第一章3話「私じゃないんだ」
「……何の御用でしょうか?」
声のよく通る、長い髪を一つに纏めた女性がこちらを見つめていた。
「あ、あの求人募集を見て」
咄嗟に口を開いたが、内心焦っていた。なぜ、こんなに速いのか。門から洋館まで相当な距離があったはずだ。この女性は只者ではない。カズハは自然と身構えていた。しかし、怪訝な顔をした女性の口からは信じられない言葉が紡がれた。
「求人募集……?生憎、私には分かりかねますが」
「……え?」
「ですから、私共は求人募集など……」
やはり、幻だったのだろうか。コンビニで見かけた時も他の人には見えていなかった。だとしたら自分は紛れもない不審者である。相当まずい。
「あの、えっと……」
必死にここから逃げるための策に思考を巡らせていると、女性が「ああ」と何かを思い出したように呟いた。そして、呆れたような顔をしてため息をついた。
「研究所、ですか……。あの男……」
確かに『研究所』と聞こえたが、その後はよく聞こえなかった。女性は咳払いを一度挟み、改まる。
「いえ、お気になさらず。兎に角、中へご案内致しますので」
女性は門を中から開けて奥を手で示した。
***
庭が広すぎる。もう10分は歩いたが、まだ着かない。カズハは小声で呟いていた。
「まだ着かねぇのか……」
すると、前を颯爽と歩いていた女性が止まって振り返る。自然とカズハの足も止まる。女性は先程も見せた呆れ顔をしてから、カズハを鋭く睨んだ。どうやら聞こえていたらしい。
「すんません!」
カズハは潔く謝罪をした。女性はカズハを睨みつけたまま口を開く。
「確かに、ここは初めての方には少々奇怪な場所でしょう。ですが、ここで働く気があるのなら、少しは誠意を見せていただかなければ」
チグサの言う通りだったのかもしれない。門をくぐった瞬間、カズハが感じたのは寒気と威圧感だった。この女性も、この屋敷も並々ならぬオーラがある。チグサの、感情の抜けた顔を思い出す。そして女性を見返して、目を合わせた。
―チグサもこの突き刺さるような視線を浴びたのだろうか。
女性はさらに声に不審感を募らせ、視線が鋭さを増す。
「何ですか?その目は」
気づけば、カズハも自然と睨み返していたらしい。ここでトラブルを起こすのは良くない。しかし、どう取り繕ったら良いのか、カズハには皆目見当もつかなかった。元々頭を使うのは専門外だ。
「だんまりですか。まあ良いでしょう。貴方にはここから去っていただきますから」
女性が一歩踏み出し、あっという間にカズハの目の前に拳があった。拳を真正面から受けて後退る。鉄の味がした。口の中が切れている。
「なんで急に……」
「決まっているでしょう。私が、貴方をこの場所に立ち入るに値しないと判断したからですよ」
女性は交互に、自分とカズハを指し示しながら答えた。彼女は本気でカズハを追い出そうとしている。応戦するしかないのか。仕事のこともあり、暴力沙汰には慣れてはいるが、勝てるはずがない。しかし、言葉を尽くしてこの場を切り抜けられる自信も無い。2人は睨み合い、向き合う。一歩踏み出そうとした瞬間だった。
「待って!!騎士、お客様に失礼だよ!!」
―確かに空気が震えた。
女性のかなり後方、カズハのかなり前方に「女神」が顕現していた。聴こえたのは歌声と間違うほど美しく響く、それでいて聴く者の心を溶かす甘い声。女神、なのかは分からない。ただ、『女神』以外に表す言葉が見つからない。湖を泳ぐ白鳥のような、花の蜜を吸う蝶のような、朝露に濡れる薔薇のような。この世のありとあらゆる『美』を結集したような存在。ふわふわとした肩までの長さの巻き髪に、純白の透き通る肌。長い睫毛と形の良い眉、大きな瞳、薄桃色の頬と唇。華奢な体だが手足はすらりとしていて、バランスの良い肢体。遠くからでもここまで分析できるほど目を引く。カズハは、刹那の間に同い年くらいの少女を舐め回すように見てしまった事実に顔を赤らめた。そして慌てて目の前の女性に視線を合わせ―
