耳にしたのは、一体いつだろう。それが長引くほど、僕の身体から音が抜け落ちていくようで。
『どうして譜面通りに弾けないの。徹ちゃんは、お母さん達を悲しませて楽しい?』
『徹には才能が無かったんだ。そもそも父さんは前から反対してたじゃないか。結果が出ない趣味に、時間と金はかけられない』
代わりに聞きたくもない音ばかりが蘇る。
いっそ嫌いになれたら良かったのに、それでも僕は続けたかった。
僕にとってピアノは、たった一つの生きがいだったから。
俯きそうな顔を上げると、ルームプレートには音楽室と書かれていた。
今日こそは弾いてやる。僕は意を決して教室内に踏み入れた。
均等に並べられた学習机と椅子。閉めてあるところしか見たことがないカーテン。大きな黒板は上下に分かれていて、片方には五線譜が引かれている。
教壇前が広いのは、色々な楽器が置いてあるからで。吹奏楽部が使っているだろうドラムセットに、ケースに並べられた各種ギター……それと、グランドピアノ。
「おっす~。遅かったじゃないの、ナリ坊」
はっと声がした方に目を向ける。
「……どうも」
癖毛で体操着姿のヒゲ先生は、木目調の床に片肘ついて寝転がっていた。相変わらずの薄ら笑いを浮かべながら、もう片方の手でアゴヒゲを擦っている。
「どったの、寄り道でもしてたん?」
「無駄話は後で。気が散ります」
冷たい返事も何のその。ヒゲ先生は「あいよ~気が済むまで頑張りな~」と手をヒラヒラと振った。
こりない人だ。頑固という点では僕も同じだけれど。
短く息をついて、僕はピアノの前まで移動した。
キャスター付きの、いかにもな学校用のグランドピアノ。屋根は降りていて、滑らかな黒色のカバーが被さっている。道具の管理が雑なのか、屋根用の突上棒は脚柱に立てかけられていた。
当たり前のように閉じている鍵盤蓋。その真ん中に指をかけ、僕は姿勢を正した。
毎夜、この瞬間が一番、緊張する。
静かに、ゆっくりと、僕は鍵盤蓋を持ち上げようとした。
しかし――僕の手は、蓋に触れることなく、すり抜けていった。
屋上の扉を通り抜けたように。足音もさせず廊下を歩いた時のように。あるいは音楽室の壁を、透過して入ったように。
幽霊である僕の身体は、物に触れることができない。
それでも僕は、ピアノが弾きたかった。
死んでいても――この先どうなったとしても、叶えたいことがあったから。
僕は何度か持ち上げるような仕草を繰り返した。
いくら神経を研ぎ澄ませようとダメ。自然体で頭を空っぽにして試そうが、やっぱりダメ。
悔しい。また失敗した。泣けるものなら泣き出したい。
僕は肩を落としながら、すごすごとピアノから離れた。
「およ、諦めた? そんなら、おっさんと話そうぜぃ」
あぐらに座りなおしたヒゲ先生は、待ってましたと言わんばかりの表情で手招きしている。
「嬉しそうですね」
「そりゃあ嬉しいさ。夜は長いし退屈で堪らん。ナリ坊と話すくらいしか楽しみが無いのよ、俺ぁ」
それに付き合わされる身にもなって欲しい。まあ僕も、ピアノが弾けなければ暇なのだけれど。
僕はヒゲ先生の正面に向かって、宙に体育座りした。
「……他の幽霊って、どうして無気力なんですかね」
「やりたいことが無いからでしょ~。プカプカ浮いたり、どっか見つめたりして、いつの間にか消えちゃう奴ばっかだし」
「ヒゲ先生も、やりたいこととかあるんですか?」
「もっちろん。でも内緒」
「ケチですね。僕は教えたのに」
「んはは。ナリ坊って、たまぁに子供だぁね。いや見た目は完全に中坊だけど。長いこと幽霊やってりゃあ、普通は大人びるもんじゃない?」
そうなのかな。よく分からない。僕は『とにかくピアノを弾かなきゃ』としか思わなかったから。
というか、僕は本名だって教えているのに、ヒゲ先生のことは何も知らないじゃないか。自分で先生だと名乗っていたけど、それも本当か怪しくなってきた。上手く流されてそうな気がする。
まあ今更、幽霊に不審者も何も無いか。
「なら大人として、ヒゲ先生も一緒に考えてくださいよ。どうすればピアノが弾けるようになるのか」
「いや無理っしょ」
「諦めるの早すぎますって! ちょっとは考える振りをしてください!」
「てかさ、ウチら物には触れないわけじゃん? この時点で詰んでるのよ。音すら出せないんだからさ」
「……こうやって会話できてるのも、喋ってるのとは違いますからね」
「そうそう、テレパシーっての? 以心伝心みたいな」
耳で聞くのとは違う、黙読した時みたく相手の言葉が分かる。これが幽霊特有の対話だと気付いたのは、ヒゲ先生と出会ってからだ。
「不思議な力、ですか。それが利用できれば」
「あ~、ポルターガイスト的な?」
僕は聞き慣れない単語に、首を傾げた。
「ぽる……なんですか、それ」
「ポルターガイストだよ。知らない? オカルトの、心霊現象ってヤツ。なんも無いところで破裂音がしたり、物が浮いたりすんの」
思わず口を開けたまま、僕は呆けてしまった。
心霊現象。お化けとか、そういう類の話。
バカだ僕は。どうして現実的なことばかり考えて、そっちの方を意識しなかったんだ。
僕自身の存在が、まさに心霊現象だというのに。
動かせて、音も出せる?
