第65話
葵が床を滑らすように冬樹のほうへ放ったスマホはそのままの勢いで冬樹の頭にコツンとあたった。子犬に顔を舐められ続けている冬樹は、気だるそうに目だけを動かし自分の頭に勢いよく当たったものの正体を確かめる。
(なんだよ、眩しい…)
薄暗い廊下で煌々とその画面を点しているスマホのあまりの眩しさに思わず眉を顰める冬樹。その目線の先には、そのスマホを恨めしそうな、うらやましそうなそんな目で見つめている葵の姿があった。ドブネズミは大きな鼻先を葵に押し当て、ご飯の香りを楽しんでいるらしい。
(あぁ、葵は死ぬんだな)
目の前で死にゆく幼なじみの姿をぼぉっと眺める冬樹。けれど待てど暮らせど、幼なじみがドブネズミに咀嚼されない。とうとう暇になった冬樹ははて、どうして葵はスマホを投げたのかそんなことを考える余裕が出てきた。冬樹の目線の先には、いまだ画面の明かりが消えないスマホと壁際に追い詰められた幼なじみの姿がある。廊下が薄暗く気が付かなかったが、スマホの明るい画面であたりがほんのり照らされたことで、どうやら葵の右手のあたりに大きな通気口があるらしいことがわかる。
(…通気口か。外、もう一度見たかったな、海…)
その時、冬樹の中ではこれまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。小さいころ、葵とよく家で遊んだこと。小学生のころ、光春と大喧嘩したこと。葵が海でおぼれかけた時に助けたこと。あぁ、俺の人生ってずっとあいつらと一緒だったんだな。らしくない言葉が浮かんでくる。
(そうか、葵がスマホを投げたのって)
冬樹は最後の力を振り絞って、この薄暗い廊下から暖かな太陽の下へと戻ろうと葵のスマホを掴んだ。
「おい、ワン公!!ほらとってこい!!!」
自分の顔をずっと舐めていた、子犬の目の前に明るく輝くスマホをひらひらさせ興味を引くと、冬樹はそのスマホを思いっきり投げた。それを目で追うよりも先に、子犬は尻尾をぶんぶんと振りながらスマホを追いかける。
今しかない。
冬樹は勢いよく立ち上がると、大きく助走をつけドブネズミの横腹に鋭い蹴りを入れる。
「冬樹…?」
「あぁ、冬樹だぞ。葵、俺がこいつと戦ってる間に、そこの換気口に」
冬樹は葵の右側にある通気口を手早く指さすと、食事の邪魔をされて激怒しているドブネズミと対峙する。
「でも、それじゃあ冬樹は⁈」
「大丈夫だ、俺にいい考えがある」
冬樹は、自身に満ち満ちた目で葵のことを見つめる。不安な目で、冬樹のことを見つめていた葵は、だんだんと穏やかな目になり、小さくうなずいた後、通気口の中へと消えていった。
「よっしゃ、ドブネズミ!!かかってこいや」
冬樹の雄たけびが戦いのゴングとなって、ドブネズミは冬樹のほうへと突進してくる。
冬樹はそれをひらりとかわし、ドブネズミの後ろに回り込む。獲物が目の前からいなくなったドブネズミは、素早く方向を切り替え再び向かってくる。
「俺たち、こんな薄暗いところで終わるわけにはいかないんだよ」
冬樹も勢いよく助走をつけ、次は体を大きくそらすことでドブネズミの腹をなぞるように反対側に抜ける。ドブネズミは、二度も同じ手で冬樹に逃げられたことにいら立ちが隠せない様子で、体を素早く回転させる。長いしっぽが鞭のように冬樹に襲い掛かり、一瞬のスキを突かれ廊下に転がる冬樹。
「まだ、走馬灯を見るには思い出が少なすぎるんだよっ!せめて、もう少し」
ドブネズミに冬樹の言葉など通じるはずもない。獲物の動きを止めたことに満足した狩人はゆっくりと、廊下に倒れている冬樹に近づく。
その時、冬樹の後ろから、大きな鳴き声とともに生乾きの雑巾のようなにおいをまとった空気が押し寄せてきた。
(よし、きた!)
スマホを取りにいった子犬は、大切そうにそれを咥えながらその巨体を現した。
「えらいぞ、ワン公!」
冬樹が顎下を掻いてやると、子犬は嬉しそうに尻尾をぶんぶん振りながら、冬樹に咥えていたスマホを渡した。
「よし、もう少し遊んでやる」
そういうと冬樹は子犬のよだれまみれのスマホを子犬の目の前で2、3回振ると大きく振りかぶり、ドブネズミのいるほうへと投げた。
「とってこい!」
スマホが冬樹の手から離れるのと同時に子犬は勢いよくスマホを追いかけ始める。が、しかし狭い廊下の先にはこちらも大きなドブネズミが。2つの巨体がこんな廊下ですれ違えるはずもなく、大きな音とうめき声とともに二匹は激しくぶつかった。
「ワン公。また、遊んでやるよ」
そういうと冬樹は、葵が消えていった通気口へと姿を消したのであった。
しばらく、四つん這いの状態で通気口を抜けていくと、少し開けた空間があった。
「ふぅ…。ここまでくればぁっ⁈」
冬樹が両手を伸ばし、背伸びをしようとしていると前方からものすごい勢いで何かが突進してきた。廊下よりも暗い通気口で何かが突進してくるなど夢にも思っていなかった冬樹はそのまま、後ろに倒れた。
「いったぁ…」
すすり泣く声と大きな二つのぬくもり。冬樹はすぐに、暗がりで自身を奇襲してきたものの正体に気が付いた。やさしく頭のあたりを撫ででやると、すすり泣く声はより一層大きくなった。
「葵、なんで泣いてるんだよ」
髪をなでながら、冬樹は優しく葵に語りかける。
「だって、今回こそは本当にもう駄目だと思ったんだもん」
「あぁ、俺ももう何もかも諦めかけちまったよ」
「ねぇ、本当に冬樹よね?」
「何言ってんだよ、幼馴染のこと忘れちまったのか?」
「忘れてないからこうやってきいてるんでしょ、ばか!」
「あぁ、それもそうだな」
暗がりで抱き合う二つの命。しばらくの間、二人が離れることはできないだろう。
走馬灯にまた一つ、思い出が増えた。
第2章 「冬樹」完