もう、誰もいなかった。
女性は美しい少女の元で跪いていた。
「申し訳ありません、ご主人様。私としたことが……」
「反省してくれ。君のことを信用していないわけじゃないけど、いきなり暴力なんて間違っているよ」
少女は女性を怒っているようだが、そんな顔も美しかった。カズハは一連の会話を遠目から見ながら立ち尽くすことしか出来ない。ここからどうしたら良いのか。女性はきっとカズハの話を聞いてくれない。あの少女はどうだろうか。
正直に言えば、カズハはただ家族のために金を稼ぎたいだけなのだ。それが、こんな事態になろうとは思いもしなかった。『主人公』になりたいなどという、身勝手な願いによって。夢など見るべきではない。カズハは思い知った。それでも思考を巡らせる。口の中を血が満たしていく。ただでは帰れないかもしれないが、死ぬわけにはいかないのだ。
―打開策、打開策、打開策。
機嫌をとるのもあまり得意ではない。媚びたくもない。おかしくてちっぽけな意地だ。もしかすると土下座でもしたら許してもらえるかもしれないが、カズハの意地が許さない。
『少しは、誠意を見せていただかなくては』
女性の言葉が脳裏を過る。誠意を見せる。それが今のカズハにできることだ。カズハは駆け出した。2人の元へ。真っ直ぐに走る。走る。向かうカズハに気づくと、女性が少女を庇いながら前に出る。カズハは怒り心頭な女性と大きな目を丸くする少女に向け、頭を下げながら停止した。
「あの!!本当にすみませんでした!!俺、ここで働きたいです!!働かせてください!!」
精一杯の謝罪。これが、カズハの打開策だ。シンプルで、ありふれた答え。一回の謝罪に、ありったけの感情と想いを込めて叫ぶ。すると、少女が女性に囁く。
「ねえ騎士、私はこの子と話がしたくなったよ」
女性は不本意そうに返し、道を譲る。
「……ご主人様がそう仰るならば」
「ありがとう」
少女が女性の脇を抜けて前に出る。甘い香りが漂う。カズハはまたもや自身の顔が熱くなるのを感じた。どこまでも美しい少女だ。欠けている所などどこにも―
―あった。
頭を下げたままだったカズハは彼女の左足に注目する。彼女の左足の膝から下は義足だったのだ。全く気づかなかった。否、気づかれないようにしていたのだ。頭を下げたまま目を見開くカズハ。すると、それを察したように少女が恥ずかしそうに言う。
「あはは……気にしないでくれよ。誰のせいでもないんだ。いや、私自身のせいかな。それよりも、君の顔をもっとよく見せてよ」
顔を上げるように促され、勢いよく体を元に戻す。少女の顔を見下ろす。やはり美しい。
少女がカズハと目を合わせ、軽く咳払いをする。そして、にっこり微笑んだ。
「まず、自己紹介をしようか。私は大和川琥珀。あの子は騎士。私の護衛……いや、騎士だよ。君の名前は?」
大きな目に見つめられ、どんどん体温が上昇していくのを感じる。
「お、俺は、清瀬一葉です!よろしくお願いします!!」
少々声が上擦った。
「うんうん、カズハくんね。よろしくねぇ。ようこそ、私は君を歓迎する」
―採用、ということだろうか。ここまでが過酷すぎて、カズハは涙ぐんだ。
「はい!ありがとうございます!!!」
勢いよくお辞儀をした。内心この場を切り抜けられたことに安堵し、ガッツポーズを決めていた。『主人公』になれずとも、非日常が待っていることは確かだ。世界屈指の美少女の元で仕事……考えただけで頬が緩んだ。
「だけどね」
一筋縄ではいかないらしい。何か条件があるのだろうか。
「雇ったの、私じゃないんだ」
「え」
とてつもない衝撃が頭を駆け巡った。
「そろそろ帰ってくると思うから、中で待とうか。おいで、案内するよ」
堪えていた涙がとうとう一滴頬を伝っていった。
「嘘だああああああああああ!!」