つまり、それって――――
「お~い、ナリ坊~、生きてっか~」
「目の前で手を振らないでください。あと僕は死んでます」
「……悪かったよ。冗談でも悲しくなるから、『死んでる』とか言わんでくれぇ」
落ち込んでるヒゲ先生を他所に、僕は再びピアノの方へと向かった。
決して触れない鍵盤蓋に、そっと人差し指を這わせる。
「ヒゲ先生。そのポルターガイストって、どうやったら出来るんですか?」
「いや分からんて」
「だから考える振りでも良いので!」
「ちょっと興奮しなさんなって! いつものクールなナリ坊に戻ってよぉ。俺も必死に考えるから!」
「……すみません。焦りました」
「ああいや、ごめん。気持ちは分かるんよ。俺だって邪魔したいわけじゃないしさ。ナリ坊に弾いてもらいたいってのは、マジに思ってるから」
幽霊の身で自由自在に物が動かせるなら、どれだけ幸せなことか。それはヒゲ先生だって同じなはずだ。
これは、もう僕一人の問題じゃない。冷静に、けれど確実に、前へ進みたい。
「そうだナリ坊、怒ってみてよ!」
「せっかく人が落ち着こうとした矢先に、どうしてですか⁉」
「いやさ、ポルターガイストって悪霊の仕業とか言われてんだよね。ほらウチらも幽霊なわけじゃん? ワンチャン悪霊っぽいことすれば出来る気がして」
「……一応、試してはみますけれど」
いきなり怒れと言われても。情緒不安定でもないのに、どうすれば。
鼻息荒く、期待の眼差しを向けるヒゲ先生。そんなに見ないで欲しい。本番には慣れているけれど、得意というわけでもないんだ。というか、まずはヒゲ先生が、自分で試してみれば良いのでは。
あ、なんだか無性に腹が立ってきた。
「う、うわあああ!」
勢い任せでスカっと空振る。
振り上げた両手が、行き場を無くしていた。
音楽室は依然、静寂に包まれていた。
無駄に叫んで、虚しさだけが胸の中を一杯にした。
「あ~怒りじゃなかったか~。お次は恨みとかで、どう?」
「どう? じゃないです。僕で遊ばないでください。本当に恨みますよ」
これじゃあキリがない。やり方が合っているのかも分からないし。
僕は一呼吸して、整理してみることにした。
ヒゲ先生の口ぶりによると、ポルターガイストは怒りとか恨みとか『強い感情』によって起きるのだと思う。
幽霊が、死んでもやりたいこと。
なら僕にとって、それはピアノを弾くことだ。
親の為にするんじゃない。クラシックに縛られたくもない。もう一人で弾くのは嫌だ。
強要されない、楽しく自由な曲で――
「誰かとセッションして、コンサートを開きたい!」
不意に僕の指先が、熱を帯びた。
ガタン、という大きな音と共に――鍵盤蓋が開く。
その響きは、静まり返った学校中に伝わりそうで。
「ぃよっしゃあー!」
続けざまに聞こえた『パン』と手を鳴らす音にも、僕は驚いてしまった。
「……ヒゲ先生、今の」
「……マジか?」
久しぶりに聞いた音は、とても心地が良かった。





